説教「導かれる歩み」

2022年7月10日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第6主日

                      

説教・「導かれる歩み」、鈴木伸治牧師

聖書・エステル記5章1-8節

   使徒言行録13章13-20節

   マルコによる福音書6章14-20節

賛美・(説教前)讃美歌21・360「人の目には」

   (説教後)讃美歌21・466「山路こえて」

 

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 今朝は「神様の計画」が聖書の主題になっています。その主題に沿って示されたいのであります。私達は、この社会に生きる者として、自分が信じる人生を生きているのですが、やはり神様のお導きを求めているのです。しかし、何が神様の御心であるかわかりません。何か自分なりに生きているので、これが神様の御心であるとは思えないのです。歴史を読むと、人間の思いのままの姿で歴史が流れているようでもあります。塩野七生さんという人が「ローマ人の物語」書いていますので読みますと、単なるローマが次第に力をつけて、ヨーロッパの世界を支配してゆく。それは力のある者たちの思うままの姿でありました。そのローマがインフラ整備の基であり、キリスト教の根源となり、あらゆる文化の基となるのでありますが、結局は人間の力により滅んでゆくのです。塩野さんはクリスチャンではありません。客観的にキリスト教イスラム教の世界を示しながら「ローマ人の物語」を書いているのです。その「ローマ人の物語」の終わりの方で、結局「キリストの勝利」として書いているのです。このように書かれると、「神様の計画」がそこにあると思うのですが、その様に結論付けてしまうことには、やはり問題があるといえるでしょう。

 日本の歴史を見ましても戦国時代が長く続いています。日本の中でも、それぞれの地方に国々があるのですが、天下統一を目指すようになり、織田信長が現れ、天下統一を果たしていくのでありますが、その途上に殺されてしまい、豊臣秀吉徳川家康等の戦いがあり、徳川家康によって天下が統一され、徳川時代の300年の歴史が続くのです。その徳川の時代が終わり明治の時代になっていくのです。それぞれの時代において、自分の思い通りに人を殺していく展開は、天下を取るための手段ですが、歴史というものはその様に人間の思いのままに流れてきていると思うのです。そのような歴史を示されるとき、「神の計画」なんて、どこにも言えないような歴史なのです。しかし、私達は聖書を読む限り、人間的な歴史の流れのように思うのですが、そこに神様の計画があることを示されるのであります。自分が切り開いてきている人生と思いますが、神様のお導きがあって今の私であると示されなければならないのです。

 今朝の旧約聖書エステル記であります。神様のご計画としての歴史として示されています。物語はペルシャの国に在住しているエステルという女性が、同朋のユダヤ人を救った物語であります。エステルは父と共にペルシャに住んでいましたが、父親が亡くなってしまいます。その後は甥のモルデガイの養女になります。ペルシャの王様クセルクセスはエステルを愛して王妃とします。王様に仕えるハマンという大臣は反ユダヤ主義であり、ユダヤ人を撲滅しようとしているのです。それを知ったエステルの養父モルデガイはエステルと共にハマンに対抗し、ついにハマンを追放することが出来たのでした。民族の救済者として聖書に入れられているのですが、ここでは神様のご計画があり、エステルが外国の王様の王妃になり、民族を救ったとされているのです。

 聖書の物語は神様のご計画として示されているということです。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、その苦しみに対して、神様がモーセを通して救われたことは、旧約聖書の根本的な救いの物語です。そもそも聖書の人々がエジプトで暮らすことになったのは創世記に記されるヨセフ物語なのです。ヨセフはヤコブの11番目の子供ですが、ヤコブは一人ヨセフのみを溺愛します。ヨセフは父の愛を独り占めにしているので、他の兄弟に憎まれているのです。たとえば、自分はこんな夢を見たといって話したことは、自分の麦束に対して、兄弟たちの麦束がお辞儀をしたというのでした。兄弟たちはヨセフが面白くなく、エジプトに行く商人に奴隷として売り飛ばしてしまうのです。ヨセフは夢を解く力があり、エジプトの王様が見た不思議な夢を解き明かしてあげるのでした。その解き明かしに満足した王様は、ヨセフを自分に次ぐ大臣としたのでした。全国的な飢饉となり、ヤコブの一族、すなわちヨセフを奴隷に売ってしまった兄弟たちが食料を買いに来るのです。最初は、ヨセフは自分を明かしませんでしたが、ついに自分がヨセフであることを兄弟たちに告げます。奴隷として売り飛ばした兄弟たちは、驚き恐れます。しかし、そのときヨセフは、自分が奴隷として売られたことは神様のご計画であったと兄弟たちに言うのでした。今の自分は、自分がこのようになっているのは神様のご計画である、これが旧約聖書のメッセージなのです。神様のご計画は、人々が神様の祝福をいただくためなのです。

 今朝の新約聖書はマルコによる福音書6章14節からでありますが。そのバプテスマのヨハネが殺されることが記されています。イエス様のお働きが人々の喜びとなり、そのうわさが知れ渡っていきます。人々はそのイエス様について、いろいろと評価しています。「洗礼者ヨハネが生き返った」とも言われます。その様に言われている訳として、ヨハネが殺される経緯を記しているのが今朝の聖書なのです。

 ヨハネは時の王様であるヘロデが、自分の兄弟フィリポの奥さんのヘロディアと結婚してしまうのです。ヨハネはその様な結婚を批判しました。だからヘロデはヨハネを捕えて牢屋にいれています。しかし、ヘロデ王は自分を批判したヨハネでありますが、ヨハネを正しい人であると信じていましたし、ヨハネの教えに耳を傾けていたのです。ヘロデはヨハネに対して好意的であったのですが、よからぬ結婚であると批判されたヘロデの妻になったヘロディアは面白くなかったのです。そういう彼女に好機が到来しました。ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が踊りを披露したので、ヘロデを始めお客さんも喜びました。それでヘロデは褒美に何でもあげるというのです。娘は母親と相談し、母の思いであるヨハネの首を所望するのでした。こうしてヨハネが殺され、イエス様のうわさが広まったとき、ヘロデ王も「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言わざるを得なかったのであります。

 こうしてヨハネは殺されてしまいますが、聖書においてヨハネの存在は重要な位置づけがありました。神様の救いのご計画の一人であるということです。イエス・キリストが世に現れたとき、ヨハネの宣伝があったからこそ、人々が救い主イエス様として受け止めていくようになるのであります。ヨハネは単にイエス様を予告した人ではなく、神様の救いのご計画に必要な存在であったということなのです。イエス様をヨハネが生き返ったと思わせるほどの働きをしていたということです。その働きの、それ以上の救いのお働きをするイエス様の導入的存在であったということです。

 ヨハネをこのように示されるとき、私達もまたヨハネ的な存在として導かれているということです。神様の救いのご計画に与っているのです。神様の救いのご計画に私たちの存在がヨハネのように大切なのであります。ヨハネに御心が示されたように私達も御心が与えられ、救いのご計画の働きへと導かれているのです。このように自分という存在は神様のご計画の中にあると考えるとき、そこに予定論が示されてきます。若い頃、運命論、予定論について論じあったものです。自分はこのように運命なのだと思うこと、自分の人生はこのように予定されていると思うと、何か人生が空しくなるようでした。何をしても、これは予定されていることだと思ってしまうのです。神様のご計画の中にある自分を考えると、予定論が重なってしまうのです。若い時であれば、そこで虚しさを味わうのですが、今はその予定論をしっかりと受け止めているのです。神様は私達を祝福してくださる、永遠の生命へと導いてくださる、これが私達の原点です。その上で予定論、神様のご計画を示されるとすれば、今は最後ではないということです。私たちの原点への途上であるということなのです。失敗ばかりしていること、これが神様のご計画として結論付ける必要はないということです。今は苦しくても、悲しくても、つらくても、今は終わりの時ではないのです。私達の原点は神様の祝福であり、永遠の生命です。まだ途上であるのに、今の悲しみをもって、これが神様のご計画であったと結論づけてはならないのです。ヨハネが生涯の終わりに、自分は救い主を証する者と結論づけたことが大切なのであります。祝福の途上にある私達は、主の導きに委ねつつ歩まなければならないのであります。

神様のご計画である自分を示されると重く感じますが、今の自分をそのまま受け止めればよろしいのです。そのまま受け止めるということは、自分に与えられている賜物を受け止めることであり、自分はその賜物を用いて生きてきたと示されるのです。神様のご栄光を現わしているのです。

<祈祷>

聖なる神様。救いのご計画に私達を加えてくださり感謝致します。神様のご栄光を現わさせてください。主の御名によりお祈りします。アーメン。

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