説教「喜びにあふれる」

2019年12月29日、六浦谷間の集会
降誕節第1主日」歳晩礼拝

 

説教、「喜びにあふれる」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書11章1~10節

   ガラテヤの信徒への手紙3章26節~4章7節
   マタイによる福音書2章1~12節
賛美、(説教前)讃美歌21・269「飼葉おけにすやすやと」

   (説教後)510「主よ、終わりまで」

 


今朝は2019年の最後の礼拝です。歳晩礼拝とも称しています。皆さんもこの一年を振り返って、いろいろなことを思い出しているでしょう。今朝の週報には今年の歩みを振り返っています。それは後程示されたいと思います。今朝の東の国の占星術の学者さんたちがイエス様にお会いし、喜びにあふれたことが示されています。その出会いが「顕現祭」、「公現日」、「栄光祭」とされています。外国では、特にこの顕現祭が大事にされています。娘がバルセロナに滞在していますので、クリスマスの時期に滞在したことがあります。スペインのクリスマスを体験したかったからであります。スペインではもちろんクリスマスのお祝いをいたしますが、むしろ1月6日の顕現祭が盛んであることを聞いていましたので、その体験をするために長く滞在していたのでした。その顕現祭は、今朝の聖書で示されますように、東の国の占星術の学者たちが生まれたイエス様にお会いし、礼拝したことであります。スペインでは学者ではなく、三人の王様になっています。その三人の王様がバルセロナにやってきて、人々と共にイエス様の御生まれになったことをお祝いするのです。しかし、印象では三人の王様が中心で、イエス様の御生まれになったお祝いは遠のいているようでした。王様の伴の者が人々にお菓子を配ったり、イベントが行われたりで、クリスマスと言う印象はありませんでした。クリスマスは人々が教会に集まり、イエス様の御生まれになったことを喜びつつミサをささげるのです。顕現祭もクリスマスなのでありますが、むしろ別の意味のお祭りのような印象でした。
日本でも社会の人々はクリスマスを喜び、お祝いをしていますが、多くの場合、人々自身のお祝いでもあります。中心はサンタクロースであり、クリスマスのパーティーを開くことが喜びなのです。イエス様不在のクリスマスなのですが、スペインの顕現祭を示されて、日本と同じような現象の様でした。顕現祭を体験したと言っても、テレビでその模様を示されたのです。大勢の人々が王様のいる広場に詰めかけますので、羊子が危険だから行かない方が良いと言うわけです。それでテレビでその模様を見ましたが、大変な人々でした。あのようなところに出かけたら迷子になってしまいそうです。
どこの国の人々もお祭り騒ぎが大好きです。日本では、秋には各地でいろいろなお祭りがありますが、10月にはハロウィンのお祭りで賑やかになります。ハロウィンが終わるやクリスマスのお祭りです。そして、お正月を迎えるのです。お正月はお祭り騒ぎと言うより、いろいろな行事があり、それはそれで楽しいのです。そして春を迎えるのですが、キリスト教の国ではカーニバルのお祭りがあります。イエス様が十字架への道を歩む前に、その時はイエス様のご受難を示されますまで、質素の生活をしますので、その生活が始まる前においしい食べ物を食べましょうということでカーニバルが開かれるのです。
まもなくお正月になり、神社仏閣には大勢の人々が出かけるようです。いつもテレビでその模様を見ていますが、混雑することは分かっていながら、皆さんは出かけるのです。大勢の人々との触れ合いが喜びなのでしょう。前週はクリスマス礼拝でした。六浦谷間の集会も家族や知人が出席されましたので、9名の皆さんで礼拝をささげました。やはり皆さんと共に礼拝をささげる喜びがありました。その様な喜びと共に、私たちは本当の喜びを与えられているのです。それはお生まれになられたイエス様にお会いすることです。救い主であるイエス様との出会いが、本当の喜びであるのです。今朝は東の国の占星術の学者たちがイエス様にお会いし、喜びにあふれたと示しています。私達も喜びにあふれる導きをいただきたいのであります。

 旧約聖書イザヤ書11章ですが、「平和の王」について示しています。イザヤ書は最初から順を追ってイザヤの預言を記している訳ではありません。このイザヤ書11章は、むしろイザヤの晩年に記されたものであると言われます。聖書の国である南ユダは、当時大国として力を振っていたアッシリアの国に支配されるようになっています。その前に、同じ聖書の国であった北イスラエルはこのアッシリアによって滅ぼされてしまっていました。南ユダは滅ぼされないで支配されることになったのです。いわば降伏したからです。アッシリアに支配されていることは、支配されるままに生きることで、もはや戦いの心配もないわけですから、いわば平和の社会にもなっていたということです。そのような力における平和に生きる人々に、イザヤは真の平和を宣べ伝えているのが今朝の聖書であります。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示しています。エッサイの子どもがダビデであり、このダビデが成長して名君となりました。神様のお心をもって人々を支配し、導いたのであります。ダビデが油注がれた者として人々に救いを与えたのであります。これは昔のことでありますが、今また、神様はダビデのような救い主、メシアを出現させると言っているのです。そのメシアは、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」存在であることを示しています。メシアを待望して歩むことが大切であると示しているのです。
 さらにメシアが現れると、それこそ力の平和ではなく、真の平和が与えられることを示しているのです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と示しています。これこそ「平和」を示しているのです。小さい子供は攻撃する力はありません。しかし、その姿こそ力であり、神様の平和を示しているのです。インドの聖人とされているガンディーは「非暴力主義」で自由を勝ち取った人でした。戦いではなく、存在そのもので相手の前に立ちはだかったのでした。そして、アメリカのマーチン・ルーサー・キング牧師も、非暴力主義で人種差別撤廃運動に立ちあがったのでした。イザヤ書が「獰猛な野獣を子供が導く」と言っているのは、そのことであります。神様の平和が与えられているからです。「牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう」と平和の姿を示しているのです。
 主イエス・キリストがこの世に現れた時、神の子として、救い主として現れました。それは今朝のイザヤ書11章で預言されている「平和の王」そのものでした。人々に真の平和を与える存在として現れたのです。しかし、当時の世界はローマが支配者であり、初代皇帝になったアウグストゥスは人々から「平和の王」としてたたえられたのです。その時代に主イエス・キリストが現れた意味を聖書は深く示しているのです。「平和の王」は人間ではなく、メシアこそ真の平和を与えるものであると示しているのです。人間の「平和の王」は消えて行きましたが、メシアの「平和の王」は今日にありましても平和の基を導いておられるのです。その「平和の王」はイザヤが示すように「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」のであります。

現実の生活の中に神様の救いの「しるし」を見たのは、マタイによる福音書の証言は東の国の占星術の学者であったということであります。占星術の学者とは、ペルシャの国のゾロアスター教の祭司と言われます。彼らは天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈を行う人たちでした。当時の学問に通じた学者でありました。従って、ユダヤ教には関係ない人たちでしたが、彼らの生活の中で神様の「しるし」なるものを知ったのでありました。祭司の働きをしていますから、何事も神託を求めていたのであります。星を見つめているとき、今まで見たこともない星を見つけます。学者達は毎日、星空を見上げては、今日はどんな星が出ているのか、強い光の星、弱い光の星、大きい星、小さい星を見つめていたのです。不思議な星と思える星を見たとき、彼らはすぐに御神託と示されたのであります。神様が救い主を生まれさせてくださったと理解したのであります。そして、すぐに不思議な星、神様が日常の生活の中に与えた「しるし」の星を目指して旅立ったのであります。
 こうして遠い東の国、ペルシャからユダヤにやってまいりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と人々に聞いて歩くのです。これを聞いたユダヤの人々は驚きました。今はヘロデという王様がいるのに、また新しく王様が生まれたのかということです。嫌な予感がします。ヘロデ王も学者達の言っていることを耳にします。穏やかなことではありません。早速、学者たちを呼び、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と学者達を送り出したのでありました。学者達は星に導かれて、ついに幼子のいる場所に来たのでした。学者達は喜びにあふれたと報告しています。いかにも物語でありますが、マタイのメッセージとして示されなければなりません。
 学者達が家に入ってみると、幼子はマリアと共におられたのであります。ルカによる福音書は、イエス様の生まれた場所は馬小屋であったと示していますが、マタイによる福音書は普通の家であります。普通の生活が営まれる家の中に生まれたということであります。学者達はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでありました。そして、このことを王様に知らせることなく、別の道を通って帰って行ったのでありました。ユダヤの普通の人々の生活の中に救い主がお生まれになったのであります。普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めなければならないのです。しかしユダヤの普通の人々は、自分達の普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めることができなかったのであります。神様が世の人々をお救いになるために、御子イエス・キリストをこの世に生まれさせたとき、聖書の人々ではなく、外国の人が最初にイエス様にまみえたと報告しているのであります。
 長い間、救い主の出現を待ち望んできた聖書の人々であります。歴史を通して捕われの身となり、苦しい状況が続きました。その中で、今に救い主が現れて、この苦しみからお救い下さるのだと信じていたのであります。しかし、人々の待望は、救い主は力ある王様として現れることでありました。権威と力で悪を滅ぼし、平和な国を実現してくれるお方の出現を待望していたのであります。普通の生活ではない、別の次元の存在として考えていたのであります。従って、人々の普通の生活の中に出現した救い主を誰も知ることはできませんでした。そして、主イエス・キリストは公に現れるのが30歳頃とされますが、誰もイエス様を救い主とは信じませんでした。その教えに喜び、神様の業を示されても、ただ驚くだけで救い主の証しとして信じる人はいません。そして、ついに指導者たちの扇動により、「十字架につけよ」と叫ぶようになるのであります。普通の生活の人々は、極めて自己満足と他者排除に生きていたのであります。だから、この現実の中に救いがあるのに受け止めることができないのであります。あの十字架は私の中にある自己満足を滅ぼすものであり、真に人を見つめ受け止めつつ生きることへと導かれるとき、この普通の生活の中に、導きの「しるし」が厳然と置かれていることを知るのであります。占星術の学者たちは、「しるし」を信じてイエス様のもとに参りました。喜びにあふれたのであります。

 今朝は2019年の最後の礼拝、歳晩礼拝です。この一年間の神様のお導きを感謝しています。現在は六浦谷間の集会として、神様のお導きがあり、祝福の一年であったと示されています。その歩みが週報に記してあります。
 今年の新年礼拝は1月6日であり、顕現祭と重なりました。イエス様の顕現、出現を深く示されながら歩み出したのでした。そして、今年の年主題は「ナルドの香油をささげつつ」であり、一人の女性のイエス様への香油注ぎを示されながら歩んだのであります。3月には羊子家族が一時帰国しまして、陸前古川教会で説教をさせていただき、羊子のコンサートを開かせていただきました。40年前にこの陸前古川教会の牧師であり、久しぶりに皆さんとお会いしたのでした。勤めている伊勢原幼稚園でもコンサートを開かせていただきました。その伊勢原幼稚園には4月からも園長として担うことになったのです。その3月には私たち夫婦は金婚式を迎えました。50年間、夫婦が共に教会や幼稚園を担いつつ歩んできたのです。その50年間に三人の子どもが与えられ、それぞれ人々から喜ばれる歩みをしており、心から喜び、感謝をしています。羊子はピアニストとして各地で演奏活動をしており、さらにいくつかの教会では奏楽の奉仕をしております。バルセロナに滞在してますが、いろいろな国々にも赴いています。星子は高齢者ホームで介護の務めをしていますが、ケアーマネージャーの資格を持ち、その職務に邁進しているのです。三番目の優はカイロプラクターとして、皆さんのお疲れをいやしています。この職務も大切な、そして人々に喜ばれる務めなのです。羊子家族はこの秋にも一時帰国しました。小学校4年生まで在学した宮城県の古川第二小学校創立60周年記念でピアノの演奏をいたしました。宮城テレビではさとう宗幸さんの番組に招かれています。そして岡山美術館、京都の世光教会でリサイタルを開かせていただきました。
 今年の歩みを振り返りましたが、まさに「喜びにあふれる」歩みでしたが、私たちにとって主イエス・キリストと共なる歩みが「喜びにあふれる」歩みでありました。さらに「喜びにあふれる」歩みを新しい年も歩みたいと願っています。
<祈祷>聖なる神様。この一年のお導きを感謝致します。新しい年もイエス様の十字架の救いを仰ぎ見つつ歩ませてください。キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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