説教「支えの御手」

2019年3月3日、六浦谷間の集会 
降誕節第8主日

説教・「支えの御手」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書41章8-16節、使徒言行録28章1-6節
   ルカによる福音書9章10-17節
賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」
   (説教後)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

 3月になり、春の暖かさに向けて歩んでおります。しかし、今朝の教会の暦は、まだ降誕節であります。例年ですと受難節、四旬節を歩んでいるのでありますが、今年は復活祭、イースターが4月21日であり、比較的遅いイースターでありますから、降誕節も長くなりました。しかし、今週の3月6日が「灰の水曜日」であり、次週からは四旬節、受難節になるのであります。主イエス・キリストのご受難、十字架の救いを示されつつ歩むのであります。降誕節はイエス様が世に現れたクリスマスを示され、世にあるイエス様の教え、癒し、奇跡を示されつつ導きを与えられているのであります。今朝はイエス様の「奇跡」を示されます。前週はイエス様の「癒し」を示され、その前は「教え」を示されたのでありました。
 イエス様の「教え」、「いやし」を復習しておきましょう。「教え」については「種蒔きのたとえ」をもって示されました。種を蒔かれる、御言葉を示される私達でありますが、「善い心で御言葉を聞く」ことを教えられました。ただ蒔かれるということではなく、積極的に御言葉が与えられることを求めるということでした。そして、御言葉を「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。さらに、「忍耐して」御言葉による人生を生きるのであります。御言葉を蒔かれても、マタイやマルコが示す「悟り、受け入れ」ても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカによる福音書は、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。
 イエス様の癒しについては前週示されました。イエス様にお願いして病気をいやしていただく時、そこに十字架の信仰が無ければなりません。十字架によって罪が赦された喜びが、癒しを導くのであります。ただ、病気をいやしてくださいと願うのではなく、十字架の赦しをまずいただくことです。そこには神の国に生きる喜び、永遠の神の国に導かれる喜びが一本の線で結ばれ、希望となって行くのであります。この病気を癒してくださいとお祈りしても、神様は聞いてくれなかったと言い続けるのでしょうか。人間は永遠に死なないで生き続けるのではありません。病気が治ったとしても、いずれは死んでいくのであります。癒しを求めたならば、罪の赦しをいただき、永遠の神の国に生きる喜びを与えられることなのです。そこに力が与えられるのです。ルカによる福音書は「今日、驚くべきことを見た」と人々の言葉を記しています。今日、今、神様の救いを見たということであります。イエス様の「いやし」はまず救いが与えられることなのであります。
 そして、今朝はイエス様の奇跡を示されます。病気の人が癒され、体に痛みのある人が治るということも奇跡でありました。さらにイエス様は人々にとって驚くべき、不思議な奇跡を行われています。その奇跡の意味を示されたいのであります。

 今朝の旧約聖書の示しはイザヤ書41章8節からであります。イザヤ書は1章から39章までを書いている人と、40章から55章まで書いている人、56章から66章までを書いている人は異なるのであります。39章までのイザヤ書は紀元前700年代に預言活動した第一イザヤについてであります。大国エジプト、アッシリアの狭間にあって動揺している人々を励まし、神様の御心に生きることを示すのであります。第二イザヤが書いたと言われる40章以下は紀元前500年代であります。背景は聖書の人々が大国バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれます。第二イザヤも連れて行かれたのであります。苦しい異国の空のもとで、神様の導きと救いを示すのであります。56章以下は第三イザヤのものとされています。紀元前300年代が背景ですが、捕囚から解放されて、都に戻ってきますが、荒廃した都、生活の苦しさにあえいでいる人々に神様の導きを与えているのであります。
 特に今朝は第二イザヤから示されています。今、人々はバビロンに捕われて、異国の空の下で苦しみつつ過ごしているのであります。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされたのは何故か。それは人々の不信仰であります。神様の御心に従わなかった審判でもありました。大国エジプトに助けを求め、アッシリアに心を寄せたりしていたのであります。預言者達は人の心ではなく神様の御心に従うよう示すのでありますが、御心を求めることなく、人間の力により頼んだのでありました。こうして神様から見捨てられたようにバビロンに捕われの身になりました。しかし、そのような弱い人々に対し、神様は再び御手を差し伸べておられるのであります。
 「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とイザヤは神様の御心を示しているのであります。この言葉は聖書における神様の人間に対するメッセージでもあります。神様は最初にアブラハムを選び、神様の示す地へと導かれました。「あなたの子孫を天の星のようにする。豊かな大地を与える」との約束を信じて故郷を後にしたアブラハムでした。しかし、現実にはイサクという一人の子であり、土地と言えば妻サラの墓地でしかありませんでした。それでもアブラハムは神様を信じて生きたのであります。その後、イサク、ヤコブと続いて行きますが、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とは神様の御心でありました。聖書の人々が400年間、エジプトで奴隷として生きるのでありますが、モーセを通して救い出します。それも困難な戦いがあってようやくエジプトを脱出するのであります。モーセの後を継いだヨシュアにしても、約束の土地、乳と蜜の流れる土地に定着するまで、やはり困難な歩みでありました。しかし、神様は「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と励ましながら、導いたのであります。聖書の人々がいつも神様を忘れ、見捨てているのでありますが、神様は決して見捨てません。バビロンに滅ぼされ、捕囚としてバビロンにつれて来られ、苦しく生きることになったのは、人々が神様に従おうとしなかったからであり、むしろ神様の審判として捕われの身になったのであります。その時、神様は再び人々を導くのであります。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と示すのであります。
 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」と示しています。聖書の人々の今の状況は捕われの民なのです。自由もなく、困難な状況なのです。どんなにもがいてもどうにもならない状況なのです。このような状況に何か新しいことが起こるのか。強いバビロンの国に捕われの身になっている以上、どうすることもできないのです。どう考えても、どうにもならないということは、極めて人間の考えることであります。しかし、第二イザヤは神様の御心を示しているのです。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と示しています。この神様の御心を信じなさい。あなたの考えではなく、神様が現実に与えてくださる救いの御業を信じなさいと示すのが第二イザヤであります。

 新約聖書ルカによる福音書9章10節から17節が今朝の示しであります。主イエス・キリストの奇跡が示されています。私たちは聖書を読むとき、旧約聖書にしても新約聖書にしても、誠に不思議な奇跡物語を示されます。神様の御業として示されるのであります。前週の「癒し」につきましても、奇跡として示されました。
さて、今朝はイエス様が「五千人に食べ物を与える」ことが示されています。イエス様のお話、神のみ国についてのお話を聞いている人々であります。また、ここでは治療の必要な人々を癒しておられました。ところが、日が傾きかけたので、お弟子さん達は「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れたところにいるのです」とイエス様に言うのでした。するとイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。そんなことを言われてもとお弟子さん達は思います。「わたしたちはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と言うのです。「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と言われても、そんなことができるはずがないと思っています。「わたしたちはこんな人里離れた所にいる」のであり、「パン五つと魚二匹しかない」とお弟子さん達は思っています。しかし、反省しなければなりません。この9章のはじめのところで、お弟子さん達はイエス様から病気をいやす力と権能を授けられているのです。そして町や村を周り、実際に病人をいやし、神の国を力強く教えたのであります。そのような力を与えられて、その報告をしたばかりなのです。「こんなところ」であり、「これしかない」と言うお弟子さん達の考え方なのです。
 イエス様はそこにいる五千人の人々を座らせ、「これしかない」と言った弟子たちに対して、五つのパンと魚二匹を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して人々に配らせたのであります。「パン五つしかない」と言ったことに対して「パン五つもある」とイエス様は示されているのであります。また、「こんなところ」とお弟子さん達はイエス様に言いましたが、こんなところではなく、祝福のところでありました。ここは祝福の与えられるところであり、パン五つもあることが人々の喜びとなったのであります。ここに主イエス・キリストの祝福の奇跡があるのです。イエス様にあっては「こんなところ」ではないのです。「ここは祝福の与えられるところ」なのです。「これしかない」と言いますが、「こんなにも」あるということです。お弟子さん達はイエス様から力をいただいたばかりです。その力を信じて実践したのであります。しかし、現実を人間的にとらえてしまいますので、人間の理解では不可能と言う結論になるのです。人里離れた「こんなところ」であり、たったの「パン五つしか」ないということになります。五千人と言う群衆に対して、何ができるのかと言うことです。しかし、イエス様から頂いた力と権能はどこに行ってしまったのでしょう。神様の力、神様の導きを信じることもできなくなっているのです。イエス様はそのようなお弟子さん達を哀れに思いつつ、「パン五つも」に思いを変え、「こんなところ」との思いを「祝福のところ」へと導かれたのであります。人間の思いではなく、神様の御心に委ねる時、そこに奇跡が現れるのであります。

 私たちも「こんなところ」、「これしかない」との人間的な考えを放棄しなければなりません。神様のお力に委ねることであります。
 私は2010年3月に30年6ヶ月牧会した大塚平安教会を退任しました。その前は宮城県の陸前古川教会で6年半牧会しました。最後の1年間は隣の教会、と言っても車で1時間はかかる登米教会を兼牧しました。二つの教会の責任をもったのであります。登米と言う町は人口8千人です。登米教会は幼稚園があり、町には教会幼稚園しかありませんでした。教会は10人くらいの会員であり、牧師を支えるには幼稚園が必要でありました。町としても教会幼稚園が頼りでありますが、宗教法人の幼稚園でありますので公費を助成できないのでありました。それで幼稚園を学校法人にしてもらいたいとの要望があり、教会としても牧師に定住してもらいたいので学校法人にする決断をしました。それで町側と教会側が学校法人設立準備委員会を設立し、協議することになったのであります。私が赴任した時は、その学校法人設立準備委員会は設立されて数年を経ていました。なかなか進展しないようでした。町の思惑と教会の思いが一致しないということです。このまま協議していても進展しません。それで私は教会の役員会に設立準備委員会を解散することをお勧めし、教会が主体的に取り組むことを提案しました。教会の皆さんも決断してくれました。10人の教会員と言っても、皆さんはかなり年を取られていますし、女性の方がほとんどでした。町の人たちも、こんな小さな教会で何ができるのかと思われたようです。古川の教会に建築屋さん、材木屋さんがおられ、早速相談して建物を建てたのです。設立準委員会を続けていたら、こんなに早く進まなかったのです。教会が主体的に立ちあがった時、幼稚園の歴代母の会の皆さんが立ち上がりました。町中を奔走して寄付金を集めてくれました。教会関係にも募金しました。町も学校法人設立のためにとして助成金を出してくれました。こうして学校法人にするための建物、土地が整備されました。後は書類を提出するだけとなりましたが、私は大塚平安教会に赴任することになったのであります。建物の落成式の時、町の人たちは、「こんな小さな教会が偉大なことを成し遂げた」と言われたのです。
こんな小さな教会、わずかしかない資金でした。しかし、神様が祝福へと導いてくださったのであります。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とは旧約聖書のメッセージであります。このメッセージは私たちに与えられています。主イエス・キリストのお導きがあるのです。「こんなにあるお恵み」、「こんな祝福の場が与えられている」ということ、そのように導かれることが奇跡なのです。神様の御業なのであります。
今年は3月17日の礼拝は、以前、在任していた陸前古川教会の講壇に立たせていただくことになりました。そのための準備をしているところでありますが、兼牧した登米教会を示されています。大きな奇跡を与えられたこと、神様の大きなお導きを示されています。奇跡は、私の存在が今この状況にあることを感謝することが奇跡ということなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。あなたのお導きを感謝致します。私達の現実は神様の奇跡であります。奇跡を喜びつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン