説教「祈りという恵みの武器」

2014年8月3日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第9主日」、平和聖日

説教・「祈りという恵みの武器」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記上17章41-47節
    コリントの信徒への手紙<二>6章1-10節
     マルコによる福音書9章19-29節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・420「世界のおさなる」
   (説教後)讃美歌54年版・316「主よ、こころみ」


 毎年、8月の第一日曜日は、日本基督教団は「平和聖日」と定め、平和を祈りつつ礼拝をささげることになっています。今年は本日の8月3日になります。まさに今は平和を祈らざるを得ない状況になっています。シリアの問題が長引いていますが、ウクライナ問題も激しくなっており、オランダから飛び立ったマレーシア旅客機がウクライナ上空で撃墜されるという悲しい事件が起きたばかりです。イラクの戦い、イスラエルガザ地区との戦いがあります。必ずしもキリスト教イスラム教の戦いではありませんが、どの戦いもイスラム原理主義が絡んでいると言われます。どちらも自分たちの主張を続けていますので、和平に至るのは困難であります。歴史を見ますと、お互いに話し合いによって戦いが集結したということはあまりありません。どちらかが勝利をおさめ、片方が敗北を認めたときに和平交渉が始まるということです。そのとき話し合いで和平が成立しても、のちにまた戦いが復活するという歴史があるのです。
 平和の実現は、私達は聖書によって示されているのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下に示されています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示されています。人間にとって、十字架を見上げることによって、自分の自己満足と他者排除が滅ぼされていることを示され、他者と共に生きる者へと導かれるのです。まさにイエス・キリストが平和を実現するのであり、いよいよ十字架の真理を示されなければならないのです。
 2010年3月まで、大塚平安教会にて30年間、牧師として務めてまいりました。最初からではありませんが、この8月の平和聖日には「戦争責任告白」を礼拝にて、日本基督教団信仰告白と共に朗誦してまいりました。正確には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」ということです。日本は太平洋戦争を展開し、アジア地域を侵略しました。日本が戦争に負けたとき、日本基督教団の人々の中には、この戦争には我々キリスト者も加担し、アジアの人々を苦しめたと懺悔するようになりました。それにより1967年に当時の日本基督教団総会議長・鈴木正久牧師が、戦争責任告白を教団総会に提出したのです。しかし、この戦争責任告白に反対する人々がおり、教団としては決められませんでした。しかし、これは大切な告白であるとして、教会によっては平和聖日の礼拝にて告白する教会もあるのです。大塚平安教会も最初からではありませんが、平和聖日には戦争責任告白を礼拝にて告白するようになっていたのです。しかし、私が在任している間は、この戦争責任告白について説明することが出来ますが、代が変わることによって、わからなくなる人々が出てきます。そのときは改めて学習してもらうことにして、私の退任の前に、この戦争責任告白を礼拝にて告白することを取りやめたのでした。また、あらたなる思いで取り組んでいただきたいと思っています。
 平和はつねに祈るべきことですが、今は祈らざるを得ない状況が世界に起きているのです。いよいよ、主の十字架にあって平和を祈り求めて参りましょう。

 旧約聖書を開くと戦いが次々に出てきます。最初の人と言われるアブラハムにしても、各地で戦いをしています。イサク、ヤコブにしても民族が生き伸びるために戦いをしています。そして、エジプトでの奴隷から解放され、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地に向かうときにも戦いを展開しながら進むのです。そして、いよいよ約束の地に侵入したとき、神様は聖戦として、土地の人々を皆殺しにすることを命じるのです。それに対してモーセの後継者ヨシュアは、無益な殺生をせず、自分たちに害がなければ相手を滅ぼすことはしませんでした。それは神様の御心に反することでありました。ヨシュア記に続いて士師記が置かれています。その士師記では、ヨシュアによって滅ぼされなかった人々が立ち上がって聖書の人々を悩ますのです。それで、一時的に強者が登場し、現地の人々と戦うのです。聖書にある聖戦の原理です。皆殺しの原理は理解できません。しかし、そうしないと自分たちが危なくなるのです。現地の人々は偶像崇拝の人々です。ヨシュアのように、優しい温情によって、のちの人々が困難な状況になりますし、また人々が偶像崇拝のとりこになっていくのです。聖書は聖戦と言い、皆殺しを教えているのではありません。しかし、基本的にその姿勢で生きないと、自分もまた偶像崇拝者になりかねないし、相手の剣に倒れていくのです。神様に選ばれた民族、存在として、信じて生きる基本的な姿を後世に残していかなければならないのです。従って、聖書の初期の歴史においては聖戦であり、皆殺しでありますが、次第に平和の導きが与えられて行きます。
紀元前8世紀に現れた預言者の中にイザヤという人がいます。この人の預言、神様の御心として示した言葉です。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と示しています。預言者の時代は、真の預言者たちは平和を叫び、平和を実現するために神様の御心を示したのであります。だから聖書の聖戦とか皆殺しを重く受けとめないで、それは偶像がはびこることを阻止したのであり、人々が真に生きるためであることであると思わなければならないのです。平和の実現のために導く神様として示されなければならないのであります。
今朝の旧約聖書も戦いの部分です。よく知られた少年ダビデと巨人ゴリアテとの戦いであります。紀元前1千年がダビデの時代です。聖書の国・イスラエルはペリシテの国と戦争中でした。双方がにらみ合っているとき、ペリシテは巨人であり強者のゴリアテイスラエルの戦士と一騎打ちすることを呼び掛けてきます。到底勝ち目のない戦いに誰も応える者がいないのです。そのとき、まだ少年でありますが、ダビデか名乗りを上げます。自分が巨人のゴリアテと戦うことを申し出ます。王様はダビデに鎧兜をつけさせるのですが、少年なのでだぶだぶで合わないのです。ダビデはこのような武具で固めるのではなく、自由な自然のままの姿で戦いをすることになりました。槍も剣も持ちません。持っているのは、羊飼いですから悪い獣を追い払う石投げ道具です。いわゆるパチンコというものです。
相手のゴリアテはそのようなダビデを軽く見ました。今にもひねりつぶすかに見えましたが、その前にダビデが放ったパチンコの石が、ゴリアテの眉間に命中していました。ゴリアテは倒れ、それと共にペリシテの軍隊は敗北したのでした。この時、ダビデゴリアテに「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」と述べています。基本的には平和の実現を示しているのです。もはや剣や槍は必要ないこと、神様が平和を実現することを示しているのです。ダビデ時代からのちの預言者たちは一貫して平和を叫んでいますが、神様の御心を実践することこそ、平和が実現することを示しているのです。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモス等、すべての預言者の平和の叫びを聞かなければならないのです。

 新約聖書旧約聖書預言者たちの平和の叫びを受け止めて証しているのです。そして、最初にも示されましたように、平和は主イエス・キリストにより実現したことを証しているのです。イエス様の十字架こそ平和の実現の基であるということです。そのイエス様が平和の実現を導いておられるのが新約聖書の今朝の聖書です。
 今朝の聖書はマルコによる福音書9章14節からですが、19節からにしています。だから19節に至る出来事を説明しておかなければなりません。この段落は「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」との題で記されています。この前の段落ではイエス様が山に登り、姿が変わることが記されています。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登りました。そこでイエス様が輝かしい姿に変貌したことが記されています。それについてはいずれ示されるので割愛しますが、その高い山から下りてきますと、他のお弟子さん達が大勢の人に囲まれて議論しているところでした。イエス様がおられないとき、一人の父親が病気の子どもを連れてきて、いやしてもらうためお願いしました。ところがお弟子さんたちはいやすことが出来なかったのです。そこでいろいろな議論が起こり、お弟子さんたちを大勢の人たちが取り囲んでいたのです。山から下りてきたイエス様は、病気の子供の父親から事情を聞くと、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」と言われたのです。父親が子供を連れてきました。この子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いたと言われます。癲癇の病気なのかもしれません。イエス様はこの子供の汚れた霊に向かって、「この子から出て行け」というと、汚れた霊は大声を上げながら出て行ったと言われます。そして子供はいやされたのでした。
 その後、お弟子さんたちは「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょう」と尋ねています。この質問には、お弟子さん達自身の疑問があるのです。自分たちは治せると思ったのです。だから父親が病気の子供を連れてきたとき、いとも簡単に引き受け、治そうとしたのです。それが、治らなかったということで理解できないでいるのです。お弟子さんたちは、この類の病気を治しています。それはこのマルコによる福音書は6章7節以下で示しています。イエス様がお弟子さんたちを二人ずつ組にして、村や町に遣わされたのです。その際、イエス様はお弟子さん達に、汚れた霊に対する権能を授け、神の国の福音を伝道する力を与えたのです。実際、お弟子さんたちは悪霊を追い出し、人々を悔い改めに導いたのでした。このような経験を持っているので、汚れた霊に取りつかれている子どもに対しても、自分たちは治せるはずなのです。だから経験を思い出しながら試みましたができなかったのです。
 その彼らに、イエス様は嘆いておられます。「なんと信仰のない時代なのか」ということです。「なぜ、治せなかったのですか」とイエス様に尋ねていますが、すでにイエス様はお答えになっています。子どもを治す前に、治せなかった原因をはっきりと示しているのです。それは「信仰のない時代」であるということです。そして、わかりやすく言われたことは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」ということです。お弟子さんたちは信仰がありませんでした。そして、お祈りがありませんでした。自分たちの経験に頼ったのです。自分たちは治したことがあるという経験に基づいたのでした。経験は確かに偉大なことをしたに違いありません。しかし、そのときはイエス様の信仰に導かれていたのです。偉大な技は経験にすぎません。今必要なことは「信仰」なのです。主にある「お祈り」なのです。
 旧約聖書預言者たちが平和を叫び続けています。イエス様もまた平和を叫ばれていますが、経験に基づく平和づくりではなく、今こそ信仰が導かれ、祈りを深めることなのです。信仰と祈り、それが新しい平和の実現なのです。

 8月は第一日曜日に日本基督教団は「平和聖日」を設けて祈っていますが、日本全国民が平和の祈りへと導かれています。8月6日に広島に原子爆弾が落とされ、8月9日には長崎に原子爆弾が落とされました。この原子爆弾投下により、もはや日本は戦争が出来なくなり、8月15日に敗戦を宣言したのでした。従って、この8月は、人々は平和を祈り、各地で祈りの集会を持つことでありましょう。原子爆弾が落とされた広島や長崎で平和集会が開かれますが、いくつかの団体が分かれて平和集会を開くのです。一つの心で、一緒に開いたら良いと思いますが、それぞれの主張があって、一緒には開催できないことがそもそも平和を遠ざけているのです。「信仰と祈り」は自分の主張ではなく、神様の御心を求めることです。主イエス・キリストの十字架の福音を基にしなければ、真の平和は実現しないのであります。
以前、大塚平安教会時代、湘北地区でも2月の建国記念日には、「信教の自由を求める日」としての集会を開いていました。キリスト教のいろいろな地区で、信教の自由を求めて、この日を抗議集会にしたり、デモ行進をしたりしていました。湘北地区でも同じような集会の内容でした。しかし、イエス様の「信仰と祈り」へと導かれたのです。抗議やデモ、それも大切でありますが、まず神様の御心をいただくことなのです。そのため、この日を「信教の自由を求める湘北地区合同祈祷会」にしたのでした。湘北地区の皆さんが、ひとつの教会に集まり、まず学習をして、そしてグループに分かれてお祈りをささげたのです。それは今でも続けられています。平和の実現は「信仰とお祈り」が基となることを今朝は示されたのであります。「お祈り」は神様によるお恵みの武器なのです。
<祈祷>
聖なる神様。平和を祈るときを迎えています。自分の経験ではなく、信仰とお祈りにより真の平和を実現させてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。