説教「御心と共に」

2019年3月10日、六浦谷間の集会 
「受難節第1主日

説教・「御心と共に」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記6章10-19節、ローマの信徒への手紙10章5-13節
   ルカによる福音書4章1-13節
賛美・(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」
   (説教後)讃美歌21・377「神はわが砦」

本日は受難節、四旬節第一主日であります。前週の3月6日から受難節、四旬節に入りました。この日から40日間、主イエス・キリストのご受難を仰ぎ見つつ歩むのであります。40日間でありますが、日曜日の主日礼拝は含まれておりません。4月20日まで続きます。そして4月21日が復活祭、イースターになります。今年のイースターは比較的遅く、それだけに降誕節が長く続きました。クリスマスは12月25日に定められていますが、イースターの場合は毎年異なります。どのように決まるかと言えば、3月21日の「春分の日」後の最初の満月の後にやって来る最初の日曜日がイースターであります。歴史を通して定め方が議論されてきましたが、今はそのようにしてイースターが決められているのです。3月6日から受難節がはじまりましたが、その日は「灰の水曜日」と言われます。旧約聖書ヨブ記において、ヨブが苦しみの中で灰の中に座ることが記されています。苦しみを現す行為が灰の中に身を置くということであります。灰の水曜日からイエス様のみ苦しみを受け止めるのです。ご受難を示されて歩むのが四旬節、受難節であります。
灰の水曜日から40日間、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ歩むことです。40日間なので「四旬節」と言われ、ドイツ語では「レント」と言っています。この受難節は主イエス・キリストの十字架のご受難を受け止めつつ歩みますので、なるべく質素な生活を過ごすのです。40日間、おいしいものを食べたり、楽しく騒いではいけないとなると、それでは今のうちに楽しもうということになるのです。従って、灰の水曜日の前、一週間くらいを謝肉祭、カーニバルとして過ごすのです。四旬節の間は肉を食べてはいけないとの慣わしに従うので、今のうちに肉をいっぱい食べ、楽しく過ごしましようということでカーニバルのお祭りがあるのです。ローマカトリック教会の中で行われた習慣が今に至っても行われているのです。先日もテレビでリオのカーニバルが紹介されていました。お祭り騒ぎでした。一般の人はカーニバルの意味を知らない人が多いようです。以前、施設の牧師をしていましたが、その施設で秋にカーニバルを開催されるというのです。例年は秋の模擬店とかの名称でしたが、工夫を試みたのでしょう。それで、秋のカーニバルはふさわしくないことを話しました。そしてカーニバルの意味をお話ししたのでした。
私たちは謝肉祭はしませんが、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのです。主の十字架のみ苦しみには決して及びませんが、生活の中で痛みのある生活をすることが必要であるということです。ある方はこの40日間はコーヒーを飲まないとか、いつもバスに乗っていたのに、歩いて電車の駅まで行くとかにより、イエス様の苦しみに与るのです。その生活を克己の生活と言います。克己の生活でできたお金を克己献金としてささげる方もおられるのです。昔は教団から克己献金袋を送られてきましたが、何時のときからか、なくなってしまいました。人に強いられてするのではなく、自分の生活の中で、自分ができる克己の生活をしつつ、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。それが私たちに与えられる命に至る道なのであります。「命」とは祝福の歩みであるということであります。今も祝福、死んでも祝福、それが命であります。永遠の生命への道なのであります。私達はこの世に生きており、この世はまさに荒れ野であります。この荒れ野を主イエス・キリストが先立ちたもうて歩み、導いてくださっているのです。

 今朝の旧約聖書申命記であります。申命記の原典は「言葉」との題がつけられました。それはモーセが聖書の人々に言葉を語り聞かせたからであります。すなわち、申命記モーセの聖書の人々への説教が語られているのであります。苦しいエジプトの奴隷時代から始まって、神様の導きの故に荒れ野の40年間、海の中を渡り、マナという食べ物を与えられながら歩んできたことは、神様の恵みであると語るのです。そういう意味で題を「言葉」にしてありました。しかし、日本語では「申命記」としています。命を申し渡すという意味合いになります。モーセの説教集でありますから、神様の御心を示されることであります。まさに命を申し渡される書でもあります。
 モーセの説教と言うことでありますが、どこで語られた説教なのかということです。それは申命記1章1節から5節に記されています。聖書の人々はエジプトで400年間、奴隷として苦しく生きていました。神様はモーセという人物をお立てになり、エジプトの奴隷から解放したのであります。そして神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンへと荒れ野の旅が始まりました。エジプトを出た聖書の人々はシナイ山の麓でしばらく宿営することになりました。その時、モーセシナイ山に登り、そこで神様から人々の生きる指針となる十戒を授けられたのであります。従って、人々はその十戒を中心にして、守りながら歩むことであります。荒れ野の40年が終わり、今、神様の約束の土地を目の前にしています。「ヨルダン川の東側」で、モーセは歴史を振り返りながら、十戒の教えを人々に示すのであります。今から新しい土地に入り、新しい生活が始まるのです。荒れ野の40年の神様の導きを示します。そして、いかに人々が不信仰であるかも指摘するのです。祝福の歩みをするのは、ただ十戒を守って生きることであります。今朝は6章でありますが、5章においてモーセ十戒を示し、十戒を守って生きるように教えているのであります。
 今朝の申命記は6章10節以下19節であります。この章は、「唯一の主」について示しています。10節「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満腹するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだされた主を決して忘れないよう注意しなさい」とモーセは神様のお導きとお恵みを示しています。荒れ野の40年間、人々が自分で切り開いてきたのではありません。むしろ、人々は不平を言い、不満をモーセにぶっつけながら歩んできたのです。今、約束の土地を目の前にして、自分達の成果などと決して思ってはならず、ただ神様のお導きであること、お恵みであることをしっかりと受けとめなさいと示しているのであります。だから「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」と示しています。「主の御名」と言う場合、その御名は「救いと導き」なのです。
 2月24日のメッセージは「いやすキリスト」でした。そこで「主の御名」について示されました。使徒言行録3章1節以下は、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な人を癒したことが記されています。午後3時の祈りの時、彼らも神殿にお祈りするために行きました。すると、「美しい門」のところで、生まれながら足の不自由な人が施しを求めており、通りかかったペトロとヨハネにお願いするのです。すると、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いつつ、彼の右手を取って立ち上がらせたのであります。歩けないと思いこんでいる人は、右手を引かれるままに立ちあがりました。歩けるようになったのであります。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とペトロが言う時、「イエス・キリストの名による」とは十字架上で血を流し、人間の罪を滅ぼされ、贖われたイエス様の福音によって立ちなさいということなのです。赦しをしっかりと受け止めるということなのです。赦しを与えられることにより希望が与えられ、永遠の神の国に生きる平安が与えられ、癒しが与えられるのです。
 今、モーセは「主の御名」を示しています。聖書では「主の名をみだりに唱えてはならない」と十戒に示されています。それで神様のお名前「ヤハウエ」と言わないで「アドナイ」(主)と言い換えています。アドナイと言う時、神様のお名前であり、主の御名には救いと導きが与えられているのであります。こうしてモーセは荒れ野の40年を示しました。さらに荒れ野を生きることになりますが、「主の御名」を示されながら歩むのでした。

 そこで主イエス・キリストの荒れ野の導きを示されるのであります。イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことが記されています。ルカによる福音書は、イエス様がヨハネからヨルダン川で洗礼を受けて帰ったところであります。そして霊の導きにより荒れ野を引き回されたとしています。マタイの場合は断食をしたということでありますが、荒れ野にいるので何も食べなかったというのがルカの設定です。そして40日が終わると悪魔が誘惑するのであります。第一の誘惑は「食べる」ことの誘惑です。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言うのです。イエス様はこれから社会に出て行き、宣教を展開します。それには体力、生活の糧が必要です。悪魔はまず生活の糧の誘惑を与えているのです。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない、と書いてある」と言われるのです。書いてあるというのは申命記8章3節以下です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためである」との聖書の言葉なのであります、
 次に悪魔はイエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見させます。「もし悪魔を拝むならば、これらのものを皆あげよう」と言うのでした。この世の権力、繁栄であります。イエス様は世の中に出て行くにあたり、バックアップが必要であります。支えがあって宣教活動が展開されるのです。悪魔はそういう誘惑をしているのです。それに対してイエス様は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、と書いてある」と言われました。この言葉は今朝の聖書、申命記6章13節の言葉です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」との聖書の言葉なのです。そして、三つ目の誘惑です。マタイの場合は権力と繁栄の誘惑は最後であり、二番目が神様を試みることでした。ルカは試みの誘惑は三番目になっています。悪魔はイエス様を神殿の屋根に立たせ、飛び降りなさいと言っています。下の石に打ちつけられる前に、神様は天使を送って支えてくれるというのです。それに対してイエス様は、「あなたの神である主を試してはならない、と言われる」と答えたのであります。この言葉は申命記6章16節の言葉で、やはり今朝の聖書であります。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」との教えでした。
 聖書には「マサ、メリバ」の示しが意味深く示されています。出エジプト記17章に記されます。エジプトを出て約束の地へと目指していますが、人々は飲み水が無いと言ってモーセに詰め寄るのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と言うのです。聖書の人々はその前に神様の豊かな恵みをいただいたばかりなのです。すなわち、食べ物が無く、モーセに詰め寄ったとき、神様はマナという食べ物を与えました。毎日マナが与えられ、決して飢えることが無く生きる者へと導かれているのです。今度は水が無いと言って不平、不満を述べています。不平、不満こそ神様を試すことであるということです。神様はモーセが持つ杖で岩を打ちなさいと命じました。そこで水がわき出たのであります。そこでその場所をマサ(試し)、メリバ(争い)と名付けられたのでありました。マサ、メリバは神様を試してはならないことの教えとして、いつもこの言葉が出てくるのであります。荒れ野における悪魔の誘惑は、荒れ野すなわち社会であります。社会に生きるとき、生活の糧の誘惑があります。社会における位置付けの問題があります。あるいは試練の課題があるのです。主イエス・キリストはそれらの誘惑を退けられました。この社会の中で私達に先立って歩み、導いておられるのであります。

 私達が生きている社会を「荒れ野」としてしまうことは問題があるのかもしれません。社会の中には親身になって私のことを考えてくれる人がいるのです。昔から、「渡る世間に鬼はなし」と言われますが、「渡る世間は鬼ばかり」とのテレビドラマがあるようです。一度見たようでもありますが、その後見ることはありません。要するによく見えても、悪いことが付きまとっているということでしょう。この社会が荒れ野であると聖書は示していますが、その社会に私達が生きるとき、まず主イエス・キリストが荒れ野で生き、悪魔と対決しているのです。その対決は私達の日常の出来事でもあります。食べること、社会的保障、神様のお支え等、常に求めていることであります。しかし、イエス様は「何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかと思い悩むな」と示し、それらのものは神様がちゃんと備えてくださっていることを諭し、私達が必要なことは「まず、神の国と神の義」を求めることだと教えておられるのです。イエス様の荒れ野の勝利はそこに根源があるのです。まず神の国を求めること、神様の御心を求めることだと示しておられるのです。
 この世が荒れ野であるとは、旧約聖書創世記の初めにも示しています。万物の始め、すべては混沌として、何がなんだか分からないような状況でした。神様はそこに言葉を与えるのです。すると形あるものができあがっていくのです。神様はこの現代の荒れ野に言葉を与え、導いておられるのです。そして荒れ野の戦いに勝利したイエス様の導きに委ねることを示しているのであります。荒野において悪魔との戦いは、すべて神様の御心によりました。御心をもって歩まれた主イエス・キリストでありました。私たちはイエス様に導かれて、御心のままに歩みたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。荒れ野において誘惑を退けたイエス様の導きを感謝致します。ただ、御心を求めて歩ませてください。主イエス・キリストに御名によっておささげします。アーメン。