説教「永遠の住まいをめざして」

2019年10月6日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第18主日



説教・「永遠の住まいをめざして」、鈴木伸治牧師
聖書・アモス書8章4~7節

          テモテへの手紙<一>6章1~12節
          ルカによる福音書16章1~13節
賛美、(説教前))讃美歌21・375「賜物と歌を」

           (説教後)475「あめなるよろこび」

 


今朝は「世界聖餐日」としての礼拝であります。世界の人々が共に聖餐に与ります。主の聖餐が世界の平和の基となります。エフェソの信徒への手紙2章15節、「キリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と示されています。十字架を仰ぎ見る、世界の平和の基があるのです。主を記念とする聖餐をいただくことにより、主の御心を与えられ、新しい歩みへと導かれるのです。
今朝は「世界聖餐日」と共に「世界宣教の日」として示されています。世界の人々へ主の福音を宣べ伝える使命を与えられているのです。2006年に開催された日本基督教団の第35回総会で、それまでは「世界宣教協力委員会」との名称でありましたが、「世界宣教委員会」と変更されました。2006年まで日本と北米六教団が協力して日本の宣教を担ってきました。その日北米宣教協力会(JNAC)が解散となりました。今までは協力のもとに宣教師を迎え、また派遣してきましたが、日本基督教団が主体的に宣教師を迎え、派遣することになったのです。現在、日本基督教団には外国からは約80名の宣教師が日本の伝道を担っています。日本基督教団からは世界の各地に約30名の宣教師を派遣しています。世界の人々が主の聖餐をいただくために、世界の宣教を祈らなければなりません。
実は私はこの世界聖餐日の日に洗礼を受けました。ちょうどその日も10月6日でした。高校三年生であり、18歳の時でした。私は中学・高校生の頃、横浜の清水ヶ丘教会に通っていました。高校生のグループ、ぶどうの会があり、そこで信仰が導かれ、交わりが深められたのであります。清水ヶ丘教会の青年会が葉山のレーシー館で修養会を開催しまして、高校生の私も参加しました。二人の姉が青年会の会員でもあったからです。海水浴のプログラムがあり、泳いでいるうちに、いつの間にか倉持芳雄牧師と一緒に泳いでいたのです。その時、今まで心にあった気持ち、洗礼を受けたいという気持ちが、自然に口からでできたのです。泳ぎながら、倉持牧師は喜んでくれました。この洗礼志願告白が倉持牧師の強烈な印象になったようです。洗礼式の当日の説教で、泳ぎながらの洗礼志願告白を皆さんに紹介していました。私たちの婚約式、また結婚式におきましても、海上洗礼志願告白を皆さんにお話するのでした。
 毎年、世界聖餐日になると、自分の新しくなったことを示されています。その日から62年を経ていますが、洗礼を受けてからは、常に永遠の住まいを目指す歩みを導かれているのです。祈りつつ主イエス・キリストの示された歩みへと導かれているのです。今朝は改めて「永遠の住まいをめざして」の歩みを示されたいのであります。

 旧約聖書アモスという預言者はいちじくを栽培する農民でした。神様はこのアモスを伝道者に選び、御心を人々に示したのです。聖書のこの時代は北イスラエルと南ユダに分かれていますが、北イスラエルの荒廃ぶりは南ユダに住むアモスの耳にも聞こえていました。当時のというのは紀元前8世紀の時代ですが、北イスラエルはヤロブアム2世が王様の時代でした。宗教的にも社会的にも堕落していたのです。その堕落ぶりは今朝の聖書で示す通りです。
 「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」と叫んでいます。不正な商人たちが「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいものだ」と言っていることを指摘します。「新月祭」は、月の始まる日を新月としてお祝いしていました。この習慣は聖書の人々がカナンに定着する以前からカナン地方でお祝いされていました。聖書の人々もこの習慣を取り入れ、むしろ新月祭は神様の示された日として聖なる日としていました。従って、この日は聖なる日ですから仕事を休んで、聖なる神様を崇めたのであります。「安息日」は土曜日になります。神様が天地を造られたのが日曜日から金曜日までで、土曜日は神様が安息された日であり、神様の創造の御業を仰ぎ見る日でした。そのため一切の労働が禁じられていたのです。商人たちは寸暇惜しまず商売をして金儲けをしたいのです。それも不正な金儲けでした。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」と言いつつ商売をしているのです。升を小さくするということは、同じ値段で少ししか与えないということです。分銅を重くするということは、同じ目盛りでたくさん仕入れるということです。しかも靴の値段で人間を買い取るというのです。くず麦を売るとも言われています。不正を働いてはならないということは、そもそも十戒に示されている掟であります。そのため、レビ記19章35節以下、「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導きだしたあなたたちの神、主である」と教えているのです。
 聖書の掟は人道的なものであり、人が共に生きるための指針であるのです。レビ記19章は人々が「聖なる者となれ」として教えています。時々引用しますが、9節以下に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘みつくしてはならない。ぶどう畑の落ちた実は拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と定めています。貧しい者、寄留者、孤児等、これらの人々に生きる道を与えてあげるのが、聖なる民としての生き方なのです。
 アモスは北イスラエルの人々が、この基本的人間の生き方を忘れていることに対して、声を大にして叫んでいるのです。あなたがたの不正は、神様が見ておられる、神様はその不正を決して忘れないとしています。神様を信じて生きる者は、共に生きることが原則であり、他の存在を心に与えられながら生きるべきだと示しているのです。あなたがたは金銭を中心に、そこに生きる価値を置いているが、そうではなく、本当に価値あるものを求めなさいと教えています。本当に価値あるものは、歴史を通して示されてきた十戒を中心とする神様の御心です。神様の御心は他者を見つめ、自分の心に入れ、共に生きることであり、聖なる者になるということです。その歩みが「永遠の住まいめざせして」の歩みとなるのです。

 主イエス・キリストは十字架の贖いにより、人々をお救いになりましたが、それは最後の導きになります。社会に現れたイエス様は、旧約聖書の示しのように、聖なる者となることの教えを人々にしているのです。
 ルカによる福音書16章は、イエス様が「不正な管理人」のたとえを通して聖なる者になることを教えています。前回は「放蕩息子」のたとえを通して、今の自分に神様の御心が注がれていることを知ることでした。15章でお話されている三つのたとえは、徴税人や罪人にお話されていますが、ファリサイ派や律法学者たちにもお話されているのです。そして16章になりますが、「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」として「不正な管理人」のたとえをお話されているのです。「放蕩息子」のお話は、人々に神様が御心を注いでくださっている教えですが、「不正な管理人」のお話はお弟子さん達のためでした。イエス様のお弟子さんとして従っているとき、いよいよ聖なる者になることを教えているのです。聖なる者とは、十戒を基として、人が共に生きることです。人が共に生きることで神様のお喜びがあり、人が祝福を与えられるのです。「永遠の住まいをめざして」の歩みとなるのです。
 「ある金持ちに一人の管理人がいた」とお話を始めています。この男が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言う。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言うのです。そこで、管理人は生き伸びる策を立てます。管理人は主人に借りのある者を一人一人呼びます。最初の人は主人から油百バトス借りています。一バトスは23リットルですから、かなりの量になります。それを百バトスではなく、50バトスに書き直させるのでした。今度は小麦百コロス借りている人には80コロスと書き直させるのでした。一コロスも23リットルです。たくさんの小麦を借りていることになります。こうして出入りの商人に便宜を計って上げます。ところがこの不正なやり方を見た主人は、管理人の抜け目のないやり方を褒めたのであります。ここまではたとえですが、後のことはイエス様が教えとして言われていることです。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えてもらえる」と言われているのです。
 この「不正な管理人」の教えをどのように理解されるでしょうか。主人の財産をごまかしているのですから、確かに不正な事をしています。ここで主人と管理人との関係を理解しておかなければなりません。マタイによる福音書25章14節以下で、イエス様は「タラントン」のたとえをお話されています。ルカによる福音書は19章11節以下に記していますが、マタイによって示されます。ある人が旅に出るにあたり、自分の財産を僕たちに預けます。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを委ねました。5タラントン預けられた人も2タラントン預けられた人も、それで商売をして、倍の利益をもたらしたのです。主人の財産を勝手に使って良いものかと思いますが、用いなければならないのです。そのまま持っているのではなく、有効に用いるということです。このタラントンから「タレント」という言葉ができるのですが、人には皆タラントン、賜物、能力、才能が与えられているのであり、それを生かしつつ生きることが人間であることを聖書は示しているのです。管理人は主人の財産の管理です。それは財産を十分用いることです。
 管理人は出入りの商人に便宜を計ってあげました。それなのに主人は管理人を褒めているのです。誰かが損をしていることになるのです。もちろん出入りの商人ではありません。主人でもないのです。主人は受けるべき収入があるのです。従って、損をしているのは管理人になるのです。便宜を計り、主人には利益を渡すと、自分の収入がなくなるということです。自分の利益を犠牲にして、出入りの商人を喜ばせてあげたのです。そこでイエス様は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と教えています。ここで「小さな事」と言われていますが、人間関係のことです。毎日の営みの中で、他者の存在をしっかりと受け止めて生きること、小さな事ですが、これこそ「本当に価値あるもの」なのです。忠実に小さな人間関係を生きるとき、「本当に価値あるもの」をいただけるのです。「本当に価値あるもの」とは主イエス・キリストの御心です。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との「本当の価値あるもの」の生き方が導かれて来るのです。
 これは弟子たちにお話されていることです。「本当に価値あるもの」をいただいて生きるために、小事である人と共に生きること、旧約聖書以来示されてきた十戒を基本として生きること、それにより大事である福音の宣教者へと導かれていくのです。

 今朝は世界聖餐日、世界宣教の日であります。世界の人々が共に主イエス・キリストの救いの喜びをいただくのです、それに対して分け隔てをするのが人間のすることなのです。時々、お話をしていますが、娘の羊子がピアノの研鑽のためにスペイン・バルセロナに渡った時のお話です。バルセロナに住むようになり、日曜日には教会に出席したいのですが、スペインはカトリック教会が主流なので、あまりプロテスタントの教会がありません。それでカトリック教会に出席します。カトリック教会は毎回のミサで聖餐式を行っています。それで娘は神父さんにプロテスタントであるが、聖餐式に与りたいと申し出るのでした。その時言われたことは、プロテスタントの人は聖餐に与ることはできないということでした。今度は別のカトリック教会に行き、神父さんに尋ねたのでした。そしたらその神父さんは、カトリックプロテスタントも同じ信仰なのであり、一緒に聖餐に与ってくださいと言われたのでした。それ以来、その教会のミサに出席し、奏楽も奉仕するようになったのです。主イエス様の救いの信仰は共に導かれているのです。世界聖餐日の意義を示されています。常に聖餐に与り、「永遠の住まいをめざして」歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。小事に忠実な者へと導いてくださっていること感謝致します。「永遠の住まいをめざして」歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com