説教「幸せをいただきつつ」

2014年7月27日、三崎教会
聖霊降臨節第8主日

説教・「幸せをいただきつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記上10章1-9節
    マルコによる福音書8章22-26節
賛美・(説教前)讃美歌21・411「うたがい迷いの」
    (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」


 マレーシア航空がウクライナ上空を飛行中に撃墜され、298名もの人々が犠牲になったことは大きな悲しみであります。今、遺体の引き取りが行われており、オランダ人が多くいましたので、そのオランダに運ばれていることが報道されています。マレーシア航空であり、クアラルンプールに向かっていたのです。マレーシアの人々も多く犠牲になっています。私ども夫婦は昨年3月から6月までの3か月間、マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会の牧師として赴きましたので、この度の悲しみが深く示されています。昨年6月4日に帰国しましたが、その後、こちらの教会のお招きをいただきましたのは7月21日でした。そのときマレーシアの教会の様子や、日本人が多くマレーシアに住むことになるについてお話しています。ですから重複しないように、今回はマレーシアの人々の人間性をお話して、犠牲になった人々をしのびたいと思います。
 マレーシアは多民族国家でありまして、原住民族はマレー人ですが、その後はインド系の人々、中国系の人々が住み着くようになり、マレーシア国家をつくるようになります。マレーシアは外国人を多く受け入れて、経済を振興させようとしています。ですからある程度のお金があれば長期滞在のビザが下りることになります。日本からも定年退職になった人々がしばらくはマレーシアに住むようになっています。その様に多くの民族で形成されていますので、国はイスラム教の宗教ですが、多の宗教も尊重されているのです。ですからクリスマスもお釈迦さんの生誕日も国の祝日になっています。インド系の人々はヒンズー教ですので、その教えに関わる国民の休日もあるのです。お釈迦さんの生誕日は中国系やインド系の人々の休日になり、それらの人々のお店はお休みになります。クリスマスは広く知られているので、中国系やインド系であってもお祝いするということでした。
 マレー系の人々はとても親切で、交わろうとしている姿を示されていました。私達の滞在中に、スペイン・バルセロナにいる娘の羊子が来てチャペルコンサートを行いました。その羊子と私達夫婦がクアラルンプールの町に出かけました。現地の活動はクアラルンプールの市街地より少し離れていました。牧師館もいわゆる郊外にありました。だからわざわざクアラルンプールの市街地に出かけて行くことになったのです。市内見物を行い、買い物をして帰ることになったのですが、タクシーで帰ろうとすると法外な料金を請求するのです。それで、はるかに安いバスで帰ることにしまして、羊子がようやく牧師館に行くと思われるバスを探し、それに乗って帰ってきました。しかし、はたしてこのバスが牧師館の方面に行くのか心配で、そんなことをバスの中で話していました。そしたら、私達の後ろに座っていた若い女性が、どこに行くのですかと日本語で聞いてくれるのです。頭に布をかぶっているのでイスラム系のマレー人です。私達が牧師館の住所が書かれたメモを示すと、このバスはそこに行きますと教えてくれました。そして、自分も牧師館があるコンドミニアムに帰る所だというのです。いずれ日本に行きたいと、今は日本語を勉強しているのだというのです。その女性とは、その後、時々、道で合うことがあり、お話していました。私達が間もなく帰ることを告げますと、マンゴの果物をもって挨拶に来てくれました。それから、もう一人の方を紹介しておきますが、牧師館があるコンドミニアムの庭の管理をしている女性と連れ合いが親しくなりました。連れ合いは毎日プールで泳いでいたのですが、プールの界隈の庭の整理をしている女性が、庭の花をくれたりして友達になりました。この女性はインド系のマレー人でしたが、言葉が通じなくても、身振り手真似で気持ちを伝えようとしてくれたのです。その他にもマレーシアの皆さんとの出会いがありますが、頭に布を被った女性の皆さんが、一生懸命に話してくれる姿がありました。
 この度のマレーシア航空の撃墜は、現地の皆さんを少しばかり知るものとして、本当に悲しい事件であります。人間は基本的には共に生きる姿勢を持っています。それは自分が幸せに生きたいと思っていますから、共に生きる者でありたいと願うのです。幸せになるということは、自分だけでなるのではなく、人々と共に幸せに生きることなのです。

 主イエス・キリストの教えをいただき、相互の交わり、喜びと真心を持って一緒に食事をすること、神様を讃美すること、ここに幸せの原点があります。
 旧約聖書における幸せの原点を示されます。旧約聖書は列王記上10章であります。外国のシェバの女王がソロモン王の知恵を求めてやってくることが記されています。ソロモン王はダビデ王の後継者として王様になりました。ダビデ王は神様の御心に従い、名君と言われて人々に喜ばれた王様です。ソロモンが王様になったとき、神様は「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われました。その時、ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」とお願い致しました。すると神様は「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのであります。以後、ソロモンは神様の知恵をいただき、人々の王として支配したのであります(列王記上3章)。一つのエピソードが記されています。ある時、二人の女性がソロモン王にお裁きを求めてやってまいります。一人の赤ちゃんを、互いに自分の子供だと主張しています。二人の言い分を聞いていたソロモン王は、家来に命じて、赤ちゃんを二つに切り、それぞれの母親に渡すように命じます。一人の母親は、どうぞそのようにしてくださいと言いました。しかし、一人の母親は、どうぞそんなことはしないでください。もう、自分の子供と言いませんから、この女にわたしてくださいと懇願するのでした。二人の言い分を聞いたソロモン王は、二つに切らないでくださいと願ったこの母親こそ真の母親であるとのお裁きを下すのであります。日本の大岡越前の守様のお裁きのようであります。人情を超えた普遍的な神様の愛を実践するということです。
こうしてソロモンの神様からいただく知恵は国の内外に知られ、シェバの女王の来訪になりました。女王は難問をもってソロモンを試そうとやってきました。しかし、ソロモン王はすべてに解答を与えました。王には分からないこと、答えられないことは何一つなかったのであります。女王はソロモン王の支配、事績のすべてに驚嘆し、心から賛辞を送っています。「いつもあなたの前に立ってあなたの知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです」と言いつつ自分の国に帰って行ったのであります。ソロモン王の裁きは神殿において行われました。その神殿で公正と正義が示され、人々は神殿を人生の土台としたのであります。教会において正しい神様のお心をいただくことを示しているのです。
旧約聖書は神様の知恵こそ、人々を真に生きさせ、幸せにする基であることを示しています。神様の知恵、すなわち神様の御心であります。その神様の御心が神殿において示されたのであります。人々は常に神殿に詣でては御心をいただいたのであります。

 今朝の新約聖書は主イエス・キリストが一人の盲人を癒されたことが記されています。「一行はベトサイダに着いた」と冒頭に記されます。これは前の部分で示されましたように、4千人に食べ物を与えた後、イエス様はお弟子さん達と共に向こう岸に船で渡られました。向こう岸であるベトサイダにつきました。するとすぐに人々が一人の盲人をイエス様のところに連れてきました。マルコによる福音書8章22節から26節までが今朝の聖書であり、ここではイエス様の盲人の癒しが示されているのであります。主イエス・キリストは神様の知恵、神様の御心を人々に示しました。前の部分で、4千人の人々は三日もイエス様のお話を聞き続けたのであります。イエス様ご自身がそれらの群衆を労り、食べ物を与えることをお弟子さん達に提案されました。御心を与える、生活の糧を与える、そのイエス様の呼びかけに多くの人々がイエス様に招かれたのであります。その後、一人の盲人の癒しが求められました。その時、イエス様はどのように癒したのか。他の聖書の場所では、すぐに癒したことがいくつか示されていますが、ここではすぐにではなく、段階的な癒しがありました。イエス様は盲人の手を取って、村の外へ連れ出しました。そして、その目に唾をつけ、両手をその人の上において、「何か見えるか」と尋ねました。「人が見えます。木のようです。歩いているのが分かります」と答えました。おぼろげながら見えるようになったのです。すると、イエス様は、もう一度両手をその人の目に当てられました。はっきりと見えるようになったのであります。イエス様は、「この村に入ってはいけない」と言われ、自分の家に帰されたと記しています。村に入ることにより、村の人が大騒ぎするからです。イエス様は、この人が癒しの喜びを静かに受けとめるようにされたのであります。
 もう一度、癒しの奇跡の順序を示されます。何よりもイエス様により知恵、神様の御心が人々に与えられたということです。人々はイエス様に希望を持つようになりました。そして、具体的に自分が変えられるためにイエス様のもとに来たのであります。イエス様はその人の信仰を励ましながら、次第に真実が見えるように導かれたのであります。しかし、初めのイエス様との出会いは、おぼろげながら見えるようになったということでした。なんだか良く分からないけれども、おぼろげながら、かすかに見えるようになったのです。なんだか良く分からないのですが、天国がおぼろげながら示されているのです。そして、さらにイエス様の導きがあり、はっきりと見えるようになるのであります。天国、神の国がはっきり見えるようになる。現実の中に神の国の平和があることを、はっきりと見えるようになるのです。今朝の聖書はそのように示しております。ここに幸せの原点があります。一人の盲人がイエス様に希望を持ったように、世の人々がイエス様に希望を持つようになります。実際に御心により生きるためにイエス様のもとに参りました。最初はおぼろげながら御心を示されていたのでありますが、はっきりと神の国の現実を見ることができるようになったのであります。新しい歩みが導かれているのであります。新しい歩みとは、現実の生活を歩みながらも、現実の歩みは神の国を生きているのであり、その神の国は永遠の命に至る神の国であることを信じて歩むことなのであります。そういう人生が幸せなのです。確信をもって人生を歩む、イエス様と共に生きること、幸せな人生なのです。

 最初にマレーシアについてお話ししました。クアラルンプール日本語キリスト者集会がありまして、そこの牧師としてお手伝いをしました。このクアラルンプール日本語キリスト者集会は、昨年の2013年で創立30周年を迎えています。そのため記念誌を発行しました。この集会に関わった皆さんがそれぞれ証しを記されています。その中で感銘深く記されている方のお証しを紹介させていただきます。クリスチャンになって、幸せな人生を歩むようになったという内容です。その方は、私達が2013年3月に赴任したときは、まだ集会には出席されていませんでした。一ヶ月くらいしてから出席されるようになったのです。マレーシアに派遣されて、集会を探し当て、ご夫妻で出席されるようになったのです。
 ご夫妻の彼の証しです。1996年の頃はアメリカのヒューストンにおられました。会社の友達が家庭のトラブルがあり、彼も何とかしたいと働きかけていたのですが、良い方向にはならなかったと言われます。そんな時、ある家族が日本に帰国することになり、送別会を開きましたが、帰国される方の夫人が、トラブルの中にある友人のためにお祈りをささげられたのでした。このお祈りを聞いたとき、深い感動に包まれたと言われます。人間的な解決は必要でありますが、まず神様に委ねるということを深く教えられたと言われるのです。それから、この方の心をとらえたことがありました。それは2000年11月頃ですが、そのときは日本に帰国していました。会社の友人のお父さんが亡くなり、その前夜式が阿佐ヶ谷教会で行われたので列席されます。友人の母親が最後の挨拶をされました。結局、父親は教会には出席しなかったのですが、亡くなる前に、自分の葬儀は教会でしてもらいたいと言われたということでした。その友人のお母さんのご挨拶を感銘深く伺ったのですが、そのお母さんのご挨拶は、「あなたはここで何をしているのか。まだわからないのですか」との言葉として、神様の言葉として聞こえてきたと言われるのです。そうだ、今こそ神様の御心に従って生きよう、そういう決心が与えられたのでした。神様が段階的にお導きくださっていたのです。ヒューストンでのお祈りのこと、友人のお父さんの葬儀、これらのことを通して神様は段階的にお導きくださっていたことを知るようになりました。そして「あなたはここで何をしているのか。まだわからないのか」との声が聞こえてきたというのです。すべての導きを信じて洗礼を受けました。洗礼を受けての人生は、本当に今は幸せであります、と記されていました。この時、イエス様の大きな愛を感じたと言われます。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)との御言葉に励まされ、幸せに歩まれておられるのです。幸せをいただきつつ歩む人生を今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。神様のお導きをいただき、幸せな人生を歩むことが出来感謝いたします。神様の知恵を求めて歩ませてください。主イエス様のみ名によりおささげします。アーメン。