説教「神の国の紹介」

2022年2月6日、六浦谷間の集会

降誕節第7主日」       

                      

説教・「神の国の紹介」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記下12章1-4節、

   ペトロの手紙(一)1章22-25節

   マルコによる福音書4章30-34節

賛美・(説教前) 讃美歌21・206「七日の旅路」

   (説教後) 讃美歌21・448「お招きに応えました」

 2月の歩みが導かれていますが、今年は復活祭、イースターが4月17日になりますので、受難節を歩むのが遅く、3月2日からになっています。それまでは降誕節としての歩みであります。いずれにしても私達はイエス・キリストの出現により、光を与えられ、信仰を深めながらの歩みが導かれているのです。今の状況の中で信仰を持てることを感謝しつつ歩んでいるのです。宗教は本人の自由を奪いますので、よくよく注意しなければならないのです。世界の中において、宗教によって困難な歩みをしている人々がいるのです。今週は2月11日に、日本では「建国記念の日」を迎えます。しかし、キリスト教の世界では「信教の自由を守る日」として、いよいよ信仰を強める日としています。信仰を強めることでありますが、キリスト教界におきましては日本の軍国主義を危惧しつつ、平和憲法を守る機運が高くなっています。政治家の中にも憲法を変えようとしている人々がいますので、軍国主義に傾いているのではないかと案じているのです。2月11日は各地で集会が開かれ、国の姿勢に対して抗議のデモ等が行われます。そういう中で、大塚平安教会に在任の頃、湘北地区では2月11日に学習や抗議活動を行うことも大切ですが、この日は祈りの日としたのでした。すなわち「信教の自由を守る合同祈祷会」として集会を持つようになっています。講師の講演を聞いた後は、それぞれグループでお祈りをささげるのです。憲法改正の機運がある中で、まず神様にお祈りをささげ、神様の御心を求めること、私達の務めと言わなければなりません。信仰を持って歩むということは、現在も将来も、そして死後の世界も平安が与えられるということです。イエス・キリストは、私たちが「神の国」に生きる導きを与えているのです。

 神様の御心を示されて、心から悔い改めたのはダビデでありました。ダビデは聖書の歴史において、立派な王様として人々から称賛されました。そして後々までダビデの存在が喜ばれ、後の時代でも、再びダビデの登場が待望されたのであります。しかし、人々から尊敬されたダビデでありますが、人間的には至らない姿を持っていました。

 ダビデは王様として人々を支配していました。その頃も戦争をしており、部下達は他の国と戦いをしていました。あるとき、ダビデは王宮の屋上を散歩していました。屋上ですから城下町が一望できるのです。ふと見ると、一人の女性が水を浴びているのが見えたのです。その女性は大層美しかったのです。それでダビデは家来にその女性について調べさせるのであります。その女性は、今、敵の国と戦いをしている兵士ウリヤと言う人の妻でした。王として権力のあるダビデは、ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにしたいと思うのです。それで戦いの隊長に手紙を発します。兵士ウリヤを戦いで死なせることでありました。戦いの長はダビデの指示通り、ウリヤを激戦地で戦わせ、戦死させてしまうのです。ウリヤが戦死しましたので、ダビデはこのバテ・シェバを自分の妻にしたのでした。

 そこで今朝の聖書になります。「ナタンの叱責」としていますが、ナタンは預言者であります。ダビデに対して、いつも神様の御心を示していました。ダビデが神殿を造ろうとしたとき、神様はこのナタンを通じて神殿造りを思いとどまらせています。そして今またナタンがダビデの前に現れたとき、それはダビデの罪を暴くためでした。それは今朝の聖書に記されているとおりであります。二人の男がある町にいます。一人は豊かで、一人は貧しかったと言われます。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていたのです。しかし、貧しい男は一匹の雌の小羊の他には何一つ持っていなかったのであります。彼はその小羊を養い、小羊は彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようであったのです。ところが、豊かな男のところに客があり、豊かな男は客をもてなすために、自分の羊や牛ではなく、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振舞ったのであります。これはナタンがダビデにしたお話です。

 ダビデはこの話を聞くと激怒し、ナタンに「そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言うのでした。ダビデの激怒を聞いたナタンは、すかさず「その男はあなただ」と指摘するのです。神様が御心を示してダビデを導いてきたのに、ダビデは自分の思いの故に神様の御心が見えなくなってしまったのです。今、御心を示されたダビデは深く悔い改めるのであります。神様は常に御心を示し、愚かな自分を導いてくださっていることを知るのであります。

 主イエス・キリストは人々に御心を示されています。その場合、イエス様は「たとえ話」で御心を示しているのです。イエス様がたとえ話をするにあたり、「たとえを用いて話す理由」をお話されています。まずそこから示されます。この4章10節以下です。イエス様はお弟子さん達に向かい、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われています。それは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようになるためである」と言われているのです。「赦されることがないためである」と言われていますが、赦さないことは神様の御心のように思えます。「ため」であると言われているのはなぜなのかと思います。モーセがエジプトで奴隷の人々を救い出す時、いろいろな神様の御業を行いました。エジプトに災いがあると、王様のファラオは奴隷の解放を赦すのですが、すぐに心を翻します。その時、ファラオがかたくなであるのは、神様がそのようにしているのであると記されているのです。「分かった」と言いながら、その場限りであり、表面的にしか理解しないということです。だから神様がファラオの心をかたくなにするのでした。そして、本当に分かるのは恐ろしい審判を受けてのことでした。「赦されることがないために」と示しているのは、表面的な理解、受け止め方ではいけないことを示しているのです。御心を全身で受け止めなさいとイエス様は教えておられるのです。だから「たとえ話」で御心を示しておられるのですが、人々は良い話であったという感想で終わっているのです。このたとえ話は神様の御心としてどのように受け止めるのか、御心としてどのように語られているのか、と言う姿勢を持たなければならないのです。

 そこでイエス様のたとえ話に示されます。「からし種」のたとえをお話されています。からし種はどんな種よりも小さいのです。しかし、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が巣を作るほどになるとお話されています。これを聞いた人々は「そうだ、そうだ」と頷くでしょう。たとえの意味を理解しないのです。からし種は神様の御心なのです。御心は大きく広がっていくと言うことであり、御心をしっかりといただくならば祝福の人生へと導かれることを示しておられるのです。

 こうしてイエス様はたとえ話を持って神様の御心を示されているのです。しかし、聞く人々は感心するだけで、たとえ話の意味を理解しようとはしなかったのでありました。「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様は示されています。そして、イエス様は私達をお救いになるために十字架にお架りになり、私達の内面にある自己満足、他者排除を滅ぼされました。私達はこのイエス様の十字架の贖いを信じて救われました。しかし、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とパウロが証しているように、世の人々は十字架を見ても、その意味を知ることなく、信じることもないのです。

 私達も日々御言葉によって導かれております。自分の愛唱聖句が力になっていることでありましょう。大塚平安教会時代、2009年は創立60周年でありました。60周年におきまして記念誌を発行しました。皆さんの証を掲載しましたが、皆さんの愛唱聖句と愛唱讃美歌も掲載したのです。ですから皆さんの証は愛唱聖句と結びついた内容になりました。これまでの歩みにおいて、聖書の言葉が力となり、支えとなり、希望となっていることを皆さんが記しています。ある方は、お子さんが重度の知的障害者であり、その子と生活をする中でも、いろいろな困難がありました。そして自分自身の心身の不調等があり、希望を無くしてしまいそうな時、いつも示されるのは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)の御言葉でした。まさに聖書の言葉により「生きる道を示される」のです。イエス様のたとえ話から示されます。私達に深い意味を示し、神の国を紹介し、お招き下さっているのです。

<祈祷>

聖なる神様。信仰の歩みをお導きださり感謝致します。神の国を目指して歩ませてください。イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。

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