説教「救いを与えられる」

2022年6月19日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第3主日

                      

説教・「救いを与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・歴代誌下15章1-7節

   使徒言行録4章23-31節

   マルコによる福音書1章29-34節

賛美・(説教前)讃美歌21・352「来たれ全能の主」

   (説教後)讃美歌21・402「いともとうとき」

 

1 

 本日は聖霊降臨のペンテコステ礼拝から三回目の礼拝を迎えています。ペンテコステ聖霊降臨をいただき、三位一体の神様を信じて歩む私達です。いよいよ聖霊に導かれて、力強く歩むことを示されるのであります。本日は、福音書ではイエス様が神様の御心を人々に宣べ伝えています。そのことから、教会の存在をいよいよ社会の皆さんにお知らせすることであります。そして、教会こそ人々の希望であることを示されるのです。

 私の出身の清水ヶ丘教会は1947年9月28日が創立記念日でありますので、75年の歴史であります。初代牧師の倉持芳雄牧師によって形成された教会でした。現在の南太田の丘に会堂を建てたのは1952年であります。倉持牧師は1990年に天に召されますが、その後は清水ヶ丘教会出身の島田勝彦牧師が主任牧師になり、25年間牧会されて退任されたのでした。そしてその後は中島聡牧師が赴任されています。その中嶋牧師の就任式の時、私もお祝いに出席しました。就任式の後に祝会が開催されました。数人の方が祝辞を述べられましたが、その中で印象深くお聞きした祝辞がありました。それは清水ヶ丘教会が建てられている地域の町内会長さんのご挨拶でした。クリスチャンではありませんが、新しい牧師の就任式に町内会長さんもお招きしたのであります。町内会長さんは、町内の者は清水ヶ丘教会に希望を持っていると言われるのです。数年前に会堂を新しく建て替えましたが、そのとき道路を広くして、町内の皆さんの便宜を計ったということです。そして、何よりも清水ヶ丘教会が丘の中腹にあり、災害の時には避難場所であると思っているということでした。これは教会と契約を結んでいるのではありませんが、町内の人々の暗黙の希望となっているというのです。災害時には避難場所があるという希望でもあります。信仰の希望ではないとしても、人々の生きる希望となっているのです。教会が希望であるということ、町の人々は毎日、丘の中腹に建てられている教会を喜びつつ見つめているのです。このように地域の人々の希望である教会ですが、私達は永遠の命へと導く教会として教会を示されているのです。

 まず神様に心を向けた人々を旧約聖書は示しています。歴代誌下15章の示しです。歴代誌は歴史を記していますが、特にダビデ王朝の興隆が記されています。中でも王様たちがどのように神様のご支配をいただいて歩んだのかが示されています。神様のご支配をいただくことはエルサレム神殿に対する姿勢であります。今朝の歴代誌下15章はダビデ王朝のアサ王の時代であります。この時代にアザルヤという預言者がいました。アザルヤはアサ王の前に出てはっきりと神様の御心を示すのであります。「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。しかし、主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる」と示しました。そして、歴史を回顧しながら、たとえどのような社会的騒乱があったとしても、主に向かうことを示しているのであります。「しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある」と励ますのであります。このアザルヤの言葉を示されたアサ王は、自らの歩みを反省し、ただちに神殿を新しくしたのであります。いつの間にか偶像を造り、偶像に心を寄せてもいたのであります。しかし、アサ王が治める全土におふれを出し、偶像をことごとく排除したのでありました。

 歴代誌にはアサ王のように預言者の言葉を素直に受け入れ、悔い改める王様と悔い改めない王様が記されています。悔い改めない王様は偶像を造っては拝み、神様のことをないがしろにするのであります。神様を礼拝し、御心に従う人々はいつも祝福されていました。「彼らは心を尽くし、魂を尽くして先祖の神、主を求め、子供も大人も、男も女も主を求めた」と記されています。そして「主は彼らに御自分をお示しになり、主は周囲の者たちから彼らを守って、安らぎを与えられた」のであります。

 アサ王は神様に向かった時、自らの歩みを反省しました。「主の祭壇を新しくした」とその姿勢を示しています。神様に向かうとき、新しい自分が導かれてくるのです。しかし、そのアサ王は堕落します。神様に御心を求め、その力により頼むことが歩むべき道でした。しかし、アサ王は外国の王様の力を求めたのであります。そのアサ王が病にかかり、その病は極めて重かったのですが、彼は神様に求めず、お医者さんに頼ったのであります。当然でありますが、神様に委ねなかったのでした。そして、神様に頼らないままに眠りについたと記しているのであります。一人の人の中に、神様に信頼する姿勢と反する姿勢があります。神様に信頼すれば新しい歩みが、反するなら祝福は遠のくと示しているのです。

 主イエス・キリストは人々の前に現れたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に示されました。その後、イエス様はお弟子さん達をお選びになり、福音を述べ伝え始められたのであります。今朝はマルコによる福音書1章29節からであります。イエス様とお弟子さん達はペトロの家に行きました。しかし、家につくとペトロの奥さんのお母さんが熱を出して寝ていました。イエス様はすぐさまおしゅうとめさんを癒したのであります。おしゅうとめさんは元気になるとイエス様の一行をもてなしたのであります。そこへ近所の人々が集まってきました。病人や悪霊につかれている人々が大勢来ましたが、イエス様によって癒されたことが記されています。さらに35節以下もイエス様が町や村へ行き宣教をいたしました。多くの人々が福音に導かれたのであります。

 新約聖書の時代、イエス様が福音を示し、宣教を行ったこと、それはイエス様が示す福音を信じることでありました。イエス様はまだ十字架による救いの時が来ていないのであります。では何をお示しになったのか。それは、最初のイエス様の言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であります。神の国が近づいたことを信じること、悔い改めることであります。悔い改めるということは、神様のお心に向かうということであります。基本的には旧約聖書でお示しになった十戒を受けとめて生きることであります。イエス様はその十戒を二つにまとめられました。「神様を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言う教えであります。この愛に生きることが神の国に生きることであることをお示しになられたのであります。

 ペンテコステの日に聖霊が与えられたお弟子さん達は、聖霊の導きをいただきながら大胆に主イエス・キリストの福音を伝えました。この福音はイエス様による十字架による救いであります。そして、常にお祈りをささげていました。使徒言行録4章30節、「どうか、御手を伸ばして聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と祈りました。祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出したのであります。お弟子さん達の伝道は、人々がイエス様に向くということであります。自分を主イエス・キリストに向けること、そこに私たちの生きる基、原点があるのです。イエス様に心を向けることが「救いを与えられる」ことなのであります。

エス様と出会うこと、イエス様に心も体も向けること、そこに新しい生き方が導かれてくるのです。ただ神様に心を向けること、人生の基、原点があるのです。建てられている教会に心を向けること、そこに導かれること、救いが与えられるのです。

私は30年間、綾瀬市にあります大塚平安教会の牧師とドレーパー記念幼稚園の園長を担いました。教会と幼稚園は県道沿いにあり、多くの人々に示される位置にありました。しかし、だからと言って、多くの人々が教会に来たかと言えば、そうでもありません。歴史的にも70年、80年を得ており、地域の人々もよく知られており、人々の目に触れる存在でした。しかし、道路より少し高台にありますので、いつも下ばかり見て歩いている人は、教会があることに気が付かない人もあるのです。ここに教会があったんですか、と言うわけです。大塚平安教会が創立50周年を迎えたとき、そのお祝いには地域の市会議員の方が祝辞を述べてくださいました。この地に育ち、何時も教会を見ながら成長してきましたが、教会がここにあるということで、なんとなく安心する思いを持っていましたと言われていました。教会に来ませんが、教会がそこにあるということ、人々の希望になっているのです。「救いが与えられている」と言うことです。いつでも、この救いをいただくことが出来るのです。教会はその場所に存在することで、世の人々にイエス様の救いを与えているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様により救いの導きをくださり感謝いたします。世の人々にこの救いを与えてください。イエス様の御名により、アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com