説教「イエス・キリストの目的」

2019年5月12日、六浦谷間の集会 
「復活節第4主日

説教・「イエス・キリストの目的」、鈴木伸治牧師
聖書・ 出エジプト記16章4-16節、
   ヨハネによる福音書6章34-40節
賛美・(説教前)讃美歌21・326「地よ、声たかく」
   (説教後)讃美歌21・78「わが主よ、ここに集い」


 今朝は「母の日」とされており、日本基督教団も聖書日課ではありませんが、今朝の主日を「母の日」としています。母の日は、むしろ社会的に重んじられており、母の日の感謝としてプレゼントを贈ることで、商店等は売り込みが盛んであります。もともと「母の日」はキリスト教から始まっています。昔、アメリカの教会学校の先生、その方は女性、一人娘がおりました。その先生が教会学校で、いつもの「神様の愛」についてお話をしていたのです。やがてその先生は天に召されました。その後、先生の娘が母の記念会に、教会にたくさんの花を飾って母をたたえ、感謝したのでした。人々はその娘の姿を感銘深く示されたのでした。それを知った当時のデパートの社長が、5月の第二日曜日を「母の日」として、花や贈り物を奨励したのでした。それからお花や贈り物がお母さんに贈られるようになったのです。それで母の日が発展していくのですが、教会から始まったとしても、やはり最初からデパートに関係したというわけです。
 一般的には、母の日は感謝という内容なのですが、キリスト教が母の日を示されるとき、単に感謝ということではないのです。聖書の旧約聖書出エジプト記20章12節にはこのように記されています。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と示されています。聖書が、「あなたの父母を敬え」と示しているのは、父母は自分よりも人生を長く生きているのであり、それだけ多く神様の御心を示されているのです。神様の御心を知る存在として敬い、感謝しなさいということなのです。聖書は、その意味で年長者、高齢者を敬いなさいとも教えています。人生を長く生きた人は、それだけ多く神様の御心を示されているからです。
 去る5月1日に大塚平安教会からお交わりのあった笠倉昭子さんが天に召され、葬儀が行われました。笠倉さんとは、実に長いお交わりでした。私は1979年に大塚平安教会に赴任しますが、その翌年には笠倉さんの一人息子と出会うのです。大学浪人中であった彼が牧師に話に来たのです。翌年、大学に合格しましたが腰痛で病院に入院するようになりました。しかし、その腰痛は腫瘍であり、結局、手術しましたが、下半身麻痺となりました。その彼をお見舞いするようになり、その時から笠倉昭子さんとお話しするようになりました。彼は発病してから1年半で天に召されたのでした。21歳の若さでした。彼は天に召される1ヶ月前にお父さんと共に病院の病室で洗礼を受けました。お母さんはその年のクリスマスに洗礼を受けました。結局、一人息子の召天が両親を教会に導き、信仰の歩みへと導かれたのです。両親は、その後教会員として皆さんと共に信仰の歩みをするようになったのです。その後、お父さん、笠倉昭子さんのお連れ合いが天に召され、昭子さんご自身も病となり、車いすの生活になっていました。葬儀では思い出をお話しさせていただきましたが、笠倉さんのご家族は神様のお導きを証しされたとお話し致しました。母として、祐一郎さんのお連れ合いとして、神様のお導きに委ねて歩まれたと示されているのです。
 主イエス・キリストはこの世にあらわれて、神様の御心を示されたのです。それは人が御心に生きて永遠の生命へと導かれるためなのです。今朝はイエス様の私たちへの目的をしっかりと受け止め、私たちも永遠の生命へと導かれたいのであります。

 イエス・キリストは私たちを永遠の生命へと導いておられるのです。そのために、現実の生活をも導いてくださっているのです。イエス様が復活されて、まずお弟子さんたちと朝の食事をされています。それはヨハネによる福音書の21章に記されています。復活されたイエス様はもはや見える姿でお弟子さんたちの中にはおられません。お弟子さんたちはイエス様がおられないので何をすることもなく、元の仕事に戻るのでした。ペトロさんは漁師でしたので、これから漁に出ると言うので、他のお弟子さんたちも一緒に行くことになりました。その夜は何も取れませんでした。この地域は日中は暑いので、魚は上には出てこないのです。それで夜になって漁をするのです。朝方になって、浜辺の人が何か言っています。「船の右の方に網を打ちなさい」と言っているのです。一晩中、漁をしたのに何も取れないのです。また網を打ちなさいと言われても、と思うのですが、言われるままに網を打つのでした。するとおびただしい魚が網にかかったのです。その時、お弟子さんの中でもイエス様の愛していた弟子、ヨハネが浜辺の人がイエス様であることを知り、みんなに言います。それでペトロは水に飛び込んで浜辺に向かい、他のお弟子さんたちはたくさんの魚を引き上げて浜辺に向かったのです。浜辺ではイエス様が炭火をおこしており、魚を焼いているのです。そしてイエス様の示されるようにお弟子さんたちは朝の食事をしたのでした。これから何をして生きていこうか、と思っていたお弟子さんたちに対して、イエス様が生活の糧を備え、与えてくださったということです。実に生活を導くイエス様を示されたのでした。イエス様は永遠の生命へと導くために、私たちの生活をも導いておられることを示されるのです。
 今朝の旧約聖書は、生活を導く神様が示されています。奴隷として400年間、エジプトで過ごしていましたが、神様はモーセを立てて奴隷から救い出してくださったのです。そして、神様が示す「乳と密の流れる土地」カナンへと導いてくださるのです。奴隷から解放され、いわば楽園へと導かれていくのですが、旅の途上、食べるものがなくなり、そのことでモーセに不満を述べるのでした。「我々を荒れ野で餓死させるつもりなのか」と迫るのです。この人々の不満を受け止めた神様は、ウズラの大群を飛来させ、朝になるとマナという食べ物を与えるのでした。マナは朝になると霜のように積ります。それを食べることにより約束の土地へと導かれていくのです。神様が不平、不満を述べる人々に対してマナを与えたのは、約束の土地へと導くためなのでありました。従って、人々は約束を信じて日々感謝しつつ歩むことが求められているのです。旧約聖書が、神様が生活を導くのは、約束の土地カナンへと導くためなのです。乳と密の流れる土地、祝福の土地へと導くためなのです。
 聖書の人々がエジプトの苦しい奴隷生活から解放され、神様の約束の土地へと導くのは聖書全体の示しであります。暗い社会にあらわれたイエス・キリストは人々に神様の御心を示し、人々の生活を養いつつ永遠の生命へと導くこと、旧約聖書に示された救いの構図と同じなのであります。

 そこで新約聖書の示しになります。「わたしが命のパンである」とイエス様は示しています。今朝はヨハネによる福音書6章34節からですが、6章22節以下は「イエス様が命のパン」であることを示しています。そこでイエス様とお弟子さんたちの対話がありますが、お弟子さんたちが旧約聖書のマナの出来事を述べたとき、イエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」と言われました。そこで今朝の聖書になるのですが、お弟子さんたち「そのパンをわたしたちにください」と言いました。そこで言われたのが、「わたしが命のパンである」ということでした。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」とイエス様は示されたのです。
 このパンの示しについては導入の部分を見ておかなければなりません。それは6章1節以下に記されています。「5千人に食べ物を与える」との表題で示されています。山にいるイエス様のもとに大勢の人々が集まってきます。その群衆を見たイエス様は、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお弟子さんのフィリポに尋ねるのでした。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。1デナリオンは当時の一日分の日当です。200日分のお金があっても足りないと言っているのです。何しろそこには5千人以上の人々がいたからであります。ペトロが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹持っている少年がいます」といったのですが、「けれども、こんなに大勢の人々では、何の役にも立たないでしょう」と言ったのでした。あきらめきって何もできないと思っているお弟子さんたちでした。その時、イエス様は五つのパン、二匹の魚を祝福したのです。それにより5千人人々のお腹が満たされたのです。
 パンの奇跡を示された人々は、イエス様の後を追いかけてきました。その時、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われ、「朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と示されています。そのようなイエス様の示しをいただきながら、今朝の聖書は神のパンにまで及んでいます。旧約聖書のマナの意味へと言及されたのです。神様のマナは祝福の土地へと導くためでした。今、神からのパン、すなわち「イエス様の命のパン」を食べることへと導いているのです。イエス様のパンをいただくことにより永遠の生命へと導かれるということです。生活の導きを与えつつ永遠の生命へと導くという聖書の示しを受け止めなければならないのです。

 人間は食べて生きています。すべての生き物は日々の生活で食べ物をいただきながら歩んでいるのです。食べて、喜びつつ永遠の生命へと導かれたいのです。その意味では教会はいつも食べる交わりをしています。前任の大塚平安教会時代、クリスマスやイースターの祝会はポトラックの食事をしていました。皆さんが食べ物を持ち寄ってテーブルに並べます。それぞれお皿に取っては喜びつつ食べていました。楽しい食事のひと時です。また、通常は礼拝後に各部会の皆さんが食事の準備をします。おそばの時があり、カレーライスの時があり、皆さんはいただきながら懇談するのでした。
 娘がスペイン・バルセロナに滞在しているので、私たちもしばし滞在しています。印象として食べるお交わりが多いということです。お誕生日にはお友達を招いて食事をいたします。招かれた友達も自分の誕生日にはお友達を招きます。お友達が多いと、いつも食事に招かれているのです。娘もお友達が多いので、いつも招かれていました。私たちも一緒に招かれたのでした。食事の交わりはイエス様の命のパンでもあり、お交わりを喜びつつ永遠の生命への道が導かれるのです。
 しかし、私たちは食べる喜びを持っていますが、世界の中には食べることに困難な人々がいるのです。貧困の国々、難民の人々、その現状をいつも示されています。そのために日本でもいくつかの団体が寄付金を募り支援しています。しかし、その取り組みだけでは救済が困難であります。命のパン、日々のパンが与えられるよう祈りたてのです。
今朝は神様が永遠の生命へと導いてくをださるために、生活の糧を与えて導いてくださっていることを示されました。日々の食事は永遠の命の導きであるであると示されたのです。食べることに重きが置かれているのではなく、日々の生活の導きが与えられているのです。イエス様がお弟子さんたちを伝道するために町や村へ派遣するとき、何も持たないことを奨励しています。必要なものは神様が備えてくださるのです。何よりも神様に委ねて人生を歩むことが示されています。
<祈祷>
聖なる御神様。生活の糧を与え永遠の命を与えてくださり感謝致します。命のパンを求める歩みを導いたください。主のみ名によりおささげ致します。アーメン