説教「恵みを生みだす主の導き」

2015年2月15日 六浦谷間の集会礼拝
降誕節第8主日

説教・「恵みを生みだす主の導き」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書41章8-16節
    使徒言行録28章1-6節
     ルカによる福音書9章10-17節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・125「わかき預言者」、
    (説教後)讃美歌54年版・288「たえなるみちしるべの」

 立春が過ぎて、春の暖かさに向けて歩んでおります。しかし、今朝の教会の暦は、まだ降誕節でありますが、この教会歴も本日で終わります。今週は早くも18日の水曜日からレント(四旬節、受難節)に入ります。この日から40日間、主イエス・キリストのご受難を仰ぎ見つつ歩むのです。ですから、今の時期はカーニバルの時期となっています。キリスト教の国では、受難節の前にカーニバルと言い、受難節になると質素な生活をしますので、それなら今のうちに楽しく過ごしたいと言うことになるのです。おいしいものを食べ、お祭り騒ぎで過ごすのです。この辺りも見学したいとも思っています。昨年10月21日から今年の1月7日まで、二ヶ月半スペイン・バルセロナで過ごしました。娘の羊子のもとに滞在したのです。そんなに長く滞在したのは1月6日の顕現祭を体験したかったからであります。顕現祭には多くの人々が広場に集まり、占星術の学者、スペインでは王様ですが、その王様を中心にみんなで喜びあうのです。現場に行くと群衆で危険があるというので、テレビでその模様を見たのでした。本当にすごいお祭り騒ぎでした。今日あたりはカーニバルでやはりお祭り騒ぎではないかと思います。キリスト教の暦に合わせて皆さんが歩まれていることを示されるのでした。
今週から受難節、四旬節を歩むのでありますが、今年は復活祭、イースターが4月5日になり、比較的に早いイースターになります。主イエス・キリストのご受難、十字架の救いを示されつつ歩むのであります。降誕節はイエス様が世に現れたクリスマスを示され、世にあるイエス様の教え、癒し、奇跡を示されつつ導きを与えられているのであります。今朝はイエス様の「奇跡」を示されます。前週はイエス様の「癒し」を示され、その前は「教え」を示されたのであります。
 イエス様の「教え」、「いやし」を復習しておきましょう。「教え」については「種蒔きのたとえ」をもって示されました。種を蒔かれる、御言葉を示される私達でありますが、「善い心で御言葉を聞く」ことを教えられました。ただ蒔かれるということではなく、積極的に御言葉が与えられることを求めるということでした。そして、御言葉を「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。さらに、「忍耐して」御言葉による人生を歩むのであります。御言葉を蒔かれても、マタイやマルコが示す「悟り、受け入れ」ても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカによる福音書は、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。
 イエス様の「癒し」については前週示されました。イエス様にお願いして病気をいやしていただく時、そこに十字架の信仰が無ければなりません。十字架によって罪が赦された喜びが、癒しを導くのであります。ただ、病気をいやしてくださいと願うのではなく、十字架の赦しをまずいただくことです。そこには神の国に生きる喜び、永遠の神の国に導かれる喜びが一本の線で結ばれ、希望となって行くのであります。この病気を癒してくださいとお祈りしても、神様は聞いてくれなかったと言い続けるのでしょうか。人間は永遠に死なないで生き続けるのではありません。病気が治ったとしても、いずれは死んでいくのであります。癒しを求めたならば、罪の赦しをいただき、永遠の神の国に生きる喜びを与えられることなのです。そこに力が与えられるのです。ルカによる福音書は「今日、驚くべきことを見た」と人々の言葉を記しています。今日、今、神様の救いを見たということであります。イエス様の「いやし」はまず救いが与えられることなのであります。
 そして、今朝はイエス様の奇跡を示されます。病気の人が癒され、体に痛みのある人が治るということも奇跡でありました。さらにイエス様は人々にとって驚くべき、不思議な奇跡を行われています。その奇跡の意味を示されたいのであります。

 今朝の旧約聖書の示しは大国エジプト、アッシリアの狭間にあって動揺している人々を励まし、神様の御心に生きることを示すのであります。今朝のイザヤ書は紀元前500年代であります。背景は聖書の人々が大国バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれます。イザヤも連れて行かれました。苦しい異国の空のもとで、神様の導きと救いを示すのであります。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされたのは何故か。それは人々の不信仰でした。神様の御心に従わなかった審判でした。大国エジプトに助けを求め、アッシリアに心を寄せたりしていたのであります。預言者達は人の心ではなく神様の御心に従うよう示すのでありますが、御心を求めることなく、人間の力により頼んだのでありました。こうして神様から見捨てられたようにバビロンに捕われの身になりました。しかし、そのような弱い人々に対し、神様は再び御手を差し伸べておられるのであります。
 「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とイザヤは神様の御心を示しています。この言葉は聖書における神様の人間に対するメッセージであります。神様は最初にアブラハムを選び、神様の示す地へと導かれました。「あなたの子孫を天の星のようにする。豊かな大地を与える」との約束を信じて故郷を後にしたアブラハムでした。しかし、現実にはイサクという一人の子であり、土地と言えば妻サラの墓地でした。それでもアブラハムは神様を信じて生きたのであります。その後、イサク、ヤコブと続いて行きますが、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とは神様の御心でありました。聖書の人々が400年間、エジプトで奴隷として生きるのでありますが、モーセを通して救い出します。それも困難な戦いがあってようやくエジプトを脱出するのです。モーセの後を継いだヨシュアにしても、約束の土地、乳と蜜の流れる土地に定着するまで、やはり困難な歩みでありました。しかし、神様は「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と励ましながら導いたのです。聖書の人々がいつも神様を忘れ、見捨てているのですが、神様は決して見捨てません。バビロンに滅ぼされ、捕囚としてバビロンにつれて来られ、苦しく生きることになったのは、人々が神様に従おうとしなかったからであり、むしろ神様の審判として捕われの身になったのです。その時、神様は再び人々を導くのであります。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と示すのです。
 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」と示しています。聖書の人々の今の状況は捕われの民なのです。自由もなく、困難な状況なのです。どんなにもがいてもどうにもならない状況なのです。このような状況に何か新しいことが起こるのか。強いバビロンの国に捕われの身になっている以上、どうすることもできないのです。しかしそれは極めて人間の考えることであります。イザヤは神様の御心を示しているのです。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と示しています。この神様の御心を信じなさい。あなたの考えではなく、神様が現実に与えてくださる救いの御業を信じなさいと示すのがイザヤであります。

 新約聖書ルカによる福音書9章10節から17節が今朝の示しであります。主イエス・キリストの奇跡が示されています。私たちは聖書を読むとき、旧約聖書にしても新約聖書にしても、誠に不思議な奇跡物語を示されます。神様の御業として示されるのです。前週の「癒し」につきましても、奇跡として示されました。
さて、今朝はイエス様が「五千人に食べ物を与える」ことが示されています。イエス様のお話、神のみ国についてのお話を聞いている人々であります。また、ここでは治療の必要な人々を癒しておられました。ところが、日が傾きかけたので、お弟子さん達は「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れたところにいるのです」とイエス様に言うのでした。するとイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。そんなことを言われてもとお弟子さん達は思います。「わたしたちはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と言うのです。「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と言われても、そんなことができるはずがないと思っています。「わたしたちはこんな人里離れた所にいる」のであり、「パン五つと魚二匹しかない」とお弟子さん達は思っています。しかし、反省しなければなりません。この9章のはじめのところで、お弟子さん達はイエス様から病気をいやす力と権能を授けられているのです。そして町や村を周り、実際に病人をいやし、神の国を力強く教えたのであります。そのような力を与えられて、その報告をしたばかりなのです。その様なことがあったのに「こんなところ」であり、「これしかない」と言うお弟子さん達なのです。
 イエス様はそこにいる五千人の人々を座らせ、「これしかない」と言った弟子たちに対して、五つのパンと魚二匹を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して人々に配らせたのであります。「パン五つしかない」と言ったことに対して「パン五つもある」とイエス様は示されているのであります。また、「こんなところ」とお弟子さん達はイエス様に言いましたが、こんなところではなく、祝福の場所でありました。ここは祝福の与えられるところであり、パン五つもあることが人々の喜びとなったのであります。ここに主イエス・キリストの祝福の奇跡があるのです。イエス様にあっては「こんなところ」ではないのです。「ここは祝福の与えられるところ」なのです。「これしかない」と言いますが、「こんなにも」あるということです。お弟子さん達はイエス様から力をいただいたばかりです。その力を信じて実践したのであります。しかし、現実を人間的にとらえてしまいますので、人間の理解では不可能と言う結論になるのです。人里離れた「こんなところ」であり、たったの「パン五つしか」ないということになります。五千人と言う群衆に対して、何ができるのかと言うことです。イエス様から頂いた力と権能はどこに行ってしまったのでしょう。神様の力、神様の導きを信じることもできなくなっているのです。イエス様はそのようなお弟子さん達を哀れに思いつつ、「パン五つもある」ことへと導き、「こんなところ」との思いを「祝福のところ」へと導かれたのであります。人間の思いではなく、神様の御心に委ねる時、そこに奇跡が現れるのであります。

 私たちも「こんなところ」、「これしかない」との人間的な考えを放棄しなければなりません。神様のお力に委ねることであります。ところで今朝はイエス様の「奇跡」についての示しです。パソコンで説教の原稿を作りつつ示されたのですが、「きせき」と打ち込むと「軌跡」とか「奇跡」という言葉が出て来ます。先に「軌跡」が出てきて、変換しないでそのままにしておき、あとで気づいて変更していました。「軌跡」を「奇跡」に変換しながら示されたことですが、「軌跡」もまた「奇跡」であるということです。これまでの生活、歩みを振り返ること、それは私達の人生の「軌跡」ですが、その「軌跡」を今示されると、その「軌跡」が今は祝福となっており、まさに「奇跡」の現実になっているのです。
 昨年の今頃は、鈴木家は祈りつつ過ごしていました。連れ合いのスミさんが胆のうの手術をし、入退院を繰り返していたのです。2014年1月24日にスミさんの体調が良くないということで、かかりつけの医院に行きました。いろいろと検査をしてくれましたが、原因がわからず、能見台にある県立循環器呼吸器センターを紹介してくれ、そのまま救急車で運ばれ、やはりいろいろと検査してもらいました。その結果、循環器系ではなく消化器系であると診断され、横浜南共済病院を紹介してくれました。この病院は我が家から近くなので助かりました。そして1月27日に病院に行き、検査してもらいました。肝臓に行く管に石が詰まっているということでした。黄疸まで出ているということで、即入院となったのです。そして2月6日に手術となりました。そしてしばらく入院治療をしていましたが、2月17日に退院となりました。しかし、それで全治したというのではなく、究極的には胆嚢に石が詰まっているので、その胆嚢を切除しなければならないのです。3月7日に再び入院し、10日に手術が行われました、手術は無事に行われました。そして3月18日には退院することができ、その後は自宅で療養しつつ過ごしたのであります。
 これらのことを振り返るとき、その年の10月にはバルセロナに渡り、二ヶ月半も過ごすことができましたことは、奇跡という他はありません。まさに祈りの「軌跡」は祝福の「奇跡」へと導かれていると示されたのでした。私達の人生の「軌跡」は祝福の「奇跡」へと向かっているということです。今苦しみがあります。悲しみがあります。耐えられないような歩みをしています。この「軌跡」は祝福の「奇跡」へと向かっているのであると示されましょう。そのために主イエス・キリストは十字架にお架りになり、私達の苦しみ、悲しみを先取りしてくださったのです。十字架の導きは祝福の「奇跡」となるのです。
<祈祷>
聖なる神様。あなたのお導きを感謝致します。このお導きが祝福の奇跡になることを信じて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。