説教「生きるための義務」

2020年9月6日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第15主日

 

説教、「生きるための義務」 鈴木伸治牧師

聖書、出エジプト記13章17-22節

   エフェソの信徒への手紙5章11-20節

   ヨハネによる福音書8章12-20節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・163「あまつみつかいよ」

   (説教後)讃美歌54年版・515「 十字架の血に 」

 

 8月の歩みが終わり、本日は9月の最初の礼拝です。例年ですと、教会学校では、本日は振起日礼拝をささげます。今までは夏休みであり、9月から第二学期が始まるのですが、信仰の歩みにおいても、強い思い、すなわちイエス様のお心をもって歩みだしましょう、ということで、礼拝をささげながらも、そういう励ましになるように進めるのです。ところが今年は新型コロナウィルス感染予防のためのプログラムであり、一学期は感染予防のためお休みが多く、そのため夏休みは短くなり、もはや二学期が始まっているのです。9月が始まったからと言って振起日どころではなく、一学期の勉強の遅れを取り戻している状況でもあるのです。そのような状況でもありますが、やはり9月からの歩みとしても、心を新たにして歩み始めたいのであります。

 教団の聖書日課は本日示されている聖書の通りです。その聖書の導きにより「生きるための義務」として示されたいのであります。

 私は2010年3月に前任の大塚平安教会を退任しました。そのため今までは教会の中の牧師館に住んでいましたが、4月からは私が成長した家、横浜の実家に移り住むことになりました。退任してからは実家に住むことを決めていましたので、引っ越しをする4年前に今までの家を建て直したのであります。新しい家にしても、まだ教会の職務がありましたので、教会の牧師館に住んでおり、そのまま空き家になっていたのであります。そして2010年4月から正式に転居し、いわゆるこの地域の住民になったのでした。

 皆さんも地域に住むことで、不本意ではありますが、協力しなければならないことがあるでしょう。大体、地域の行事等は神道に関係していることが多く、お祭り等にも関わらなければならないのです。しかし、協力したからといって、自分は神道の信者になったと言うわけではありません。地域と共に生きながらも、自分としての歩みが導かれているのです。昔、日本キリスト教協議会の中に宗教研究所がありますが、その研究所が主催して、諸宗教の研修が行われていました。その研修会の中で、今も解せない思いを持っていることがあります。カトリック教会を学ぶ研修会があり、ミサに出席しました。カトリック教会では、ミサにおいては必ず聖餐式が執行されます。ところが研修の責任者は、我々はプロテスタントであるのでと言い、研修参加者には、ミサの聖餐式には与らせなかったのです。何故ミサにおいて聖餐式に与らなかったのか、今も心に残っています。

 私の思い出話しをしているようですが、どのような状況に置かれましょうとも、神様に向かう姿勢は新しい歩みであると申し上げたいのです。どのような状況になりましょうとも、神様に全身を向けているのです。生きるための義務、それは私たちにとって神様を礼拝しつつ歩むということなのです。

2.

 旧約聖書出エジプト記13章17~22節により神様の導きが示されています。「火の柱、雲の柱」との表題であります。21節に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」と示されています。常に神様の導きが先立っていることを示しているのです。出エジプト記は聖書の人々がエジプトの国で奴隷として生きること400年間、その苦しみを神様が受け止め、モーセを通して脱出させたことが記されています。当初はエジプトに寄留する聖書の人々ですが、次第に聖書の人々が増えていくことに恐れをなしたエジプトの王様ファラオが、聖書の人々を奴隷にしてしまうのであります。希望もなく、日々、苦しみに生きていた人々でした。神様はモーセを通してエジプトに審判を与え、聖書の人々を解放したのでありました。それについては出エジプト記に記されています。

 17節、「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかも知れない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」と示しています。今、聖書の人々は新しい歩みが導かれているのです。しかし、人間は困難な状況になると、元の道に引き返そうとするのです。戦いをすることになれば、奴隷でもいいから、エジプトに帰りたいと思うこと、神様はお見通しでした。そのことは、この後も繰り返し動揺する人々にありました。聖書の人々が葦の海、紅海に向かったとき、エジプトの軍隊が追いかけてくるのです。そして、前方は海になります。どうにもならないと人々は思いました。それで、モーセに詰め寄るのです。それは14章11節以下に記されます。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なしめるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」というのです。この時、神様は海の水を分け、人が通れる道を海の中に造りました。人々はその道を通って向こう岸に行くことができました。追いかけてきたエジプトの軍隊もその道を通っていくのですが、その時、海は元のようになりエジプトの軍隊は海に沈んでしまうのでありました。昼は雲の柱、夜は火の柱が新しい歩みを導いているのです。

 このことは、この後も続きます。海の中を渡るという驚くべき神様の導きを経験しながら、今度は食料が無くなったということで不平を言います。その時、神様はマナという食べ物を与えます。40年間の荒れ野の旅の間、マナを食べて導かれたのでした。その他にも、水の問題もありました。その時も人々はモーセに詰め寄りますが、神様は水を与えています。神様の恵みを示され、与えられても、なかなか確信に至らない人々であったのです。

 「雲の柱、火の柱」が人々を導いたと示されています。これは神様のご臨在を示しています。具体的に考えてしまいます。入道雲のように前方にあり、その方角に進んだということでしょうか。火の柱は燃える大きな松明のようなものが先立って進むのでしょうか。聖書学者の中には、地平線に見える活火山の火と煙が導きの象徴として考えられたと説明しています。しかし、具体的に考える必要はありません、神様が確実に先立ち、人々を導いていることを示す証であるのです。神様は現実におられて、先立って進まれているということです。日々、新しい歩みへと導いてくださっているのです。従って、その導きに委ねて歩むために、「生きるための義務」を果たしながら歩まなければならないのであります。

3.

 主イエス・キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と示されています。新約聖書ヨハネによる福音書8章12~20節が今朝の聖書であります。今朝の聖書の冒頭、12節に「イエスは再び言われた」と示しています。再び言ったということ、それは前の段落で言われたことでありますが、8章11節で「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのであります。この8章には罪を犯した人が、イエス様と出会ったことが記されています。 人々が罪を犯した人をイエス様のところに連れてきます。この罪を犯した人は石で打ち殺せと戒律に定められているが、あなたならどうするかと言うのです。それはイエス様を試すためで、答え方によっては訴える口実になるのです。その時、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われました。これを聞いた人たちは、一人去り、また一人去り、結局、この人を連れてきた人たちは誰もいなくなってしまったのです。

 「あなたを罪に定めない」と言われたイエス様は、再び言われたのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と示されたのであります。イエス様の光に従う者は暗闇の中を歩まないのであります。もはや罪を犯す状況はありません。イエス様の光の中にいるからであります。ヨハネによる福音書は主イエス・キリストが世の光として来られた事を証しています。まず1章1節以下に「初めに言があった」と書き始め、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と示しています。この言をイエス・キリストに置き換えれば良いのです。9章5節にはイエス様が「わたしは、世にいる間、世の光である」と示されています。12章35節にはイエス様が「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と示しています。このようにイエス様を光として人々に示していますが、それは、ヨハネによる福音書はイエス様が世の人々に永遠の命を与えるために来られた事を証するからであります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。これがヨハネによる福音書の示しなのであります。従って、本日示されている「生きるための義務」とは、世を愛されている神様が、私達が永遠の命を得るためにイエス様を与えてくださったのですから、そのイエス様の十字架の救いを信じるということなのであります。

4.

 冒頭に、9月になり、昔からの振起日という取り組みを示されました。夏休みで、ついだらだらとしてしまったので、心を強めて歩みましょうということなのですが、毎週の日曜日には礼拝をささげ、週に一度は御心を示され、お祈りをささげつつ歩む、それが私たちにとって「生きるための義務」なのです。この義務を守りつつ歩むことがイエス・キリストを信じて歩む人生なのです。そしてその人生が大きな祝福、永遠の生命への歩みへと導かれるということなのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様を与えてくださり、ありがとうございます。十字架の救いを与えられ、生きる義務を果たしつつ歩ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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