説教「先立つ導き」

2017年12月31日、六浦谷間の集会 
降誕節第1主日

説教・「先立つ導き」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書49章7-13節
    マタイによる福音書2章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・98「あめにはさかえ」
    (説教後)讃美歌54年版・118「くしき星よ、やみの世に」


 今朝は2017年の最終の礼拝であります。過ぎ去ってみれば早いものだと思いますが、しかしこの一年の歩みを振り返るとき、お恵みを常にいただきながら歩んだことを示されています。この六浦谷間の集会も11月をもちまして七周年となりました。日本基督教団の隠退教師となりましたが、隠退してもなお用いられていること、神様のお恵みであると思います。昨年の2016年7月まで2010年10月から月に一度でありますが、横須賀上町教会で礼拝説教及び聖餐式を担当させていただきましたが、同教会の伝道師が牧師になりましたので、お手伝いは終了することになりました。そうしましたら昨年の10月からは横浜本牧教会の付属幼稚園の園長に就任しましたので、同教会の礼拝説教を月に一度担当することになりました。2012年から三崎教会の礼拝説教を隔月に担当させていただいていますが、今でも担当させていただいています。今年は6月18日に明治学院教会で礼拝説教を担当させていただきました。明治学院日本基督教団の教会ではありませんが、連れ合いのスミさんのお友達が教会員であり、お招きをいただいたてのでした。それから8月27日には前任の大塚平安教会で説教を担当させていただきました。羊子が帰国中であり、ご挨拶に伺いながら説教をさせていただいたのです。羊子は奏楽を担当させていただいたのでした。私達が大塚平安教会でご用をするということで、知り合いの方々が大勢出席されたことは大きな喜びでした。その他の日曜日は六浦谷間の集会で礼拝をささげつつ歩んでまいりました。
 今年の1月5日にはバルセロナに在住の下山由紀子さんがお連れ合いのカルロスさんと帰国中でありましたので、金沢区役所でお会いすることができました。2月12日には羊子とイグナシオさんに男の子が与えられ、義也君と命名されました。そして、羊子は7月24日に義也君を連れて帰国しました。8月29日にはバルセロナに戻りましたが、短い期間においてもいろいろと演奏の機会がありました。浅田真央さんのスケートフィギアの演奏をするため大阪や名古屋に出向きした。義也君のお守りをするために星子や優も一緒に行ったのでした。8月13日は横浜本牧教会で羊子のミニコンサートが開かれました。12月3日にはドレーパー記念幼稚園に在職の頃の先生たちが来宅され、六浦谷間の集会で共に礼拝をささげました。長谷川歩美さん、米村奈美さん、太田都さん達です。そして12月20日には再び羊子が帰国しました。今度は連れ合いのイグナシオさんと義也君と三人で帰国したのです。12月24日には六浦谷間の集会クリスマス礼拝をささげ、祝会を行いました。大塚平安教会時代の知人の皆さん、吉田正和さんと友紀さん、根岸佑子さん、佐藤久美子さん達が出席され、我が家の8人ですから12名の皆さんで礼拝をささげたのであります。羊子は1月6日には深沢教会のニューイヤーコンサートで演奏させていただくことになっています。そして1月10日にはバルセロナに戻ることになっています。
 尚、私たちと共に歩んでいます西尾弥生さんには、お父さんが危篤なので姫路に帰省されましたが11月15日に逝去されました。その15日に優も姫路に赴きました。弥生さんには心から哀悼の意を申し上げます。
 2017年の歩みを振り返ってみました。2017年の六浦谷間の集会の主題は「神様のお導きに委ねつつ」であり、聖句として「わたしたちは、霊の導きに従っているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ローマの信徒への手紙5章25節)と示されて歩んでまいりました。何事も神様のお導きに委ねて歩むということですが、そのように導かれてきたのです。今朝は「先立つ導き」として示されますので、この一年の締めくくりとして御言葉が示されているのです。

 旧約聖書イザヤ書49章7節以下が示されています。困難な状況に生きる人々、苦しみと希望をなくしている人々への導きの言葉であります。「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって」神様が言われているのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と言われます。「捕われ人には、出でよと、闇に住む者には身を現わせ、と命じる」と示しています。あなたは見えない存在ではなく、はっきりと自身を現わしなさい、と示しています。そして、神様が示す道をどうどうと歩みなさいと示しているのであります。どういう道なのか、「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることもなく、乾くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる」のであります。「太陽も熱風も彼らを打つことがない」との御言葉はヨハネの黙示録7章16節で引用されています。ヨハネの黙示録の背景は、ローマ皇帝によるキリスト者迫害であり、どのような苦しみにあっても、神様のお救いがあり、導きがあると励ましているのであります。このイザヤにおきましても、苦しみに生きる人々への励ましであり、導きであります。この現実の中に神様の導きがあるということを知らなければなりません。いつか、こうなったら神様の導きがあるというのではありません。今の私に対する導きなのです。私の生活の現実に神様の絶大なお導きが与えられていることを受け止めることなのであります。
 「わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、西から来る」と言われます。神様の導きのままに、多くの人々が集まってくるのであります。いずれの人々も現実の中に神様の導きを確認したからであります。神様の導きは明日のことではありません。今、この現実の私に与えられているのであります。自分自身をよく見つめてみましょう。神様の導きの賜物に溢れているのであります。この現実に神様の導きのしるしが与えられているのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え」、「救いの日にあなたを助けた」と言われています。「恵みの時」と言われるとき、私達にとって喜びの日であります。しかし、ただ「喜びの日」が与えられることだけを思うと、喜びがないのは「恵みの時」がないのかと思います。神様が恵みを与えてくださっているのは、この現実の今であります。この現実に置かれている自分を深く思わなければならないのです。苦しい時にも、悲しい時にも、いつも神様のお導きを示されるのです。それがお恵みなのであり、この現実の中で神様を仰ぎ見ることが「恵みの時」なのであり、だからそれは「救いの日」なのであります。この現実の中に救いがあるということです。

 現実の生活の中に神様の救いの「しるし」を見たのは、マタイによる福音書の証言は東の国の占星術の学者であったということであります。占星術の学者とは、ペルシャの国のゾロアスター教の祭司と言われます。彼らは天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈を行う人たちでした。当時の学問に通じた学者でありました。従って、ユダヤ教には関係ない人たちでしたが、彼らの生活の中で神様の「しるし」なるものを知ったのでありました。祭司の働きをしていますから、何事も神託を求めていたのであります。星を見つめているとき、今まで見たこともない星を見つけます。学者達は毎日、星空を見上げては、今日はどんな星が出ているのか、強い光の星、弱い光の星、大きい星、小さい星を見つめていたのです。不思議な星と思える星を見たとき、彼らはすぐに御神託と示されたのであります。神様が救い主を生まれさせてくださったと理解したのであります。そして、すぐに不思議な星、神様が日常の生活の中に与えた「しるし」の星を目指して旅立ったのであります。
 こうして遠い東の国、ペルシャからユダヤにやってまいりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と人々に聞いて歩くのです。これを聞いたユダヤの人々は驚きました。今はヘロデという王様がいるのに、また新しく王様が生まれたのかということです。嫌な予感がします。ヘロデ王も学者達の言っていることを耳にします。穏やかなことではありません。早速、学者たちを呼び、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と学者達を送り出したのでありました。学者達の前には東方で見た星が先立って進みました。そして、ついに幼子のいる場所の上に止まったというのであります。学者達は喜びにあふれたと報告しています。いかにも物語でありますが、マタイのメッセージとして示されなければなりません。
 学者達が家に入ってみると、幼子はマリアと共におられたのであります。ルカによる福音書は、イエス様の生まれた場所は馬小屋であったと示していますが、マタイによる福音書は普通の家であります。普通の生活が営まれる家の中に生まれたということであります。学者達はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでありました。そして、このことを王様に知らせることなく、別の道を通って帰って行ったのでありました。ユダヤの普通の人々の生活の中に救い主がお生まれになったのであります。普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めなければならないのです。しかしユダヤの普通の人々は、自分達の普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めることができなかったのであります。普通の生活の中で、神様の救いの「しるし」を受け止めたのは、聖書の人々ではない外国の人でした。ペルシャゾロアスター教の祭司であったのです。神様が世の人々をお救いになるために、御子イエス・キリストをこの世に生まれさせたとき、聖書の人々ではなく、外国の人が最初にイエス様にまみえたとマタイによる福音書は報告しているのであります。それは、普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」が与えられているのに、知ることができない人々への反省を求めているのであります。
 長い間、救い主の出現を待ち望んできた聖書の人々であります。歴史を通して捕われの身となり、苦しい状況が続きました。その中で、今に救い主が現れて、この苦しみからお救い下さるのだと信じていたのであります。しかし、人々の待望は、救い主は力ある王様として現れることでありました。権威と力で悪を滅ぼし、平和な国を実現してくれるお方の出現を待望していたのであります。普通の生活ではない、別の次元の存在として考えていたのであります。従って、人々の普通の生活の中に出現した救い主を誰も知ることはできませんでした。そして、主イエス・キリストは公に現れるのが30歳頃とされますが、誰もイエス様を救い主とは信じなかったのであります。その教えに喜び、神様の業を示されても、ただ驚くだけで救い主の証しと信じる人はおりませんでした。そして、ついに指導者たちの扇動により、「十字架につけよ」と叫ぶようになるのであります。普通の生活の人々は、極めて自己満足と他者排除に生きていたのであります。だから、この現実の中に救いがあるのに受け止めることができないのであります。あの十字架は私の中にある自己満足を滅ぼすものであり、真に人を見つめ受け止めつつ生きることへと導かれるとき、この普通の生活の中に、導きの「しるし」が厳然と置かれていることを知るのであります。

 私達はいつも「恵みの時」を与えられているのです。自分で自分を判断している私達です。そして、自分の方向を決めているのです。まず、現実に「先立つ導きは」があると思わなければならないのです。私は今、横浜本牧教会付属幼稚園の園長を担っていますが、この職務におきましても「先立つ導き」を示されています。2010年3月をもって30年間務めた大塚平安教会を退任することは一年前から決まっていました。4月からは、もはやどこの教会の牧師にはなりませんで、隠退の方向としての心積りをしていました。3月に退任する前に、神奈川教区の2月総会が開かれました。私にとりましては最後の教区総会でした。教区総会は朝10時から始まり、午後4時頃までの予定です。昼食はお弁当をもって来る人もあり、近くの食べ物屋さんに行ったりします、私もおそば屋さんに行きました。たまたま友人の古旗牧師、森田牧師、佐竹牧師も一緒でした。いずれも大塚平安教会に関係する牧師達です。そのとき、古旗牧師が、横浜本牧教会は4月から牧師が不在となるので、代務者として半年間務めてもらえないだろうかと打診されたのです。実は、この件は少し前にもお話しがあり、私は隠退の方向でいましたのでお断りをしていたのです。そのおそば屋さんで再び誘いがあり、「行ってみようか」と思わず言ってしまったのです。そしたら古旗牧師はそこにいる他の牧師に、「聞いたよな」と確認するのです。なんとなく受託するようなことを言ってしまったのですが、それが本格的に代務者就任の方向になってしまいました。それから一ヶ月後には横浜本牧教会代務者及び早苗幼稚園の園長に就任してしまいました。10月からは後任の牧師・園長が就任しますので、9月までの暫定的な務めでした。従って、牧師・園長としての責任を担いつつも、積極的な職務ということではありませんでした。この半年間の経験が再び幼稚園の園長に就任することになるのです。今までの牧師は、2010年10月に就任した牧師・園長でしたが、一生懸命に教会と幼稚園の職務を担ったと思います。しかし、役員会との意見が合わなくなったようで、ついに昨年の2016年9月で辞任してしまったのです。そのため教会は代務者として小林牧師、園長として私を選任されたのです。私が代務者を務めたときは園長も担ったのですが、小林牧師は他に大事な職務がありましたので、幼稚園は私が担うようになったのです。
 このような歩みでありますが、私は自分の歩みを示されたとき、いつも「先立つ導き」を受け止めています。自分で決める前に、神様が歩むべき道を備えてくださるのです。
<祈祷>
聖なる神様。一年の導きを感謝いたします。神様はいつも「先立つ導き」を与えてくださいますから、すべてを委ねて歩ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。