説教「光が差し込んできているので」

2021年1月24日、三崎教会

降誕節第5主日

                       

説教・「光が差し込んできているので」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書9章1-6節

   マタイによる福音書4章12-17節     

賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」

   (説教後)讃美歌21・511「光と闇とが」

 

 お正月と言いつつ歩んでいましたが、早くも本日は1月24日であります。しかし、時の流れは瞬く間に過ぎてゆくのですが、新型コロナウィルスの感染はいつまでも存在しており、終わりのない戦いのように続いているのであります。そういう中で、「新しい生き方」が示されるようになりました。仕事も会社に行かなくても、自宅でもできる取り組み、会議にしても一堂に会さなくても、それぞれの場にいながら画面で会議が出来るのです。いろいろと新しい生き方が示されていますが、新しい生き方が出来ないこともあるのです。

新しい生き方が叫ばれていますが、それができない場合もあり、どのような生き方が大切なのか、いろいろと模索しているところであります。そのような中で、私たちは「新しい存在」としての歩みは常に導かれているのです。今朝は「光が差し込んできているので」と題していますが、主イエス・キリストのお導きをいただいているということです。新しい年を迎えたとき、示されていることは、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマの信徒への手紙12章2節)とのみ言葉です。このみ言葉に導かれて歩みたいのであります。

 今朝は旧約聖書イザヤ書9章1節から示されています。ダビデという王様について示されています。ダビデという王様は昔の人ですが、神様のお心にあって人々を治めましたので、後の人々もダビデに期待するのであります。今は暗い世の中でありますが、ダビデが再び現れて、世の中を平和に導いてくれるということです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と示しています。国の指導者がいても、人々の喜びになる方向は示さないことへの不安が募っています。その意味でもダビデの再来は喜びであるのです。人々は心から待望しているのです。

 どこの国も同じことが言えますが、中心となるべき人、アメリカでは大統領であり、日本では首相であります。今、アメリカは新しく就任したバイデン大統領に期待と困惑が入り混じっています。世界の人々も、不安をもって見つめているのです。それはアメリカばかりではなく、いろいろな国々で指導者が変わろうとしていますが、正しい導きを求めているのです。神様のお心をもって国を治める人間が必要なのであります。しかし、人間は自分の心があり、人と人との絡み合い、あるいは国と国との絡み合いの中で、正しく神様のお心をもって国を治めることが困難になってくるのであります。聖書の王様達もそのような絡み合いで悩みました。だからこそ、人々はひたすら神様のお心により人々を導いたダビデを待望したのであります。

 マタイによる福音書は今朝のイザヤ書を引用します。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」とイザヤ書9章1節以下を引用し、それが現実になりましたと証しをしています。マタイによる福音書4章17節、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記しています。旧約聖書イザヤ書においては、人々への励ましとしてダビデの存在を示したのであります。新約聖書はその実現を告知しているのであります。「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」はイザヤの時代もイエス様の時代も厳然として存在していたのであります。旧約聖書では預言でありますが、新約聖書は実現なのであります。暗闇と死の陰の地に、すなわち現実の社会に、天の国が到来したのであります。主イエス・キリストが現れたことは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであったと示しています。マタイによる福音書は「天の国」としていますが、他の福音書は「神の国」であります。神様の御心に満ちた国が到来するということです。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と主イエス・キリストは福音を宣べ始められました。「天の国は近づいた」とはイエス様が現実に現れたことであります。天の国という場合、死んで天の国へ導かれると言うなら分かります。しかし、私たちが天の国へ行くのではなく、天の国が私たちの中に近づいているのであります。天の国が私たちの現実にあるということです。それは、私たちが主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むことが、天の国を生きていることになるのであります。天の国は喜びであります。天の国は祝福の歩みであります。その喜びと祝福が現実の歩みの中にあるということであります。

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 主イエス・キリストは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われ、福音の宣教を開始されました。しかし、主イエス・キリストの福音宣教は当時の指導者達に拒否され、十字架によって殺されるのであります。従って、マタイによる福音書は当時の社会、また指導者達が「悔い改め」を拒み、天の国の近づくことを拒否したことを示そうとしているのであります。しかし、イエス様の天の国は、確実に人々に近づいたのであります。そして、十字架により天の国が人々の現実となったのでありました。

 天の国、神の国に生きるお導きをあたえてくださったのがイエス様でした。人々が天の国に生きるために、十字架の死によってお導きくださっているのがイエス様なのです。従って、お導きに従うのは十字架を仰ぎ見るということです。そして、自分自身の歩みを悔い改めることなのです。お導きをいただくためには、私自身の罪の悔い改めがあり、そこに豊かなお導きがあるのです。

 今朝のマタイによる福音書は、私たちの社会に対しても示しているのです。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」と示しております。そして、その暗い社会の時から、イエス様が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と示し、御心を伝え始められたと示しているのであります。この暗い社会にイエス様が御心を下さっているのですよ、とマタイが示しているのであります。

お導きの光が十字架により与えられているのです。「光が差し込んできているので」私たちは、天の国、神の国に生きているのです。今の状況が困難でありましょうとも、喜びつつ、希望をもって歩むことができるのであります。

<祈祷>

聖なる神様。導きの光を与えて下さり感謝いたします。悔い改めつつ光のなかを歩ませてください。キリストの御名によって。アーメン。

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