説教「新しい命を歩む」

2017年4月16日、六浦谷間の集会
「復活節第1主日イースター

説教・「新しい命を歩む」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル36章22-28節
    ローマの信徒への手紙6章1-11節
     マタイによる福音書28章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・151「よろずの民」
    (説教後)312「いつくしみ深き」


 本日はイエス様のご復活をお祝いする礼拝です。このことは聖書に記されていることを、それは2000年前の出来事でありますが、現代に生きる私達は、その聖書の証言を事実として信じているのであります。キリスト教の信仰は、一般の人たちにとって、不可解なことを信じているので、理解されないのです。すなわち、主イエス・キリストが神の子として処女マリアさんから生まれたこと、イエス様が十字架に架けられ、死んで葬られますが、三日目に蘇ったこと、すなわち、復活されたこと、普通に考えても考えられない出来事なのです。しかし、キリスト教はこの事を事実として信じているのです。信仰によって信じているのであり、科学的に証明されているのではありません。その後、イエス様は天に昇られたこと、そして、その後は聖霊が降り、お弟子さんたちを立ち上がらせたのであります。その聖霊は、現代に生きる私達を導く神様であることを信じているのです。聖書を読みましても、神様の御力により、不思議な出来事が次々におきています。イエス様により病人はいやされ、驚くべく奇跡が記されています。それらのことも信仰をもって受け止めているのです。しかし、奇跡にしても、そのまま事実を受け止めるのではなく、そのことを通して何が導かれているのか、信仰の導きを示されているのです。ですから、聖書の出来事も昔話ではなく、現代に生きる私達を導く出来事であるのです。イエス様は復活されました。その復活は私達を新しい歩みへと導いてくださっているのです。
この4月は社会も学校も新しい歩みとなりました。今、担っている横浜本牧教会付属の早苗幼稚園でも10日には在園生の始業式、11日には入園式が行われました。前任の大塚平安教会時代、30年間経験してきたことですが、久しぶりに新しい年度の歩みに臨みました。今まで三歳児の子ども達は四歳児の新しいバッチを胸に付けてあげます。今まで四歳児の子ども達には五歳児のバッチになります。子ども達はバッチが変わることで、大変な喜びがあるのです。今までとは違う、一つ大きくなった組になるのですから、バッチへの期待は大きいものなのです。特に年長組のバッチは子ども達にとって憧れのようです。年長組のバッチはお兄さん、お姉さんであり、年中や年少のお友達のお世話をする使命があるのです。新たなる思いが深まっているのであります。小学校の場合はバッチではなく名札でありますので、かわることはありませんが、新しい教科書が新しい気持ちを与えているのではないでしょうか。
 大塚平安教会在任時代、毎月一度でありますが、少年院に行って、そこにいる少年と面接をしていました。その少年達もバッチを付けています。最初は青バッチのようです。何の問題もなく少年院の生活をしていると黄色のバッチになり、間もなく出院になると赤いバッチになります。来月から赤バッチになると言っていた少年がいました。次の月に行って見ると、まだ黄色のバッチでした。「赤バッチにならなかったの」と聞きますと、違反をして延びてしまったというのです。赤バッチは憧れであります。その後、赤バッチになった少年は、何となく違った少年に見えました。新たなる思いで生活していることが分かるのであります。
 新たなる歩みへと導かれています。主イエス・キリストのご復活を信じ、ご復活の主が共におられるという信仰は私たちの歩みを新しくしてくれるのです。

 神様が「新しい心を与え、新しい霊」を置いてくださると旧約聖書エゼキエル書は示しています。エゼキエルという預言者は聖書の人々がバビロンという国に滅ぼされ、多くの人々が捕われの身としてバビロンに連れて行かれるのですが、エゼキエルも連れて行かれたのであります。その時はまだ預言者ではありませんでしたが、捕われの身分、それを捕囚と称していますが、捕囚の中で神様のお心を人々に示す預言者へと導かれたのであります。人々は捕囚の苦しみに生きています。異国の空の下で故郷に帰りたいとの思いを持ちつつ、現実の苦しみに希望を無くして生きているのでした。しかし、この現実は聖書の人々が神様のお心に従わなかった審判でもあるのです。人間的な力により頼み、自分の思いをかなえさせる偶像に心を寄せたからであります。その結果がバビロンの国に滅ぼされるということでありました。
 しかし、神様は捕囚の人々に希望を与えています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」と示しています。神様の審判としての捕囚の生活でありますが、今や審判のときは終わり、神様の新しい民として、神様のお心をいただきながら歩む民へと導かれるのであります。まず清められる。そして、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と示しています。神様のお心が清められた人々に与えられるのであります。神様のお心が与えられる時、かたくなな心、自己満足の心、他者排除の心である石の心が取り除かれるのであります。「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と示しているのであります。
 「石の心」を取り除くのであります。石の心は極めて自分の思いにこり固まっている姿であります。ただ、自分が思いこんでいることで生きているのです。日本語には頑固者という言葉がありますが、頑固者は別に悪い姿ではありません。人の意見を聞かない程度でありますので、悪いということではありません。私たちは大体が頑固な姿をもっています。それに対して、「石の心」は心が何一つ動かないということです。冷たいのです。感動もない。何の動きもない心なのであります。「石の心」を取り去り、「肉の心」を与えると言われています。肉の思いといえば、霊に対立するものでありますが、ここでは「肉の心」は石に対立するものとして示されているのです。「肉の心」は喜怒哀楽を持っています。神様のお心を素直に受け止めることもできますが、悪いことをも受け止めることにもなります。しかし、基本的には「肉の心」は神様のお心をいただき、御心に養われるのです。動きのある心であるということであります。あるときは躍動的に、あるときは消極的に振舞う肉の心であるのです。要するに人間の心であるということであります。その人間の心に新しい心が与えられるのです。新しい霊が与えられるのです。喜びと希望に満ちた歩みが始まって行ったのでした。人間の身勝手な歩みではなく、神様のみ心の歩みが始まったということであります。

 新しい始まりを告知しているのが主イエス・キリストのご復活であります。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。安息日とは土曜日であります。聖書の世界では土曜日の安息日は絶対的な日であります。創世記に神様が世界をお造りになったことが記されています。日曜日から始まって、金曜日に創造の業が成し遂げられました。それで土曜日はお休みになったといわれます。従って、人々は安息日は神様の創造の業を讃美し礼拝する日であるとしていました。主イエス・キリストは金曜日に十字架で死に、夕刻には埋葬されますが、土曜日は安息日なのでお墓参りも出来ないのです。それでマリアさんたちは週の初めの日の明け方、日曜日にお墓参りに行ったのであります。
 すると、大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったと記されています。イエス様が十字架で死なれたとき、アリマタヤ出身のヨセフという人が、イエス様の死体を埋葬したと言われます。墓は横穴でありました。穴の中に安置すると、穴の入口に大きな石でふたをしておいたのであります。その石を天使が降って、わきへ転がしたのでありました。墓の入り口付近には番兵がいました。これはマタイによる福音書の27章62節以下に記されていることであります。祭司長たちやファリサイの人々はピラトに言いました。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子達が来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」と進言しています。このような疑いのもとに、墓の前には番兵が見張っていたのであります。地震が起こり、天使が降って来て、石をわきへ転がしたとき、番兵達は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと記されています。
「恐れることはない。十字架に付けられたイエスを捜しているのであろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われてとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と天使が言われます。婦人達は先ほどから、恐れと驚きをもってお墓の前にたたずんでいたのです。天使のお告げを受けたとき、婦人達は恐れながらも大いに喜びました。天使が、「遺体の置いてあった場所を見なさい」と言っていますが、婦人達が見たとは記していませんので定かではありませんが、天使のお告げをしっかりと受け止め、急いで弟子達に知らせに行ったのであります。ところが、その途中で復活のイエス様にお会いしたのであります。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と主イエス・キリストは言われたのであります。
イエス・キリストのご復活がどのようにしてなされたのか、聖書は記していません。死んで葬られた。三日目に復活されたという告知であります。私たちはこの告知を信じているのであります。科学的には考えられないことであります。しかし、信仰は科学の証明を持って導かれるのではなく、聖書の証言を受け止め、信じることが信仰なのです。主イエス・キリストが世に現れたとき、それは処女マリアから生れたと聖書は告知しています。科学的には考えられないことであります。科学の証明があって信じているのではなく、その事実を信仰を持って受け止め、信じているのであります。復活の主イエス・キリストは厳然と現代の世に生きておられることを信じているのであります。新しい年度が始まり、新しい歩みが始まったとき、復活のイエス様の新しい歩みとお導きが始まっているのです。

復活されたイエス様は、「ガリラヤへ行きなさい」と弟子達に命じています。ガリラヤは主イエス・キリストが弟子達に、神の国に生きることを示した場所であります。ガリラヤの地でお弟子さんたちは導かれ、ガリラヤの地でイエス様は神様のお心を示したのであります。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられたとき、多くのガリラヤの人々が慰めを与えられました。漁師であったペトロさんやヤコブさんとヨハネさん、そして12人のお弟子さんたちはガリラヤの地で招きをいただいたのです。イエス様がお話をするとき、5000人もの人々が聞いており、その人々をパン五つと魚二匹で人々のお腹を満たしたのでした。ガリラヤ湖で嵐のため船を漕ぎ悩んでいたお弟子さんたちに現れ、励ましたのもイエス様でした。多くの病人を癒しています。イエス様のいないとき、お弟子さんたちのもとに、病気の子供が連れて来られ、癒しを求められました。お弟子さんたちは簡単に引き受け、癒そうとしたのですが、できませんでした。そこへイエス様がお出でになり、その子供を癒してあげたのです。お弟子さんたちは、自分達はどうして治せなかったのか尋ねています。イエス様は「祈りによらなければ治すことはできない」と指摘されました。つまりお弟子さんたちは自分の経験によって癒そうとしたのです。かつてイエス様から派遣されて町や村で病気の人を癒したことがあるのです。自分の力ではなく、神様に委ねることを示されたのでした。このようにガリラヤで導かれ、訓練されたのです。復活されたイエス様は、お弟子さんたちをそのガリラヤへ行きなさいと導いているのです。ガリラヤとは、イエス様のお導きをいただいているところなのです。
六浦谷間の集会として、今日は皆さんと共にイースター礼拝をささげ、お祝いしています。今朝の聖書を示されるとき、ここは六浦の地でありますが、ガリラヤでもあるのです。神様のお導きに生きるとき、その働く場はガリラヤであると示されるのです。2010年3月に、30年間務めた大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園を退任しました。その時、私達夫婦の会話は、隠退したらどこの教会に出席するかということでした。2010年9月までは横浜本牧教会の代務者及び早苗幼稚園の園長を務めましたが、それも10月からは退任し、無任所牧師になりました。ですから最初は清水ヶ丘教会や高輪教会に出席したりしていたのですが、2010年11月28日から六浦谷間の集会として、ここで礼拝をささげるようになりました。初めの頃から小澤八重子さんや田野和子さんが出席され、その後、知人の皆さんが出席されるようになりました。隠退して過ごすようになった時にも、神様がガリラヤに行きなさいと示されたのです。ガリラヤは御心にあって生きる場所なのです。ガリラヤに生きるとき、再び幼稚園の園長の職務が与えられ、今でもいくつかの教会で説教をさせていただいています。ガリラヤは新しい命を歩む場であるということです。皆さんもガリラヤへと導かれているのです。ガリラヤにおいて、復活のイエス様が共におられて導いてくださっているのであります。新しい命の歩みへと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご復活のお恵みを感謝いたします。自分の生活の場で、新しい命により力強く歩むことを得させてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン