説教「戒めを実践しながら」

2021年1月31日、六浦谷間の集会

降誕節第6主日

                       

説教・「戒めを実践しながら」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書30章18-21節

   テモテへの手紙<一>4章11-16節

   マタイによる5章17-20節  

賛美・(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」

   (説教後)讃美歌21・460「やさしき道しるべの」

 

 今朝は1月の最終主日であります。クリスマスから一ヶ月を経ていますが、聖書のメッセージは、イエス様が次第に世の人々にあらわれて、教えや神様のお心を人々に示しているのであります。前週はイエス様が神様の御心を人々に示し始められたことの聖書でした。今朝は「イエス様の教え」であり、次週は「イエス様の癒し」についての聖書です。次第にイエス様のお働きを示されていきます。しかし、イエス様の中心は十字架の救いであり、十字架への道を示されるのは2月17日以降になります。それまではイエス様のお働きについて示されるのであります。

 今は幼稚園の園長を担っていますが、幼稚園にはいろいろなところから郵便物が届けられます。郵便物の中に横浜訓盲院からの案内書があります。懐かしさもあり、改めてしみじみと拝見したのでした。横浜訓盲院は横浜本牧教会の代務牧師をしていたころにお招きをいただいて、礼拝のお話に行ったことがあります。その時、横浜訓盲院の校歌を示されました。このような校歌です。「神さまいつもいらっしゃる横浜訓盲学院、春には桜の花咲き、夏には潮風かおる」と一節で歌い、二節では「賛美歌いつも流れる横浜訓盲学院、イエスさま友だちさ、僕らの友だちさ」と歌われます。そして三節では「朝には恵みの喜び、夜には感謝の祈り、みことば友だちさ、ぼくらの友だちさ」と歌われています。賛美歌を歌い、みことばと共に歩む横浜訓盲院の皆さんを示された次第です。みことばが友達のように、自分と共にあること、とても強い励ましであり、皆さんの支えになっていることを示されたのでした。

 「あなたの目は、常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』」(イザヤ書30章20節、21節)と旧約聖書の示しであります。本日は聖書イザヤ30章を示されています。ここで示されていることは、「エジプトとの同盟」でありますが、神様のお心から離れて人間的力により頼む聖書の人々に対する怒りが示されているのであります。聖書の国は小さい国であります。この頃、エジプトやバビロン、またアッシリア等の大国があり、その間でどのように選択し生き延びるか、指導者達の悩みでありました。しかし、悩むのではなく、何よりも神様の御心を尋ね求めなければならないのであります。神様に導きを委ねるのではなく、エジプトに心を傾け、強い国の陰に身を寄せようとする人々への神様の怒りを示しているのであります。そして、そのエジプトの助けはむなしく、はかないことを示しています。

 イザヤ書30章20節に、「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」と示しています。これは、聖書の人々が神様のお心に従わなかったゆえに、結局バビロンに滅ぼされ、捕われの身になったことを示しているのであります。捕囚と称していますが、「災いのパンと、苦しみの水」は捕囚に生きる人々の悲しみを表しているのであります。しかし、「あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」と示しているのであります。「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』」と示されています。羊飼いが羊を背後から導くように、行くべき道を示しているのであります。

 「あなたの目は、見る」と言い、「あなたの耳は、聞く」と言われていますが、実際に見たり聞いたりするのでしょうか。それは全体的な示しなのであり、基本にあるものは神様が与えた十戒であります。エジプトで奴隷であり、その苦しみをモーセにより救い出した神様は、まず十戒を与えたのであります。人間が基本的に生きる方向としての約束事でした。その十戒で示していることは、神様を愛することであります。そして、人間を愛することであります。その基本的な生き方を示されて歩むとき、まさに目は導く方を見るのであります。耳は導きの声を聞くのであります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはなりません」と十戒の第一戒は教えています。「他の神」とは自分にとって都合のよい存在であります。それは自分たちをよくしてくれる他の国でもあります。あるいは、自分の思いをかなえてくれると信じる偶像なのであります。それらは自分の都合なのであり、自分中心の姿勢なのであります。自分中心の姿勢は祝福ではありません。神様のお心こそ、わたしを真実に生きさせてくれるのであります。まさに右に、左に指し示しているのであります。十戒を守り、生きるとき、見て聞いて生きることへと導かれるのでした。

 主イエス・キリスト旧約聖書で示された十戒を改めて人々に示しました。新約聖書はマタイによる福音書5章17節からでありますが、律法について教えております。律法とは十戒を基本として、人間生活で守らなければならないことを定めているものであります。律法は旧約聖書モーセ五書といわれる創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記の中に示されています。この律法を守りつつ歩むのが聖書の人々でありました。

 主イエス・キリストの現れた時代もユダヤ教の社会であり、律法を中心にしての社会でありました。マタイによる福音書は5章、6章、7章において、主イエス・キリストが「山上の説教」として人々に神様の御心を示しました。まず、「幸い」について示し、次に「地の塩、世の光」について教えられました。教えを聞いている人々は、今までにない新しい教えとして受け止め、今度はどんな新しい教えをお話ししてくれるのだろうと期待していたのであります。ところが、イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのであります。イエス様の教えを聞いている人たちは、律法の社会において、常に律法に基準を置きながら生きていました。ある意味では煩わしさがありました。常に律法、律法という思いがあり、いつも律法に束縛されている思いであったのです。ところが、今イエス様の教えを耳にしたとき、本当に新鮮な気持ちになって、受け止めることができたのであります。今度はどんな新しい教えをしてくれるのか、期待していました。その期待に対して、「律法を完成するために来た」というのですから、期待はずれの思いにもなりました。

 「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人々に教える者は、天の国で最も小さい者の呼ばれる」と言われたのであります。どんな小さな律法でも守りなさい、と言いますから、律法の締め付けかと思うのです。21節以下では「腹を立ててはならない」と教えています。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に侮蔑の言葉を言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」と教えています。人々は「殺すな」との律法を守っています。しかし、守っているといいますが、普通に生活していれば殺すようなことはありません。だから、普通の生活をしている者は皆、律法を守っているのです。「はたして、そうなのですか」と人々に示しているイエス様なのです。律法を守っているといいながら、他の存在を中傷し、罵ることは殺したことと同じなのですよ、と示しているイエス様なのであります。表面的に、結果において「守っている」人々に対して、内面的に律法を守るように教えているのであります。まさに律法の完成であります。

「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と今朝は示されていますが、神様は人生の歩みの中で、長い間お導きくださっていることをしめされるのであります。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と主イエス・キリストが教えられています。私を導く存在は、私が真実生きるために、十字架にお架かりになりました。私の自己満足、他者排除を十字架により滅ぼしてくださったのであります。私は十字架を仰ぎ見るごとに、私を贖ってくださった主イエス・キリストの導きをいただくのであります。イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と教えておられますが、その時、「これがわたしの掟である。」と示されているのです。イエス様が与えてくださった戒め、「互いに愛し合う」人生を実践しつつ歩むことを示されたのであります。

 あなたの人生の基は主イエス・キリストの十字架であります。永遠の天の国に至るまで導いてくださる存在なのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。主の十字架のお導きを感謝いたします。主が示された戒めを実践できますよう導いてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com