説教「支えの御手」

2022年6月26日、三崎教会

聖霊降臨節第4主日

                      

説教・「支えの御手」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上16章14-23節

   マルコによる福音書5章1-10節

賛美・(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの主こそは」

   (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

 

 私たちは日々、何事もなく過ごすことが願いでもあります。しかし、そうも言っていられないのが、今の私達でもあります。ロシアのウクライナ侵攻で、暗い悲しい思いで報道を示されています。この戦争で経済的にも影響があり、いろいろなものが値上げされているのであります。またロシアの侵攻により、各国は軍備を増して国を守ろうとしています。日本の国の憲法は戦争を起こさないという平和憲法でありますが、やはり軍事力を強化しようとしており、憲法まで改定するような傾向でもあります。こうした不安な社会と共に、コロナ感染で不安のうちに過ごしているのです。

コロナ感染もだいぶおさまってきているので、国としてもマスク着用を解除する方向を打ち出しています。一人で歩いて、人の往来が少なければマスクを外しもよろしいですよ、と示しているのですが、そのような状況にいる人でも、やはりマスクはしており、外出しているかぎりマスクは外せないのです。日本の皆さんの用心深さを示されるのです。これからは暑い日々が続きますが、そのような暑さの中でもマスクをして過ごさなければならない苦労もあるわけです。もう少し心配を解消して歩みたいのであります。私達はいろいろな面で心配し、不安を持ちながら過ごしているのですが、今朝は、聖書の日課から「悪霊追放」が主題になっています。悪霊と言っていますが、私達にとって心配事、不安の要素、それらは悪霊ともいえるのです。イエス様の御心をいただいて悪霊を追放したいのであります。イエス・キリストの「支えの御手」をいただき、日々、平安のうちに過ごすことが導かれているのです。

 「支えの御手」により「平安」を与えてくださるのは神様です。今朝は旧約聖書のサムエル記上16章14節以下に記されるダビデについてであります。聖書の歴史において、このサムエル記で初めて王様が選任されたことが記されています。エジプトで奴隷であった聖書の人々は、その後40年間、荒野を旅して神様の約束の土地へとやってまいります。そこに定着していくのです。その12部族がそれぞれの土地で周辺の国々と戦いながら暮らしています。しかし、周辺の国々は王国であり、12部族の聖書の人々は、ここで一つになって王国になることでした。そして王国となり、最初に選ばれたのがサウル王でした。サウルは当初は神様の御心をもって国を支配しますが、次第に自らの腹で君臨するようになり、神様のお心から離れていくのです。そのため、神様はサウルを見離し、次なる王様を選任するのです。そこで選ばれるのが少年ダビデでありました。サウル王はまだ支配者であり、そのダビデがサウル王の家来になることを記しているのが今朝の聖書であります。「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」と冒頭に記されています。ここでは神様の良い霊、悪い霊が示されていますが、これは人間の思いが神様の霊を悪霊にしてしまうということです。神様の導きの霊が、人間の自分勝手な思いを押しとどめるのです。だから悪霊と思うわけです。本来は導きの霊であるのです。その様にサウルは自分勝手にふるまうようになるので、神様の導きの霊が妨げになっていました。そのため、神様から来る悪霊と思っていました。それに対して、家来が音楽療法を勧めるのです。悪霊が来たら、王様の側で竪琴を奏でるということです。この提案はサウル王の意にかない、竪琴を上手に奏でる者を探させるのです。それについては家来がダビデを知っており、王様に紹介します。それでサウル王はダビデを呼び、自分の側に仕えさせることにします。悪霊で悩むようになると、ダビデが竪琴を奏でます。サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れたと記されています。この音楽療法が功を奏しているのですが、自分の思いのままにならないとき、心がイライラするのですが、ダビデの竪琴が心を休ませるのであります。まさに神様から与えられる「支えの御手」、平安でありました。従って、「平安」を与えられるということは、自分の思いを捨て去ることであります。自分の思いを成し遂げようとしますが、それがうまく行かなくて、イライラとするのです。まさに神様にストップをかけられているのです。ダビデの竪琴が神様のみ心へと導いているのです。それにより「平安」を喜ぶようになるのです。そして、その後、ダビデが王様になるのです。旧約聖書は今朝の聖書により、ダビデが人々に「平安」を与えるものであると示しているのです。神様の「支えの御手」をいただきなさいと示しています。

 神様がくださる「平安」は人々が共に安らぎを与えられて生きることです。ダビデは王様として人々に「平安」を与えました。新約聖書になりまして、主イエス・キリストが人々に「平安」を与えてくださったのであります。新約聖書はマルコによる福音書5章1節以下の示しとなっています。「悪霊に取りつかれた人をいやす」イエス様が記されています。旧約聖書も「悪霊」として記されていましたが、ここでも「悪霊」です。古代では心の病、体の病にしても、身体的に不都合になると「悪霊」に取りつかれていると思うのです。これは日本の国でも考えられていたことです。病気が続けば祈祷師にお祈りしてもらい、体内の悪霊を追い出すことが行われていました。医学的なこと、精神的なことについては考えも及ばなかったのです。そういう中で、先ほどのサウルの場合、ダビデの竪琴によって神様の平安を与えられたのでした。それは理論ではありません。竪琴で奏でられることで神様の平安に導かれるということです。

 今朝のマルコによる福音書も悪霊に苦しむ人を紹介しています。「汚れた霊に取りつかれた」人であると言われています。さまざまな思いが体内で交錯していたのでしょう。人々は鎖でつないでいたと言われます。それでも鎖を引きちぎり、山や墓場に行って叫び続けていたということです。山や墓場は誰にも干渉されず、思いっきり叫ぶことが出来るからでしょう。その彼がイエス様を見つけ、走り寄って行ったと言われます。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫ぶのです。むしろこの叫びは、汚れた霊に取りつかれている人と言うより、汚れた霊そのものが言っていることです。神様の御心に対して、反する存在が苦しむのです。旧約聖書のサウルで示された通りです。だから、イエス様はこの汚れた霊に向かって命令しています。「汚れた霊、この人から出て行け」と命じるのです。すると汚れた霊は、この人から出て行きますが、ここにいる豚の中に入らせてくれと願います。イエス様が許しますと、汚れた霊は豚に入り、豚は驚いて湖の中に飛び込んで死んでしまうのです。2000匹の豚であったと言われます。汚れた霊に取りつかれていた人は、豚が犠牲になったことで救われました。しかし、豚を飼う人々は穏やかではありません。これ以上豚が犠牲になったら困るのです。だからイエス様にこの地方から出て行ってもらいたいというのでした。豚を飼う人々の言う通りです。しかし、イエス様は一人の存在を大切にしているのです。一人の人が神様の平安をいただくために豚を犠牲にしているのです。神様の平安は人間の思いでは与えられないということです。

 この地球上の人々は住みよい環境を造りだしています。しかし、そのためには人間を犠牲にしながら人々の喜びを得ているのです。日本でもオリンピックが開催され、そのために競技場や道路整備、飛行場の整備等、大変な事業を行っています。すべてが便利になるのですが、しかし、そのためには人間が犠牲になっているのです。文化の発展、繁栄の陰には人間の犠牲があるのです。ですから人間の造りあげた文化、繁栄においては平安ということはありません。一人の存在を大切にしているイエス様がここに示されているのです。支えの御手で、一人の存在を顧みてくださるのです。

 2000匹の豚と言われていますが、極端な言い方でもありましょう。しかし、2000匹の豚が犠牲になるということでは、考えてしまうのではないでしょうか。悪霊にとりつかれた人が良くなるのですが、それに引き換えられているのが2000匹の豚なのであり、豚を残すことも考えてしまうのではないでしょうか。私達は価値観を大切にしています。いろいろな発展を支えているのは、そこに価値があるということであります。しかし、価値あるものを建設しても、一人の存在が犠牲になっているのです。イエス様はそのような価値に追いやられている存在に「支えの御手」を差し伸べてくださっているのです。日々、いろいろな問題の中に過ごしていますが、「支えの御手」をいただいていますから、現実を支えの御手に委ねて歩むことです。では「支えの御手」とは、どのように理解したらよいのでしょうか。それはイエス様の十字架を示され、見つめることでよろしいのです。飾られている十字架を心の壁に飾ること、支えの御手となるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。平安を与えてくださり感謝致します。支えの御手に委ねて歩ませてください。イエス様のみ名により祈ります。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com