説教「救い主が来られる時」

2019年12月1日、六浦谷間の集会
待降節第1主日」 アドベント

 

説教、「救い主が来られる時」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書52章7~10節

   ローマの信徒への手紙11章17~24節
   ヨハネによる福音書7章25~31節
賛美、(説教前)讃美歌21・241「 来りたまえわれらの主よ」

   (説教後)493「 いつくしみ深い」

 


今年も、早くも待降節になりました。主イエス・キリストの出現を心から待望する歩みとなるのです。クリスマスはイエス様のお生まれになられた日としてお祝いし、その日の来るのかを待ちわびる、と言うことが社会の人々の思いです。しかし、聖誕を待ちわびること、一つの意味がありますが、ただお祝いする日を待つというのではありません。キリスト教イエス・キリストの聖誕と共に、主の再臨の希望を待望しているのです。イエス様は2000年前に既にお生まれになっているのです。この世に現れ、神様の喜びの福音を示し、それでも真実に神様の御心を知ることができない人間をお救いになるために十字架にお架りになりました。死んで葬られ、しかし三日目に神様の御業により甦り、復活されました。そして40日間、ご復活を人々に証されました。そして昇天されたのです。イエス・キリストの昇天後は聖霊の時代となります。神様が聖霊の導きを与え、十字架の救いの確信を与えておられるのです。そして救われた人々は、再び主イエス・キリストがお出でになるという再臨信仰を与えられ、いつ再臨の主が現れても良い信仰をもちつつ歩んでいるのです。従って、クリスマスはイエス様のお生まれになった日を待望して、その日にはみんなでお祝いをするのではなく、クリスマスを待望するということは再びイエス様がこの世に現れることをクリスマスにより深められるのです。クリスマス飾りを華やかにするというのではなく、むしろ畏れをもってクリスマスを待望するのです。現れる主イエス・キリストの前で信仰の証が祝福されるかということです。
待降節第一週は一本のローソクに火が点灯します。次週は二本になり、クリスマスが近づくにつれ、次第に世の中が明るくなることを示しているのです。イエス様が来られる時、この光の中に存在していたいのです。

 旧約聖書イザヤ書52章が示されています。表題にも示されていますように、神様が王様になって、捕われの人々、荒廃している都に住む人々を励まし、希望を与えているのです。イザヤ書は、状況的には、聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれ、異教の空の下で苦しみつつ、悲しみつつ過ごしている状況です。その人々をイザヤは励ましています。52章1節、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」と言っています。シオンは都のエルサレムのことですから、荒廃した都に生きている人々を励ましているのです。荒廃した都であるが、ここにこそ主がおられるのであり、神様がどこかに行ってしまったということは決してない。6節、「それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』というものであることを知るようになる」とイザヤは宣言します。「ここにいる」神を知ること、すなわち神様は「有って有るもの」であり、だから「ここにいる」神様であることを示しているのであります。孤独に生きる人々への神様の慈しみを知りなさいということです。
 イザヤは神様の絶大な救いを示していますが、それは人々が曖昧な姿勢でいることの反省でもあります。5節を見ると、「そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる」と記されていますが、神様を真実仰ぎ見ない姿勢を指摘しています。「見よ、ここにいる」神様を真実仰ぎ見ないで、いたずらに悲しみ、神様に救いを求めない都の人々への警告でもあります。確かにイザヤの励ましで神様を仰ぎ見るのです。しかし、荒廃した現実にうずもれてしまい、神様の救いを待つことはなく、ただ現実を悲しむだけなのでありました。あなたがたは「見よ、ここにいる」神様を知るようになる。しっかりしなさい、いつも曖昧な態度で神様を仰ぎ見ようとしているのですか、とも言っているのです。神様の慈しみが与えられているのですから。
 曖昧な信仰、どっちつかずの信仰が戒められています。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされるのは曖昧な姿勢、どっちつかずの態度であったからでした。神様の御心に従うのではなく、力の強いエジプトやバビロンに傾くことで頭を悩ましたからでした。極めて人間的な考えで道を切り開こうとしたのです。聖書の人々は何よりもまず神様の御心によって生きるべきなのです。確かに御心に求めることがありました。しかし、人間の力関係に重きをおいたり、常に岐路に立ち、進むべき道を決めかねていたということなのです。神様の御心のままに生きるのか、人間の思いで歩むのか、曖昧な生き方は真の方向を定めることができないのです。イザヤはそのような人々に神様が我々の王様となって、良い方向へと導いてくださることを示しています。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」とイザヤは宣言します。神様の御心以外に気持ちを向けるな、曖昧な姿勢は止めなさい、どっち付かずの生き方は終わりとしなさいと示しているのです。

 私達は主イエス・キリストに対してどのような姿勢をもっているのでしょうか。姿勢ではなく、どのような信仰を持っているかということです。新約聖書ヨハネによる福音書7章25節以下の聖書は、曖昧な信仰、どっちつかずの信仰を戒めています。この7章はイエス様に対して、どっちつかずの姿勢の人たちを記しています。最初のグループはイエス様の兄弟たちです。7章1節以下で、イエス様の兄弟たちが、こんなガリラヤにくすぶっていないで、祭りの都に行き、あなたがしていることを都の人々に見せたらどうだというのでした。都で一旗あげなさいというわけです。3節「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない、こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」というのです。イエス様の兄弟たちは、一番上の兄であるイエス様が人々に良い教えをしていることを認めています。また、力の業を行っていることも受止めているのです。普通の人ではないと思っています。しかし、それが神様の教えであり、神様の御業であることを知ることができないのでいます。兄であるということ、しかし偉大なことをしていることを受止めているのです。いわゆる、どっちつかずの関わり方でもあるのです。
 兄弟たちは都で一旗上げなさいと言います。それに対して、イエス様は都には行かないと言いましたが、しかし後になってひと目を避け、隠れるようにして都に上ったのでした。
 どっちつかずの次のグループは都の人々でした。仮庵祭という祭りになり、祭りでは人々がイエス様を捜しています。「あの男は何処にいるのか」と言いつつ捜しているのです。7章12節に、「群集の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群集を惑わしている』という者もいた。」と記されています。ここにもイエス様に対して曖昧な、どっちつかずの人々がいます。イエス様を捜すほど、イエス様の存在が気になっているのです。しかし、偉大な存在と受止めながらも、イエス様を救い主とは信じられない人々なのであります。それで、「良い人だ」と言うに留めているのであります。
そのような状況の中で今朝の聖書になるのです。イエス様がメシアなのか、はっきりと分からないままに論じているのです。「私達は、この人が何処の出身かを知っている。メシアが来られるときには、何処から来られるのか、誰も知らないはずだ」と人々はいっています。つまり、あの人はナザレ村の人だといっています。ヨハネによる福音書1章43節以下に、フィリポがナタナエルに、昔から現われると言われてきた救い主に出会ったと言います。すると、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い、フィリポの言葉を否定するのです。ナザレ村は人々からは評価されていないということです。今朝の聖書も、「何処の出身かを知っている」と言い、イエス様を否定しようとしているのです。しかし、「あの男は何処にいるのか」と言いつつ祭りの都を捜した人々は、イエス様にメシア的な姿を受止めていたのです。しかし、はっきりとメシアであると言えない社会的な状況があったのでした。主イエス・キリストによる真に胸に示される教え、思っても見なかった不思議な業を示されています。まさにこの方はメシアであると信じたのであります。しかし、主イエス・キリストが何処の出身かを知っていることが、曖昧な姿勢になり、どっちつかずの受止め方になっていたのでありました。
神学生の頃、出身の清水ヶ丘教会の講壇に立ち、説教することの招きを受けました。まだ神学生であり、説教するにはその器ではありませんが、証のつもりで御言葉を語りました。出身の教会で、私が中学生の頃から出席し、小学生の頃も教会の皆さんとの触れ合いがありました。小さい頃からの姿を知っている皆さんです。説教中、婦人会の皆さんは涙を拭きながら説教を聞き、また頷いてくれたりしました。礼拝が終わると、皆さんがよって来て、「あの伸ちゃんがねえ、こんなに立派になって」と口をそろえて言われるのです。要するに、小さいころを知っていて、今は説教をする者になっている、大きく成ったものだと言うことであり、別に説教はどうということではなかったのです。「あの伸ちゃんがねえ」で説教を聞いたことなのでした。また、私自身もそんな経験を告白しなければなりません。大塚平安教会出身の牧師を招いて礼拝説教をしてもらうことがありました。彼らの生い立ちやその後の生き方を知っているので、ついそれらの関連で説教を聞くことになるのでした。御言葉を取り次いでいるのに、真に御言葉が示されないと言うわけです。
どっちつかずの人々にイエス様は今朝の聖書7章28節で、「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来たものであり、その方がわたしをお遣わしになったのである」と言われています。
都の人々はイエス様を救い主であると思ったりもしたのです。しかし、出身を知っているので、救い主であるはずがないと思ってしまうのでした。それでいてイエス様の教え、力ある業に深い示しを受けているのです。どっちつかずの信仰をイエス様も戒めています。どっちつかずの信仰は「なまぬるい」信仰とも言えるのです。ヨハネの黙示録は終末に対する教えであります。七つの教会に書簡を送り、それぞれの教会の信仰を示しています。その中でラオディキアにある教会にあてた手紙は次のように指摘しています。「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている』」と示しているのです。ヨハネの黙示録イエス・キリストがラオディキアの教会に「なまぬるい」と戒めていることを記しています。

 降臨節第一主日となり、一本のロウソクが点灯し、光が見えてきました。この光はイエス様のお生まれになる光でありますが、十字架に至る光でもあるのです。イエス様はお生まれになりますが、人々に現われるのは30歳頃であります。そして、3年間、神様の御心を示し、戒律を改めて教えました。現実を神の国として生きることを教えたのです。人々はこの新鮮な教えに従って生きますが、救い主としては受止めることができませんでした。時の指導者達のねたみにより、捕らえられ、総督ピラトの無責任な取り扱いで十字架にかけられてしまうのです。しかし、神様は人間のどうしてもなくならない罪、自己満足と他者排除の姿を、イエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのです。十字架により私の奥深くにある罪が滅ぼされたのです。十字架の救いを信じたので洗礼を受け、イエス・キリストを信じて生きる者へと導かれたのでした。イエス・キリストの降誕は神様の救いの具体的なしるしなのであります。神様のこの私の救いを仰ぎ見つつ歩むことを示されました。
 クリスマスが近づきますと、世の中はクリスマス飾りで賑やかになります。サンタクロースやクリスマスツリー等、美しく飾られています。しかし、あまりイエス様の降誕の場面の飾りはないようです。しかし、教会では馬小屋のイエス様の飾りがあります。博士さんや羊飼いさんたちが、馬小屋でお生まれになられたイエス様を拝んでいるのです。しかしクリスマスはまだなのです。今はイエス様がお生まれになられることを待ち望んでいるのです。数年前にバルセロナに行き、ちょうどクリスマスの時期でした。バルセロナでは日本のように賑やかにクリスマス飾りはしないようです。でも道路にはきれいなイルミネーションがいたるところで飾られていました。そのクリスマス飾りの中でも、馬小屋の飾りがありますが、マリアさんとヨセフさんが飾られていますが、飼い葉おけの中にはイエス様がいないのです。まだクリスマスではないからです。そして25日のクリスマスになると、飼い葉おけにはイエス様が置かれるようになるのです。ミサに出席した人々は、神父さんが抱いているイエス様のお人形にキスをして帰っていくのでした。イエス様が来られる時、真の喜びをもってイエス様をお迎えする姿として示されました。
<祈祷>
「聖なる御神様。主イエス様のご降誕を感謝致します。再び救い主が来られることを信じつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン」

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