説教「共に歩まれる主」

2019年5月5日、六浦谷間の集会 
「復活節第3主日

説教・「共に歩まれる主」、鈴木伸治牧師
聖書・ イザヤ書51章1-6節、コリントの信徒への手紙<一>15章50-58節
   ルカによる福音書24章36-43節
賛美・(説教前)讃美歌21・322「天の座にいます」
   (説教後)讃美歌21・457「神はわが力」


5月となり、日本の元号が新しくなりました。今までの「平成」から「令和」になりまた。元号が変わるということで、「平成」への名残りを惜しむ人々、「令和」への希望を述べる人々、いろいろと報道されていますが、私たちは元号より西暦で歩んでいますので、元号が変わることについてはそれほど変化を持ちません。今まで通り、日々の歩みを重ねていきたいと思っています。
このところ雨が続き、寒い日もありましたが、やはり5月は春のお恵みを示されるときであります。いつも書斎から外を見ていますが、大きな欅の木があり、冬の間は枝ばかりでしたが、その枝に初々しい緑の葉が茂るようになり、鳥たちも喜んで休むようになっています。さらに緑の葉が茂ると、鳥たちの宿り木というか、様々な小鳥たちが出入りする様子を見ることができます。欅の木といえば、大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園に在職していた頃、幼稚園の庭に大きな欅の木が二本もありました。春から夏にかけて、緑の葉が大きな木陰を作ってくれて、子供たちにも良い環境でした。しかし、秋になると落ち葉被害が続くのです。毎朝、幼稚園の先生たちが、落ち葉を集めては処理していたことが思い出されます。落ち葉被害ではありますが、その落ち葉の中に転がって遊ぶこともでき、必ずしも落ち葉被害ではなく、お恵みでもありました。以前から、切り倒すことが提案されたりしていましたが、折角ここまで大きくなったのですから、むしろお恵みとして残しておいたのです。そして、いよいよ園長を退任するにあたり、何か記念になるものを購入してもらいたいとして寄付金をしました、すると、後任の園長が、欅の木を取り囲むようにアスレチックを設置したのでした。今まで大事にしてきた欅の木であり、私の退任記念として、誠にふさわしいものであると示されたのでした。そして、そのアスレチックを「のぶらはむのいえ」と命名してくれたのでした。お父さんたちのおやじ組の皆さんが銘鈑を作ってくださり、そのアスレチックに張り付けてくれました。ごく時たまですが、幼稚園に行ったときには、しみじみとアスレチックを鑑賞してくるのでした。しかし、今は欅の木の枝が払われてしまい、以前のように大きな日蔭を作るほどの葉が無くなっています。それはそれで新しい取り組みをしているのですから、よろしいのでしょうが、あの大きな欅の木が懐かしく思われています。
 自宅付近は樹木が結構あり、あちらこちらの新緑を楽しんでいます。改めて神様のお恵みを示されます。緑の葉が豊かになるにつけ、神様のお恵みを示されるのでした。我が家の庭には源平桃の木が植えられており、つい先日まできれいな花を咲かせていました。しかし、今はその花が散り、庭中に花びらが散っています。そして、今は緑の葉が茂る様になり、庭の賑わいになるのです。庭にはいろいろな花が植えられており、連れ合いのスミさんが丹精しているのでありますが、そこには神様のお恵みを示されるのであります。川端康成という小説家が、ノーベル賞受賞の挨拶で「美しい日本の四季」についてお話しされたと言われていますが、季節の移ろいはまさにお恵みでありました。2013年3月から三ヶ月間、マレーシアのクアラルンプールに滞在しました。マレーシアは常夏の国であり、多少の変化はありますが、一年中変化のない季節なのです。季節のない歩みであるということです。そこにある日本人教会の牧師として赴いたのです。毎日、夏の陽射しを受けながら生活しているのです。常夏と言っても、毎日午後からはスコールがあり、その雨で埃はきれいになるのですが、季節の移ろいが無いということは、神様のお恵みを感じなくなるとの思いを持ちました。冬のお恵みも示されていますが、やはり、春になると、新しい息吹を見ることができ、神様のお恵みを示されるのであります。私達は自然の変化によって神様のお恵みを示されるのですが、神様は私達に変わることのないお恵みをくださっているのです。従って、常夏の国であり、季節の移ろいが無いにしても、神様の変わることのないお恵みを示されなければならないのです。

 「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」と聖書は示しています。今朝の旧約聖書イザヤ書51章1節以下でありますが、6節に示されている言葉であります。イザヤ書51章は聖書の人々が、捕われている状況から解放され、故郷の都エルサレムに帰る状況です。しかし、故郷に帰ろうとすると、それを阻止しようとする人々がいます。50年間も捕われの身で過ごし、同じ仲間ではありますが、故郷には希望を持たない人々がいるのです。都エルサレムは滅ぼされた後は、そのまま荒廃したままであり、生活も苦しい生活であり、帰ってもしょうがないと思っているのです。人づてに都エルサレムの噂を聞いているからです。それに対して、故郷に帰りたい人々がいます。それは故郷であるからばかりではなく、都には信仰の中心、神殿があるからです。再び、神殿を中心とした生活に戻りたい、その信仰のゆえに故郷帰還を目指しているのです。今朝の聖書は、帰還を励まし、勇気を与えているのであります。
 「シオンへの帰還」と表題になっています。シオンとは都エルサレムのことです。そのシオンに帰ることは神様のお導きを知るということであります。1節に「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と面白い言い方をしていますが、これは2節に示されるように、聖書の民族、最初の人であるアブラハムとサラの事であります。神様がアブラハムを選び、恵みを与えて導いて来られたのです。アブラハムが祝福され、祝福の基となったのです。だから、いまは苦しくても、神様はアブラハムに祝福を与えたように、あなたがたにも祝福を与えてくださるので、勇気を持って都、神殿のあるエルサレムに帰りなさいと励ましているのです。「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と示しています。帰還を阻止する人々は、エルサレムは廃墟であり、生活することも厳しいと希望のないことを言うのです。イザヤは、決してそうではなく、神様のお恵みがあると人々を励ましているのです。「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」と示しています。
 帰還を求めている人々はエルサレムの神殿信仰を持っているのです。この神殿には、過ぎ越しの祭り、七週の祭り等、歴史において神様が導いてくださった出来事を感謝しつつ集まるのです。400年間、エジプトで奴隷として生き、しかし、モーセを通して救われますが、神様の恵みでありました。ですから毎年、過ぎ越しの祭りを行い、神様に感謝をささげること、人々の生き甲斐なのです。何事も神殿を中心に生活すること、聖書の人々の原点なのです。しかし、帰還を阻止する人々がおりますので、預言者イザヤは神様の絶えることのないお恵みを示し、人々を励ましているのです。お恵みは現実に与えられているということです。いずれ与えられるというのではなく、今ここに、お恵みが与えられていること、そのお恵みにより、力強く歩みなさいと示しているのです。

 今年のイースターは4月21日でありました。2019年度が4月から始まったのですが、教会の暦は多くの場合、イースターは4月に迎えています。これは暦の上なのですが、私達がイースターを示されるということ、それは「共に歩まれる主イエス様」を示されることなのです。私達は主イエス・キリストの導きを与えられていますが、共に歩まれるイエス様のお導きをいただいていることになるのであります。しかし、私達は与えられている「共に歩まれる主イエス様」を認識できないことが多いのです。今朝のルカによる福音書は、復活のイエス様を示されているのに、なかなか現実に信じることができないお弟子さんたちを示しています。
 ルカによる福音書は、24章でイエス様のご復活を記しています。週の初めの日、婦人たちはイエス様が埋葬されているお墓に行きます。十字架に架けられ、死んで葬られているイエス様なのです。ですからさっそくお墓参りに行くのでした。お墓の入口には大きな石でふさがれているはずです。聖書の時代のお墓ですが、横穴に埋葬します。そのままですと動物にあらされるので、大きな石でふさいでいたのです。しかし、別の言い方があります。イエス様はかねてより、十字架に架けられ、死んで葬られますが、三日目によみがえることをお話しされていました。それを聞いている時の社会の指導者たちは、弟子たちがイエス様の死体を盗んでどこかに隠し、イエス様が復活されたと言いふらすに違いない、ということで大きな石でふさいでいたということです。これはマタイによる福音書の報告です。しかし、ルカによる福音書はその様なことは記していません。
 婦人たちがお墓に行くと、大きな石が転がしてあり、お墓の中にはイエス様のご遺体がないのです。そのため婦人たちは途方にくれているのですが、そこへ天使が現れます。そして天使が言われたことは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活されたのだ。ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活されることになっている、と言われたではないか」との言葉で、婦人たちはイエス様の言葉を思い出すのでした。そこで、お弟子さんたちに知らせるのですが、お弟子さんたちは婦人たちの報告を「たわ言」のようだとしたのでした。しかし、ここではっきりとイエス様のご復活が知らされているのです。知らされても信じないお弟子さんたちでした。
 そして二人のお弟子さんがエルサレムからエマオの村へ下っていく途上、イエス様が二人に道連れになったのでした。二人は道連れの人がイエス様であるとは気がつかないのです。しかし、その道連れの人が聖書の話しをしたとき、二人の心は燃えていたのでした。そして、エマオの村に着いたので、二人は道連れの人に一緒に泊まるように勧めます。そして、食事の時、道連れの人がお祈りしてパンを裂いていることで、この方はイエス様であると分るのです。イエス様であると分かったときは、復活されたイエス様は、もはやそこにはおられませんでした。それで二人は再び都エルサレムに行き、お弟子さんたちに復活したイエス様とお会いしたことを報告します。お弟子さんたちも復活したイエス様がペトロさんに現れたと話し合っていたのです。ここまででも、ご復活のイエス様がいろいろな状況の中で現れているのですが、まだお弟子さんたちは確信できないのであります。それで今朝の聖書になるのです。
 お弟子さんたちが共に集まっているとご復活のイエス様が現れます。「あなたがたに平和があるように」と言われながら、お弟子さんたちの真ん中に立ちました。するとお弟子さんたちは亡霊を見ているのだと恐れるのです。今までもご復活を示しているのに、まだ信じられないのです。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」とイエス様は言われたのでした。言われていることは、「まだ信じられないのか」ということです。それで手と足をお見せになるのです。ところが手と足を見せられて、お弟子さんたちは喜ぶのでありますが、喜びつつもまだ信じられなかったというのです。喜んでいるものの確信ができなかったということでしょう。そこでイエス様は、「ここに何か食べ物があるか」と言われました。そこでお弟子さんたちが焼いた魚を差し出すと、イエス様は彼らの前で食べたというのです。復活の事実を示しても、なかなか信じないお弟子さんに対して、イエス様は忍耐してご自分を証されたのでした。イエス様が「共に歩まれる主」であることを示されているのです。

 ご復活のイエス様と出会うということで、時々、「靴屋のマルチン」の物語を示されながら、イエス様が現実に、私達の生活の場におられることを示されるのです。寂しく過ごしている靴屋のマルチンさんに御声が聞こえました。それはイエス様の声でした。「明日、私はあなたのところに行く」ということでした。翌日、マルチンさんところに来たのは、寒さの中で赤ちゃんと共にいたお母さんでした。マルチンさんは家に入れてあげ、暖かいスープを与え、暖かい服を上げたりして送りだしたのでした。それからマルチンさんの家に来たのは、外で雪かきをしているおじいさんでした。そのお爺さんにもマルチンさんは暖かい飲み物をあげたりしました。その後、子供がおばあさんに叱られている状況に立ち会います。おばあさんをなだめ、子供を諭し、仲良くさせてあげたのです。夜になって、マルチンさんは「イエス様は来なかった」と思うのですが、昼間出会った人々がイエス様であることを示されるのでした。
 多くの皆さんとの出会いが与えられています。最近では3月17日に、以前牧師として務めた陸前古川教会の礼拝説教をさせていただきました。その当時、お交わりのあった皆さんが出席され、皆さんと詩を重ねていますが、お元気にお過ごしであり、うれしくお交わりをいたしました。お一人お一人の皆さんとお交わりをしているうちにも、イエス様が皆さんと共に歩まれていることを示されたのです。4月17日には大塚平安教会時代の皆さんが六浦谷間の集会にご出席になられました。礼拝後はいろいろなお話をして過ごしたのでした。皆さんとおマジ寄りをしているうちにも、やはりご復活のイエス様が共に歩まれて折られることを示されたのです。共に歩まれておられるイエス様は、私たちがどのような状況にありましょうとも、共におられるということです。
<祈祷>
聖なる神様。復活のお導きを感謝いたします。絶えることのない神様のお恵みをいただきながら歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげします。アーメン。