説教「御心をさとる」

2014年7月20日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第7主日

説教・「御心をさとる」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書23章23-32節
    ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節
    マルコによる福音書8章14-21節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・238「疲れたる者よ」
    (説教後)讃美歌54年版・532「ひとたびは」


 マレーシア航空が撃墜され、乗客283名、乗員15名、合わせて298名が犠牲になりました。オランダのアムステルダムからマレーシアのクアラルンプールへ向かう途上でありました。誰がやったのか、今その問題で事件を糾明しています。ウクライナ東部ドネツク州ロシア国境近くの上空を飛行していたわけですが、今ウクライナは戦闘中であり、危険な飛行であったのでした。ウクライナの政府側なのか、親ロシア派なのか、犠牲者が大勢いますので、世界中の関心になっています。
 マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、昨年の3月13日から6月4日までの三ヶ月間赴いていますので、私達もこの問題に関しては他人ごとではない思いです。現地で悲しむマレーシアの人々は、三ヶ月間、何時も見慣れた人々ですので、自分のことのように悲しみを持っています。今、世界ではシリア問題、イスラエルガザ地区の問題、そしてウクライナと親ロシア派の問題があり、これらの国は実際戦争をしているのであり、その他の国々もいつ戦争が起きるかわからない状況になっています。本当に平和を願うなら、自分たちの願いを強引に成し遂げようとするのではなく、話し合いつつ進めるべきです。すぐに武器による戦いを求めるのは、真に平和を求める者ではないということです。幸せに生きる、喜びを持って生きることは人間の基本的な願いであります。そのために人間は他の存在を不幸にしてはならないのであります。これは不文律でありますが、人間は人間として平等に生き、共に生きることが基本的なことであります。今、苦しいからと、不都合であるからと、すぐに武器をもって抵抗するのは間違いなのです。他の存在の意見に耳を傾けなければならないのです。また他の存在の生き方を受け止めなければならないのです。
 今、子ども達に人気があるゲームは「妖怪ウォッチ」と言うものだそうです。先週の木曜日に、朝のニュースで紹介していました。今までのゲームは戦いのゲームが多かったと言われます。あるいはヒーロー的な存在を中心にしたゲームでありました。それに対して「妖怪ウォッチ」のゲームは、子ども達の日常の問題に対して、それは妖怪の仕業であるとして、どこに妖怪がいるか探すゲームであるということです。このゲームを開発した人は、実際に子ども達がどんな問題を抱えているか調査したということです。それらの問題を織り込んだゲームですから、現実的であり、積極的に問題に取り組んでいくことになると言われています。共に生きる、他の存在を受け止めて生きる、そういう社会が必要なのです。私達は神様の御心がこの地球上の人々を一つの和へと導き、主イエス・キリストの十字架の救いこそ平和の根源であると示されているのです。いろいろな教えがあり、人生の指針を示しているようでありますが、真実は一つです。主の導きなのです。

 いわゆる偽預言者は今の時代には多くいるのですが、昔から偽預言者がおり、絶えず警告されていました。偽預言者と言うのは、神様の御心だと言いながら、自分の考え、思いを人々に押し付けているのです。そういう人々を偽預言者と称しています。今朝の旧約聖書エレミヤ書も偽預言者への厳しい審判であります。エレミヤは若い時に神様の召しをいただきました。その時、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と与えられた使命を断っているのです。若者である自分が人前で語ること、そんなことはできないと言っているのであります。聖書の世界は、神様の御心を示すのは長老であるということでした。長老は年寄ですが、人生を長く生きている人々です。長い人生で、神様の御心を示されてきたのです。ですから長老は神様の御心を示す存在になっているのです。そのため人々に尊敬されていました。だから、長老を尊敬しなければならないのです。長老の前では起立しなければならないとまで教えられています。そのような世界で、若者にすぎない自分が、どうして神様の御心を人々に示すことができるのか、とエレミヤは思ったのです。それに対して神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と励ましたのであります。この励ましを受けて、エレミヤは若者に過ぎないと思いつつ、神様の御心を力強く語ったのであります。それは指導者たちに向けてであり、宗教的な指導者である祭司、また偽預言者達に向けてでありました。この23章の始めに、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と指導者達に厳しく述べています。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と神様の御心を示すのであります。そして、今朝の聖書は偽預言者たちへの追及であり、神様の真実なる御心を示しているのです。
 エレミヤ書23章23節、「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか」と神様の存在を示します。確かに神様は地上の人間に近くいます方であります。だから、我々は安泰だと言っているのが偽預言者でありました。しかし、神様は世界のすべてを支配されているのであります。世界的な規模で人間を導く方なのであります。偽預言者達は「わたしは夢を見た」と言い、その夢が神様の御心であるかのように人々に示しているのであります。しかし、それは神様の御心ではなく、偽預言者達の思いにすぎないのであります。人々が喜ぶようなことを述べることを語るのが偽預言者であります。確かに、神様は夢によって御心を示しました。それはいにしえの昔、ヨセフには夢を示して御心を示されたのであります。ヨセフの夢の導きは、そのまま人々の導きになりました。偽預言者は昔のように夢を武器として、神様の御心の根拠として示しているのであります。しかし、ここではそうではない。夢ではなく、直接に神様の御心が示されているのであります。それはエレミヤを通して直接に御心を示しているのであります。「わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい」と示しています。それはエレミヤを通して神様がお語りになることなのであります。そんなに簡単に、神様の御心が示されるのか、とエレミヤは言っています。神様は近くにいる方だと思っているのです。むしろ、遠い存在なのです。そんなに簡単に御心が示されないのです。御心をいただくには、心から願い、自分を無にして、自分の思いをなくして御心を仰がなければならないのであります。偽預言者たちの安易な御心を批判しているのです。
 いつの時代でも、すぐに喜ぶことが出来る方法、言葉、物品をもって言い広める人が居るものです。聖書では偽預言者でありますが、現代でも健康食品や器具、医薬品、あるいは人生読本があります。テレビのコマーシャルはそういう宣伝で溢れています。それらはみんな偽物だとは言いません。昔、グリコのキャラメルがあり。一粒食べれば3百メートルも走れるということが箱に書いてありました。だから、小さい頃、それを信じて、よく買って食べたものです。運動会では、8人での徒競走はいつも7番か8番であったので、キャラメルの箱を信じていたのかもしれません。今でもグリコキャラメルがあるようです。誇大広告に気を付けなければならないのです。何よりも「オレオレ詐欺」に引っかかる人が、いまだに後を絶たない現実は、偽の言葉に騙されやすい人間であり、だから偽預言者が後を絶たないのです。

 主イエス・キリストは時の社会の指導者たちの教えによくよく注意しなさいと示しています。マルコによる福音書8章14節以下が今朝の聖書であります。聖書の状況はイエス様とお弟子さん達が舟に乗っているところであります。8章1節以下に記されますように、そこでは4千人の人々にパンを与えて養ったことが記されています。イエス様にお話を聞くこと三日も経っていました。そこでイエス様は「もう三日もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と言われました。お弟子さん達が、「こんな人里離れたところで、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょう」と言いました。イエス様は七つのパンがあることを確認され、群衆を座らせてパンを配られたのであります。七つのパンがイエス様によって祝福となり、人々を満たしたのでありました。さらに小さい魚が少しあり、それもイエス様の祝福の祈りによって4千人の人々を養ったのでありました。この聖書の示しを、ただ不思議だ、奇跡だと思うのではなく、イエス様が私達の全身を養っていてくださることを示されなければならないのであります。今日の示しはこのパンの奇跡ではなく、この奇跡をもとにしたイエス様の示しであります。
 群衆を後にしてイエス様とお弟子さん達は向こう岸に舟で渡ることになりました。お弟子さん達は、先ほどのパンを持ってくるのを忘れており、一つしかないことを話していたのでありましょう。その時、イエス様は、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。お弟子さん達は、自分たちがパンを持ってこなかったのでイエス様が言われているのだろうと思いました。そのようなお弟子さん達の思いをイエス様は、「まだ悟らないのか」と言われ、たしなめておられます。パンがないことで心配することはないのです。イエス様は7つのパンで4千人を養い、5つのパンで5千人を養いました。4千人を養い、さらに7つの籠にいっぱいになるほど残ったのでありました。従って、今イエス様が示しているのは、パンがあるとかないとかのことではなく、パン種に注意しなさいと示しているのであります。
 パン種はパンを膨らませるイースト菌酵母のことであります。パン種があるので、ふっくらしたパンになるわけですが、パン種そのものに注意するよう示しているのであります。ユダヤ教では祭壇にささげるパンは酵母を除いたパンをささげています。一つには出エジプトに関係します。人々がエジプトを脱出するとき、急いで身の回りの物をまとめて出て行くのですが、パンは酵母を入れないで、急いで作りました。酵母を入れないで、固いパンであったにしても、そのパンは恵みのパンであり、救いのパンでありました。神殿にささげるパンは、酵母を除くのでありますが、パンの発酵過程を腐敗とみなしたためであります。今朝の聖書もイエス様がパン種を悪い意味で示しています。コリントの信徒への手紙(一)5章6〜8節、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように。古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越しの小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とパウロが示しています。パン種は悪い意味で示されています。しかし、イエス様自身、良い意味で用いている場合もあります。マタイによる福音書13章33節以下に、「天の国はパン種に似ている」と示しています。パン種を入れることによって全体が膨れるのでありますが、それは天の国へと広がっていく意味で用いているのです。
 イエス様が「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と示した時、彼らの教えは悪いものであり、この世の指導者でありながら、世の人々を幸せにするものでありながら、むしろ良くない状況へと押しやるのであります。ファリサイ派のパン種は偽善者であります。ヘロデのパン種は人々に迎合する生き方でありました。ルカによる福音書18章9節以下にファリサイ派の人の祈りが示されています。「神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝しています。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」と祈っているのであります。まさに偽善であります。イエス様は律法学者やファリサイ派の人々の偽善をはっきりと指摘します。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイによる福音書23章1節以下)と批判しているのであります。

 何よりも神様の御心を求めることであります。イエス様はお弟子さん達に「まだ悟らないのか」と示しています。神様は私達を恵みによって導いておられるのです。7つの籠にパン屑が残るほどに与えてくださっているのです。神様の恵みをしっかりと受け止めて生きること、そして人間の心にある正義心、同情心に惑わされてはならないことを示しているのです。正義、同情は大切でありますが、神様の御心ではない正義、同情には気をつけなければならないのであります。
 キリスト教における歩みにおいても、ともすると人間の正義、同情によることがあり、神様の御心でないことも示されるのであります。「まだ悟らないか」とイエス様は示しています。いろいろなパン種がありますが、何よりも私達は神様のお恵みによって導かれているということです。世にあるパン種は人間的な正義であり、同情にすぎないのであります。わたしに与えられている神様の恵みを悟り、信仰の歩みが導かれることを示されているのであります。
<祈祷>
聖なる神様。日々お恵みによりお導き下さり感謝いたします。この世のパン種を排除しつつ、真に御心に生きるようにしてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。