説教「私を養う存在」

2020年12月27日、六浦谷間の集会

降誕節第1主日」  

 

説教、「私を養う存在」 鈴木伸治牧師

聖書、イザヤ書49章7-13節

   エフェソの信徒への手紙3章1-13節

   マタイによる福音書2章1-12節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・98「あめにはさかえ」

   (説教後)讃美歌54年版・118「くしき星よ、やみの世に」

 

 今朝は2020年の最終の礼拝であります。過ぎ去ってみれば早いものだと思いますが、しかしこの一年の歩みを振り返るとき、今年は新型コロナウィルス感染予防に明け暮れつつ歩んだ一年でした。2020年の年が明けるとともに、新型コロナウィルスが広がりつつあることが報じられ、瞬く間に身近の問題となりました。三月後半には幼稚園を休園しなければならなくなりました。全国的に、学校も職場もお休みとしなければならなくなったのです。伊勢原幼稚園は、6月になってようやく入園式を行いました。いつもは在園生が歓迎のお迎えをするのですが、新入園児と保護者1名の出席で行われました。幼稚園が始まりましても分散登園となりました。各クラスは週に二回の登園としなければなりませんでした。そして、7月になって、全員が一緒に登園するようになりましたが、一学期中は午前保育といたしました。そして、9月からの二学期になって、ようやくお弁当となり、全員が毎日登園できるようになったのです。しかし、すべてのイベントは中止となりました。運動会、夕涼み会、遠足等、保護者と共に行う行事は中止とし、ビデオに映して保護者に見ていただくことにしたのでした。クリスマスも保護者が参観したいのですが、これも保護者には遠慮していただき、ビデオで見ていただくことにしたのでした。

 いろいろと試行錯誤しながら歩んだ一年でありました。そして、新しい年を迎えようとしていますが、新型コロナウィルス感染予防に留意しつつ歩むことは変わらないと思われます。そのような状況ですが、2020年も神様のお導きをいただいたのですから、新しく迎える年も神様のお導きをいただきながら歩みたいと存じます。神様は「私を養う存在」ですから、歩みの原点は救い主イエス・キリストにあるのです。

2020年の歩みを簡単に振り返りました。2020年の六浦谷間の集会の主題は「神の国に生きながら」であり、聖句として「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」(ルカによる福音書17章21節)として示され、歩んでまいりました。私たちの歩みは、常に「神の国」を歩んでいるのであります。

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 旧約聖書イザヤ書49章7節以下が示されています。困難な状況に生きる人々、苦しみと希望をなくしている人々への導きの言葉であります。「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって」神様が言われているのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と言われます。「捕われ人には、出でよと、闇に住む者には身を現わせ、と命じる」と示しています。あなたは見えない存在ではなく、はっきりと自身を現わしなさい、と示しています。そして、神様が示す道をどうどうと歩みなさいと示しているのであります。どういう道なのか、「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることもなく、乾くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる」のであります。「太陽も熱風も彼らを打つことがない」との御言葉はヨハネの黙示録7章16節で引用されています。ヨハネの黙示録の背景は、ローマ皇帝によるキリスト者迫害であり、どのような苦しみにあっても、神様のお救いがあり、導きがあると励ましているのであります。このイザヤにおきましても、苦しみに生きる人々への励ましであり、導きであります。この現実の中に神様の導きがあるということを知らなければなりません。いつか、こうなったら神様の導きがあるというのではありません。今の私に対する導きなのです。私の生活の現実に神様の絶大なお導きが与えられていることを受け止めることなのであります。

 「わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、西から来る」と言われます。神様の導きのままに、多くの人々が集まってくるのであります。いずれの人々も現実の中に神様の導きを確認したからであります。神様の導きは明日のことではありません。今、この現実の私に与えられているのであります。自分自身をよく見つめてみましょう。神様の導きの賜物に溢れているのであります。この現実に神様の導きのしるしが与えられているのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え」、「救いの日にあなたを助けた」と言われています。「恵みの時」と言われるとき、私達にとって喜びの日であります。しかし、ただ「喜びの日」が与えられることだけを思うと、喜びがないのは「恵みの時」がないのかと思います。神様が恵みを与えてくださっているのは、この現実の今であります。この現実に置かれている自分を深く思わなければならないのです。苦しい時にも、悲しい時にも、いつも神様のお導きを示されるのです。それがお恵みなのであり、この現実の中で神様を仰ぎ見ることが「恵みの時」なのであり、だからそれは「救いの日」なのであります。この現実の中に救いがあるということです。

 現実の生活の中に神様の救いの「しるし」を見たのは、マタイによる福音書の証言は東の国の占星術の学者であったということであります。占星術の学者とは、ペルシャの国のゾロアスター教の祭司と言われます。彼らは天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈を行う人たちでした。当時の学問に通じた学者でありました。従って、ユダヤ教には関係ない人たちでしたが、彼らの生活の中で神様の「しるし」なるものを知ったのでありました。祭司の働きをしていますから、何事も神託を求めていたのであります。星を見つめているとき、今まで見たこともない星を見つけます。学者達は毎日、星空を見上げては、今日はどんな星が出ているのか、強い光の星、弱い光の星、大きい星、小さい星を見つめていたのです。不思議な星と思える星を見たとき、彼らはすぐに御神託と示されたのであります。神様が救い主を生まれさせてくださったと理解したのであります。そして、すぐに不思議な星、神様が日常の生活の中に与えた「しるし」の星を目指して旅立ったのであります。

 こうして遠い東の国、ペルシャからユダヤにやってまいりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と人々に聞いて歩くのです。これを聞いたユダヤの人々は驚きました。今はヘロデという王様がいるのに、また新しく王様が生まれたのかということです。嫌な予感がします。ヘロデ王も学者達の言っていることを耳にします。穏やかなことではありません。早速、学者たちを呼び、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と学者達を送り出したのでありました。学者達の前には東方で見た星が先立って進みました。そして、ついに幼子のいる場所の上に止まったというのであります。学者達は喜びにあふれたと報告しています。いかにも物語でありますが、マタイのメッセージとして示されなければなりません。

 学者達が家に入ってみると、幼子はマリアと共におられたのであります。ルカによる福音書は、イエス様の生まれた場所は馬小屋であったと示していますが、マタイによる福音書は普通の家であります。普通の生活が営まれる家の中に生まれたということであります。学者達はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでありました。そして、このことを王様に知らせることなく、別の道を通って帰って行ったのでありました。ユダヤの普通の人々の生活の中に救い主がお生まれになったのであります。普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めなければならないのです。しかしユダヤの普通の人々は、自分達の普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めることができなかったのであります。普通の生活の中で、神様の救いの「しるし」を受け止めたのは、聖書の人々ではない外国の人でした。ペルシャゾロアスター教の祭司であったのです。神様が世の人々をお救いになるために、御子イエス・キリストをこの世に生まれさせたとき、聖書の人々ではなく、外国の人が最初にイエス様にまみえたとマタイによる福音書は報告しているのであります。それは、普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」が与えられているのに、知ることができない人々への反省を求めているのであります。

 長い間、救い主の出現を待ち望んできた聖書の人々であります。歴史を通して捕われの身となり、苦しい状況が続きました。その中で、今に救い主が現れて、この苦しみからお救い下さるのだと信じていたのであります。しかし、人々の待望は、救い主は力ある王様として現れることでありました。権威と力で悪を滅ぼし、平和な国を実現してくれるお方の出現を待望していたのであります。普通の生活ではない、別の次元の存在として考えていたのであります。従って、人々の普通の生活の中に出現した救い主を誰も知ることはできませんでした。そして、主イエス・キリストは公に現れるのが30歳頃とされますが、誰もイエス様を救い主とは信じなかったのであります。その教えに喜び、神様の業を示されても、ただ驚くだけで救い主の証しと信じる人はおりませんでした。そして、ついに指導者たちの扇動により、「十字架につけよ」と叫ぶようになるのであります。普通の生活の人々は、極めて自己満足と他者排除に生きていたのであります。だから、この現実の中に救いがあるのに受け止めることができないのであります。あの十字架は私の中にある自己満足を滅ぼすものであり、真に人を見つめ受け止めつつ生きることへと導かれるとき、この普通の生活の中に、導きの「しるし」が厳然と置かれていることを知るのであります。

 私達はいつも「恵みの時」を与えられているのです。自分で自分を判断している私達です。そして、自分の方向を決めているのです。まず、現実に「先立つ導きは」があると思わなければならないのです。

 私は今、伊勢原幼稚園の園長を担っていますが、来年3月にはこの任を終えることになっています。当初は1年くらいのお務めと思っていましたが、3年も務めることになりました。その前は横浜本牧教会の園長を一年半になっていたのです。3月に退任することになっていた時、伊勢原幼稚園の園長を担うことの導きがあり、まあ1年くらいなら、そんな思いで引き受けたのですが3年も担うことらになりました。私を養う存在、神様のお導きですから、お受けしたのでした。来年4月からはのんびりと過ごすことにしていますが、私を養う存在がどのようにお導きくださるのか、ゆだねつつ歩みたいと存じます。

 私を養う存在は、私達のそれぞれにお導きを与えてくださっているのです。自分の思いではなく、イエス様のお導きにゆだねて歩みたいのです。

<祈祷>

聖なる神様。一年の導きを感謝いたします。新しい年も私を養う神様にゆだねながら歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

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