説教「福音を与えられる」

2022年7月3日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第5主日

                      

説教・「福音を与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・アモス書7章10-14節

   使徒言行録13章1-3節

   マルコによる福音書6章7-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・357「力に満ちたる」

   (説教後)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

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私達は、日々の歩みにおいて、やはり喜びを持って歩むことが願いです。そして、その喜びは生きている喜びを与えられながら歩むということなのです。私達の人生にはいろいろな問題が関わってきますから、心を悩ましながら歩んでいるのです。時々、テレビを見ていると、しきりにコマーシャルを見なければなりません。いいことづくめで紹介されていますが、多くの場合、健康のためです。紹介されているサプリメントをいただけば病気になることも死ぬこともないと思わされるのです。コマーシャルばかりではなく、あらゆるところで宣伝広告をしていますが、それらを求めることによって幸せいっぱいの人生が与えられるということです。このような宣伝というか、お知らせは大変上手にできているので、乗せられてしまうのです。ところがお知らせにしても、宣伝にしても首をかしげたくなるのが教会の宣伝です。「死後裁かれる」との大きな看板を掲げて、お祭りの中を練り歩いているのです。あるいは教会の説教看板にしても、次週の説教の予告をお知らせしているのですが、「弟子たちの失敗」という説教看板なのです。失敗談を聞きに教会に来る人があるかもしれませんが、教会の宣伝は人々の関心にはならないことが多いのです。しかし、教会として、世の人々にイエス様の十字架の救いを発信しなければなりません。大げさにならない程度に、真実の救いという事実をお知らせしたいと示されています。それは別の言葉で言えば、「福音」と称しています。真実の救い、良い知らせを示されたいのであります。

 良いお知らせは「神様のお心」です。そのために、まず神様のお心をいただかなければなりません。どのような状況にありましょうとも、神様のお心を土台として生きることなのであります。旧約聖書アモス書であります。アモスについては、今朝の聖書アモス書7章14節以下でアモス自身が言っております。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と自己紹介しています。アモス書は紀元前8世紀に書かれた最初の預言書とされています。自らが示すように家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者でありましたが、社会の流れが悪い方向に向かっている中で神様の御心として示されるのであります。今朝は、王様のヤロブアムが神様の御心から反する歩みをしていたのです。それで、アモスが神様のみ心から離れていることを指摘するのです。神様の御心とは、旧約聖書にありましては、モーセをとおして与えられた十戒を中心とする戒めでした。その戒めに生きるならば、祝福されるということが旧約聖書の示しなのです。旧約聖書の示しは、神様の御心に生きているか、離れているかを示し、祝福の歩みをしなさいと示しているのです。今朝は「ベテルの祭司アマツヤ」が登場しています。ベテルは北イスラエルの中心的な聖所であります。そのアマツヤがヤロブアム王に対し、預言者アモスが王様に不利なことを言っていると報告します。つまり、預言者アモスは王様のヤロブアムが神様のみ心から離れているので、神様のお怒りを与えられるとハッキリ示したのでした。しかし、祭司アマツヤは王様に進言しながら、アモスに対しては、ただちにこの国から逃れることを勧告しているのです。この北イスラエル、ベテルで騒ぎを起こしてもらいたくないと言っている訳です。いなくなれ、と言っているのであります。王様も、よそ者のアモスの言うことを聞かないのであります。だから、アモスは、むしろ神様の御心を示すな、彼らは聞き耳を持たないと言っています。神様の御心を素直に受け入れない人々への警告をアモス書が示しているのです。御心は示されている。神様の御心の前にどのように立つのか、それは御心を示された者の責任であります。神様の御心は隠されているのではない。既に与えられているのであります。責任が問われているのであります。

 旧約聖書は、いろいろな預言者と言われる人々が神様の御心を示しています。そのとき、神様の御心に対して、従うのか、無視するのか、いつも問うているのであります。神様のみ心は示されているのです。御心を示されている人々の責任を問うているのが旧約聖書なのです。

 主イエス・キリストは言われました。「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃をはらい落としなさい」と示しています。福音を聞かない人々の責任であることを示しているのです。ここではイエス様がお弟子さん達を町や村へ遣わすにあたり、その心構えをお示しになっているのであります。まず、遣わすにあたり二人ずつ組にして遣わされるということです。一人であると、つい自分のわがままが出てしまいます。二人が組になる、励まし合って、力を出し合って福音を宣べ伝えるのであります。イエス様はお弟子さん達を派遣するにあたり、「汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」と示しているのであります。いわば生活に必要なものは、自分で備えるのではなく、ただ神様に委ね、福音を力強く語ることを示されているのであります。自分のことは顧みず、ひたすら福音を人々に示すのです。そんなにしてまで神様の御心を示しているのに、もし人々が聞こうとしないなら、「足の裏の埃を払い落しなさい」と言うのであります。

お弟子さん達はメッセージを携えて、村や町で福音を宣べ伝えたのであります。「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教しました。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」と報告されています。不安を持つ人々に、神様の御心こそ強く生きる者へと導くことを示したのでした。今までお弟子さん達はイエス様の宣教の側にいて見ていました。しかし、今度はお弟子さん達がイエス様から力をいただいて宣教するのです。イエス様の福音、良きおとずれをいただくことにより、「不安が無くなります」との「お知らせ」を人々に示したのであります。

 私の人生の中に「不安」が含まれているとしても、イエス様の十字架の救いが私たちの基となっているのです。不安を持っていても、イエス様により現実を神の国へと導かれ、永遠の命へと導かれる喜びを持っているのです。不安を持ちつつも、不安を超える人生、「良いお知らせをあたえられる」人生なのです。その「良い知らせ」、福音をいただくことが原点なのです。そして人々にお知らせすることなのであります。

 良い知らせを拒否しましたが、その後、良い知らせを受け止めた方を示されています。前任の教会でのことです。教会員に高齢の婦人がおられ、いつも礼拝に出席されていました。お連れ合いは教会には出席しませんが、婦人の信仰を尊重され、日曜日には教会の礼拝に送りだしてくれていたのです。いずれ自分も教会の礼拝に出席するとも言われていたそうです。その婦人のお連れ合いが亡くなり、教会にお知らせくださいました。婦人は、お連れ合いは教会の信者ではありませんが、ぜひキリスト教の葬儀をしていただきたいと言われたのです。それで、すぐに婦人のお宅に伺いました。そこには婦人とともに息子さんもおられたのです。息子さんは赤い顔をして私を迎えたのでした。息子さんにとって、父親の葬儀を、キリスト教の信者でもないのに行うことには反対であるのです。ですから、私がうかがったときには赤い顔をして応対したのでした。しかし、喪主は母親であり、母親の希望でキリスト教の葬儀を進めているので、従わざるを得なかったのでした。葬儀は教会ではなく、自宅で行いました。前夜式、告別式をキリスト教の葬儀で行いました。葬儀を進めるうちに、息子さんの顔色が変わってきたことを示されていました。当初は赤い顔をして応対していたのです。葬儀を進めるうちに、穏やかなお顔になっていました。そして、斎場でご遺骨とともにお別れするときに、キリスト教の葬儀をされたことに深くお礼を述べられたのでした。赤い顔をしてキリスト教を拒否したのですが、葬儀の中でみ言葉を示され、福音を示されたとき、その福音をしっかりと受け止められたのでした。母親の教会員の婦人は、分骨として教会墓地に埋葬されることを望まれましたので、教会の墓地に埋葬したのでした。その時も、息子さんは喜びつつ教会墓地に来られたのでした。もはや、福音を喜ばれているのです。そしてその後、数年後に教会員の婦人も召天されました。息子さんはすぐに教会に連絡され、お母さんの葬儀をキリスト教で行ったのであります。毎年、11月の第一日曜日は召天者記念礼拝ですが、息子さんは出席はされませんが、必ず献金をお送りくださっています。キリスト教の福音を喜んでおられる方の歩みを示されています。十字架による福音は私達の喜びであり、日々を支えてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる神様。良いお知らせを与えてくださり感謝致します。この良いお知らせを世の人々に伝えさせてください。キリストの御名により、アーメン。

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