説教「新しい命を与えられ」

2021年4月4日、六浦谷間の集会

「復活節第1主日イースター    

                      

説教・「新しい命を与えられ」、鈴木伸治牧師

聖書・エゼキエル書36章25-32節

   ローマの信徒への手紙6章1-11節

   マタイによる福音書28章1-10節

賛美・(説教前)讃美歌21・325「キリスト~」

   (説教後)327「すべての民よ」

 本日はイエス様のご復活をお祝いする礼拝です。聖書に記されていること、それは2000年前の出来事でありますが、現代に生きる私達は、その聖書の証言を事実として信じているのであります。キリスト教の信仰は、一般の人たちにとって、不可解なことを信じているので、理解されないのです。すなわち、主イエス・キリストが神の子として処女マリアさんから生まれたこと、イエス様が十字架に架けられ、死んで葬られますが、三日目に蘇ったこと、この二つのことは普通に考えても考えられない出来事なのです。しかし、キリスト教はこの事を事実として信じているのです。信仰によって信じているのであり、科学的に証明されているのではありません。その後、イエス様は天に昇られたこと、そして、その後は聖霊が降り、お弟子さんたちを立ち上がらせたのであります。その聖霊は、現代に生きる私達を導く神様であることを信じているのです。聖書を読みましても、神様の御力により、不思議な出来事が次々におきています。イエス様により病人はいやされ、驚くべく奇跡が記されています。それらのことも信仰をもって受け止めているのです。しかし、奇跡にしても、そのまま事実を受け止めるのではなく、そのことを通して何が導かれているのか、信仰の導きを示されているのです。ですから、聖書の出来事も昔話ではなく、現代に生きる私達を導く出来事であるのです。イエス様は復活されました。その復活は私達を新しい歩みへと導いてくださっているのです。

 神様が「新しい心を与え、新しい霊」を置いてくださると旧約聖書エゼキエル書は示しています。エゼキエルという預言者は聖書の人々がバビロンという国に滅ぼされ、多くの人々が捕われの身としてバビロンに連れて行かれるのですが、エゼキエルも連れて行かれたのであります。その時はまだ預言者ではありませんでしたが、捕われの身分、それを捕囚と称していますが、捕囚の中で神様のお心を人々に示す預言者へと導かれたのであります。人々は捕囚の苦しみに生きています。異国の空の下で故郷に帰りたいとの思いを持ちつつ、現実の苦しみに希望を無くして生きているのでした。しかし、この現実は聖書の人々が神様のお心に従わなかった審判でもあるのです。人間的な力により頼み、自分の思いをかなえさせる偶像に心を寄せたからであります。

 しかし、神様は捕囚の人々に希望を与えています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」と示しています。神様の審判としての捕囚の生活でありますが、今や審判のときは終わり、神様の新しい民として、神様のお心をいただきながら歩む民へと導かれるのであります。まず清められる。そして、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と示しています。神様のお心が清められた人々に与えられるのであります。神様のお心が与えられる時、かたくなな心、自己満足の心、他者排除の心である石の心が取り除かれるのであります。「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と示しているのであります。

 「石の心」を取り除くのであります。石の心は極めて自分の思いにこり固まっている姿であります。ただ、自分が思いこんでいることで生きているのです。日本語には頑固者という言葉がありますが、頑固者は別に悪い姿ではありません。人の意見を聞かない程度でありますので、悪いということではありません。私たちは大体が頑固な姿をもっています。それに対して、「石の心」は心が何一つ動かないということです。冷たいのです。感動もない。何の動きもない心なのであります。「石の心」を取り去り、「肉の心」を与えると言われています。肉の思いといえば、霊に対立するものでありますが、ここでは「肉の心」は石に対立するものとして示されているのです。「肉の心」は喜怒哀楽を持っています。神様のお心を素直に受け止めることもできますが、悪いことをも受け止めることにもなります。しかし、基本的には「肉の心」は神様のお心をいただき、御心に養われるのです。動きのある心であるということであります。あるときは躍動的に、あるときは消極的に振舞う肉の心であるのです。人間の心であるということであります。その人間の心に新しい心が与えられるのです。喜びと希望に満ちた歩みが始まって行ったのでした。人間の身勝手な歩みではなく、神様のみ心の歩みが始まったということであります。

 新しい始まりを告知しているのが主イエス・キリストのご復活であります。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。安息日とは土曜日であります。聖書の世界では土曜日の安息日は絶対的な日であります。創世記に神様が世界をお造りになったことが記されています。日曜日から始まって、金曜日に創造の業が成し遂げられました。それで土曜日はお休みになったといわれます。従って、人々は安息日は神様の創造の業を賛美し礼拝する日であるとしていました。主イエス・キリストは金曜日に十字架で死に、夕刻には埋葬されますが、土曜日は安息日なのでお墓参りも出来ないのです。それでマリアさんたちは週の初めの日の明け方、日曜日にお墓参りに行ったのであります。

 すると、大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったと記されています。イエス様が十字架で死なれたとき、アリマタヤ出身のヨセフという人が、イエス様の死体を埋葬したと言われます。墓は横穴でありました。穴の中に安置すると、穴の入口に大きな石でふたをしておいたのであります。その石を天使が降って、わきへ転がしたのでありました。墓の入り口付近には番兵がいました。これはマタイによる福音書の27章62節以下に記されていることであります。祭司長たちやファリサイの人々はピラトに言いました。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子達が来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」と進言しています。このような疑いのもとに、墓の前には番兵が見張っていたのであります。地震が起こり、天使が降って来て、石をわきへ転がしたとき、番兵達は、恐ろしさのあまり死人のようになったと記されています。

「恐れることはない。十字架に付けられたイエスを捜しているのであろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われてとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と天使が言われます。婦人達は先ほどから、恐れと驚きをもってお墓の前にたたずんでいたのです。天使のお告げを受けたとき、婦人達は恐れながらも大いに喜びました。そして、急いで弟子達に知らせに行ったのであります。ところが、その途中で復活のイエス様にお会いしたのであります。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と主イエス・キリストは言われたのであります。

復活されたイエス様は、「ガリラヤへ行きなさい」と弟子達に命じています。ガリラヤは主イエス・キリストが弟子達に、神の国に生きることを示した場所であります。ガリラヤの地でお弟子さんたちは導かれ、ガリラヤの地でイエス様は神様のお心を示したのであります。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられたとき、多くのガリラヤの人々が慰めを与えられました。漁師であったペトロさんやヤコブさんとヨハネさん、そして他のお弟子さんたちはガリラヤの地で招きをいただいたのです。

六浦谷間の集会として、今日はイースター礼拝をささげ、お祝いしています。今朝の聖書を示されるとき、ここは六浦の地でありますが、ガリラヤでもあるのです。神様のお導きに生きるとき、その働く場はガリラヤであると示されるのです。2010年3月に、30年間務めた大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園を退任しました。その後、横浜本牧教会の代務者を務めましたが、2010年11月から六浦谷間の集会を開き、今日も導かれています。ここは、まさにガリラヤであるのです。このガリラヤにて、いつも新しい命を与えられているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。主のご復活のお恵みを感謝いたします。新しい命により力強く歩ませてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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