説教「御心をいただきつつ」

2022年6月12日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第2主日

                      

説教・「御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記6章4-9節

   ローマの信徒への手紙8章12-17節

   マルコによる福音書1章9-11節

賛美・(説教前)讃美歌21・351「聖なる聖なる」

   (説教後)讃美歌21・504「主よ、み手もて」

 

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前週は聖霊降臨日、ペンテコステでありました。イエス様が昇天され、もはや見える姿でお弟子さんたちと共にはおられなくなったとき、力を弱くしているお弟子さんたちに聖霊が与えられたのです。それにより家の中に隠れるようにして過ごしていたお弟子さんたちでしたが、外に出たのです。そして、聖霊の力をいただいて、大胆にイエス様の十字架の救いを宣べ伝えたのでした。従って、聖霊降臨後は聖霊の時代とも言われています。使徒言行録は、聖霊の導きのままに地の果てまで福音を証するお弟子さんたちの働きを記録しています。使徒言行録は聖霊行伝とも言われています。

聖霊の時代でありますが、私達の神様は今まで導いてくださっている存在です。すなわち旧約聖書に証されている神様、エホバなる神様です。最初の人、アブラハムを導き、エジプトで奴隷であった人々を導き、バビロンにとらわれている人々を導いた神様です。その神様はイザヤ、エレミヤ、エゼキエル等の預言者を通して御心を示し、導かれたのでありました。まず旧約聖書の神様を示されるのです。そして、新約聖書の時代になってイエス・キリストが神様の御子として登場するのです。結局、旧約聖書時代は真の救いを受けることが出来なかった人々です。それがイエス・キリストによって真の救い、十字架の救いを与えられたのです。ひとたび人間として現れた御子イエス・キリストですが、天に昇られました。するとまた人々は救いの導きを見失ってしまうのです。だから神様は、今度は聖霊として人々を導くようになったのです。前週の聖霊降臨日により、私達が信じる神様が示されたのです。最初から導いておられる父なる神様、十字架の救いを与えてくださった御子イエス・キリスト、そして神様の御心、御力として導いてくださる聖霊が私たちの神様なのです。そうすると神様は三人いるのかということになりますが、三様の受けとめ方があるということです。三つの姿がありますが、一体としての神様なのです。それを三位一体の神様と称しているのです。前週の聖霊降臨日の後、本日の礼拝は私達の神様を明確に示す礼拝とされているのです。三位一体主日として礼拝をささげているのです。

 旧約聖書申命記は聖書の人々に力点が置かれ、神様を愛しつつ生きることを示しています。申命記6章4節、「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と教えています。神様を愛して生きることにより、6章3節では「そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」と示しているのであります。旧約聖書は天国の信仰はまだありません。神様の祝福をいただくということは、豊かな土地が与えられ、子孫が繁栄することなのです。

 聖書の人々は400年間のエジプトの生活、多くは奴隷として生きたのでありますが、神様はモーセを通して奴隷の人々を救いだすのであります。モーセはなかなか承認しないエジプトの王様ファラオに掛け合い、ようやくエジプトを脱出することができました。神様はその使命をモーセに与えました。モーセの使命は奴隷の人々を救いだすことでありましたが、もう一つの使命がありました。人々を神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地に導くことです。それが天国への導きでした。天国への道筋は、やはり神様の御心をいただいて生きるということです。ただ、約束の土地へと向かうというのではありません。神様の御心をいただくことで約束の国へと導かれること、40年間の荒れ野の旅で訓練されていくのであります。

 モーセは人々に示しています。「今日、わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩く時も、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と示しています。子ども達を神様の御心により育てることは、親としての責任であります。毎日の生活の中で繰り返し教えなさいと示しています。さらに「これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と示しています。具体的にはどのようにしているのか定かではありませんが、神様の御言葉のしるしを与えるということであります。十戒は十の戒めですから、指折り数えて子ども達に覚えさせました。あるいは布を与えては、これは十戒のしるしとし、おりに触れて手に結び、額につけては十戒の戒めを示されるのであります。子ども達が「乳と蜜の流れる土地」に導かれるためであります。神様に養われる、導かれる子どもとしての生き方を教えているのであります。あなたの人生は神様の子として生きることであると示しているのであります。

今朝の聖書、マルコによる福音書はイエス様の洗礼が記されていますが、まことに簡単に記されています。マタイによる福音書を参考にすると、イエス様が洗礼を授けているヨハネのもとに来た時、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか」と言うのです。するとイエス様は「今は止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです」と言われたのであります。マルコによる福音書はそれらの言葉は省略されています。マルコが力点を置いているのは、イエス様が洗礼を受けたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたということです。そして、「天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になった」と記されています。神様の聖霊を受けられて、世の人々の前に出現されたイエス様を示しているのです。神の子として御心を人々に示し、教え、身を持って神様の御心に従ったのであります。マルコによる福音書の力点はここにあります。神の子として聖霊を与えられて生きるということであります。イエス様は神の子として人々を導くとき、人々もまた聖霊をいただき、神の子として生きることを示しているのであります。

ローマの信徒への手紙8章14節、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒に証ししてくださいます」と示しています。「アッバ」はアラム語で幼児の言葉であります。つまり、幼児が「パパ」というように、私達も神様を父とし「パパ」と呼ぶことができることを示しているのです。神様と私達との関係は親子の関係であります。「アッバ、父よ」と呼ぶことができる神様なのであります。

 自分は何のために生まれてきたのか、死を受け止めた人の思いです。しかし、そんなことは何も思わないで、自分の人生が人々の希望になっていると思っている人もあるでしょう。人は何のために生きるのか、なぜ自分の存在があるのか、なんとなく思っています。私はその答えを述べるつもりはありませんが、私の存在は大切なんだと思っています。時々、絵画の説明を聞いたり、読んだりします。パリのルーブル美術館を鑑賞したとき、ガイドを申し込んで、イヤフォンで聞きながら鑑賞しました。日本語のガイドでしたが、説明しているのは韓国人でした。ある絵画の説明では、一つ一つの説明を懇切丁寧にしていました。そこまで読み込まなくても良いのではないかとも思うのでした。ガイドさんの説明を聞いていると、隅の方に意味もなく描かれている樹木がとても大切であると説明するのです。描かれているすべてのものが、作者の気持ちの中にあるのであり、何の意味もなく描かれているのではないということです。一枚の絵に、深く読み込み過ぎると思いながらも、描かれているすべてのものに意味があるとの説明は、深く考えさせられたのであります。私たちは絵画に対しては素人で、絵を見ながらも、こんなところにこんなものを描いているとしか見ないのですが、作者にとっては意味があるのです。別にガイドさんから教えられたわけではありませんが、神様に創造されているこの世界は、すべて意味があるのです。神様の創造の世界で、不要の存在はないということです。私達には理解できないことだらけですが、少なくとも、この私が生まれた意味があるということです。存在には意味があるということです。未だに自分では気が付かないのですが、私と言う存在が大切なのです。人々の役に立っていることもあり、喜びになっているのです。人々を励ましているのです。

 私の存在は大切なのです。天国の相続人としての歩みは、少なくとも人々の希望になっているのです。私たちの命は、この地上のものだけではなく、永遠の命へと導かれているということです。それを信じて生きるとき、私達の人生はとても意味があるのです。三位一体の神様が、私達の意味のある人生を導いてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様は私達を神様の子としてお導きくださいました。天の国への歩みを導いてください。イエス様の御名により、アーメン。 

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