説教「喜びの到来」

2016年12月25日、六浦谷間の集会
降誕節第1主日」クリスマス

説教・「喜びの到来」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書11章1-10節
    ルカによる福音書2章1-20節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・118「くしき星よ」
    (説教後)讃美歌54年版・109「きよしこのよる


 クリスマスおめでとうございます。今年はクリスマスの日にクリスマス礼拝をささげるお恵みをいただいています。今年も皆さんと共にクリスマス礼拝をささげ、皆さんと共にお祝いできますことを感謝しています。私たちが大塚平安教を退任したのは2010年3月でした。そして、引き続き横浜本牧教会の一時的な牧師になり、それも9月まででした。この六浦谷間の集会は2010年11月28日から始めています。そして、教会を隠退してはじめてのクリスマス礼拝は横須賀上町教会のお招きをいただきましたので、教会の皆さんと共に礼拝をささげ、お祝いをいたしました。翌年の2011年のクリスマス礼拝は、六浦谷間の集会としての初めてのクリスマス礼拝になりました。丁度、12月25日でした。鈴木家の家族と共に西尾弥生さん、室谷友紀さん、天間由美さん、そして小澤八重子さんが出席されたのです。その頃は礼拝をささげつつも出席簿をつけていませんでしたので、手帳のメモを頼りにしています。出席簿に記名するようになるのは2012年4月1日からでした。その日は棕櫚の主日礼拝、受難週礼拝でしたがスペインにいる羊子が一時帰国しましたので、横浜本牧教会の石川隆さん、大塚平安教会の小屋敷柴乃布さんと梨花さん、そして吉田友紀さんが私達家族と共に出席されました。そして2012年のクリスマスは小澤八重子さん、吉田正和さんと友紀さん、室谷美紀さんが鈴木家家族と共に礼拝をささげています。2013年12月23日クリスマス礼拝は小澤八重子さん、吉田さんご夫妻、室谷美紀さん、根岸祐子さん、奏人君、千洋さんが出席されました。2014年のクリスマスは鈴木牧師夫妻がスペイン・バルセロナに滞在中で礼拝はお休みでした。そして昨年の2015年12月20日のクリスマスは根岸さんご家族、吉田さんご夫妻、室谷美紀さんと鈴木家の家族で礼拝をささげたのです。
 クリスマス礼拝だけを拾い上げてみましたが、その他の日曜日の礼拝に出席くださる方がおられます。佐竹和香さんが一人で出席されたこともありました。時々ご出席になられていた小澤八重子さんは今年の9月4日に89歳で召天されました。この六浦谷間の集会には10回出席されています。その写真が残されていますので、写真集を発行しました。礼拝出席記名簿は貴重な記録でありますが、私たちにとって宝物でもあります。皆さんと共に礼拝をささげた記録であるからです。
 私たちが日曜日に礼拝をささげるということは、神様の平和がこの世にゆきわたることを求めているからです。礼拝をささげるごとに御心を示され、人々と共に平和を作り上げる力が与えられるのです。今の社会、世界にしても日本にしても、人を人とも思わない悲しい出来事が次々に起こっています。自分のことしか考えないからであり、人間は共に生きることが本来の姿なのです。クリスマスはこの世に神様の御子、イエス・キリストが現れ、人々を導く宣言であります。クリスマスをお祝いすることは、平和の神様が現実におられることを知るということなのです。

 今朝の旧約聖書イザヤ書11章は「平和の王」について記しています。聖書の国は小さい国であり、いつも外国に脅かされている状況でした。紀元前8世紀の時代は、大国と言えばアッシリア、エジプト、バビロン等の国々がにらみ合っており、その狭間でおびえていたのであります。この時代はアッシリアの国に従うことになった状況であります。強い国に支配されることが、いわゆる平和でありました。昔は外国でも、日本でもそのような時代を経てきています。織田信長豊臣秀吉徳川家康の時代は天下を統一することによって平和が実現するとの思いがあり、結局は徳川の時代になり、長きにわたる武家社会になります。確かに戦いはなくなりましたが、上下関係の苦しい社会です。そのような力の平和は、昔はどこもそのように考えられていたのであります。聖書の世界でもアッシリアに支配されることによって、平和が確立されたと思ったのであります。しかし、この平和は真の平和ではありません。そのような力の平和ではなく、神様による真の平和の到来を告げるのが、今朝のイザヤ書でありました。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌いで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示しています。「エッサイの株」とは、エッサイはダビデの父親であり、ダビデが築いたダビデ王朝を意味します。しかし、その王朝は神さまの御心に反する歩みであり、神様の審判によって滅ぼされていくのであります。ダビデは名君と言われました。神様のお心に忠実に歩み、人々を平和に導いたのであります。その子供のソロモンは神様から知恵を授けられ、このソロモン王も神様の御心を人々に与えた存在でした。例えば、赤ちゃん裁判があります。二人の女性が、一人の赤ちゃんを自分の子供だと主張して王様にお裁きを求めます。お互いに言いあっている女性に対して、ソロモン王は家来に命じます。この赤ちゃんを二つに切り開いて、それぞれの女性に与えなさいというのです。一人の女性は、そうしてくださいと言いますが、一人の女性はそんなことはしないでくださいと懇願するのです。もう、自分の子供だと言いませんから切り裂くことはおやめ下さいとお願い致します。王様は、この女性こそ本当の母親であるとして裁きを与えるのであります。日本で言えば大岡越前の守様のお裁きのようです。ソロモンは神様の知恵、お心をいただいて人々を裁きますが、人間的な思いも強くありました。従って、ダビデのように名君とは言われないのです。そして、ソロモンの後はお家騒動が起きました、国は二つに分かれてしまうのであります。北イスラエル、南ユダの国に分かれてしまうのでありました。そして、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまったのであります。今、南ユダの危険な状況にあります。しかし、アッシリアに従属されることにより、すなわち支配をうけることになり、滅亡はまぬかれていました。人々にとって、アッシリアによる平和が与えられていると思っているのです。しかし、真の平和は、このような力の平和ではありません。徳川幕府の時代、確かに戦いはなくなりましたが、力の平和なのであり、真の平和ではありませんでした。
 今やイザヤは、神様が再びダビデの家から平和の芽が出ていることを宣言するのであります。平和の主は貧しい人々を公平に導くと宣言しています。6節以下は恐ろしい動物達でありますが、それらの動物たちと共存する時が来るであろうと宣言しているのであります。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と示しているのであります。平和の世は子供たちが神様の御心を人々に示すのであります。「その日が来れば、エッサイの根は、すべての民に旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」と示しているのであります。神様が救い主を世に現すことを示しているのであります。苦しみに生きる人々のために、貧しく生きている人々のために、悲しみつつ生きている人々のために、神様が救い主をこの世に現してくださることを示しています。救い主が現れるならば、恐ろしい動物たちも穏やかになるとは、人間の姿でありますが、強い者や弱い者が共に生きるということであります。皆が共に生きるということなのです。それが救い主イエス・キリストによって実現するということを、旧約聖書をもって宣言しているのであります。

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」ので、ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。身ごもっていたいいなずけのマリアと一緒に登録するためでありました。ベツレヘムの町は住民登録をするために各地から集まっていたので、宿屋さんは何処も満員であったということです。そこで、ある宿屋さんの馬小屋で過ごすことになります。そして、その馬小屋でマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでありました。ここにルカによる福音書のメッセージがあります。イエス・キリストが産まれたのは、立派な御殿ではもちろんありません。普通の家でもありません。人間の住むところではない場所、馬小屋という場所でした。そこは馬の出し入れ以外は人が行き来しない場所であります。しかし、だれもがいける場所でもあるのです。しかも、飼い葉桶に寝かされたということにも、ルカの深いメッセージがありました。飼い葉桶のメッセージはすでに示されています。すなわち、飼い葉桶は動物の食べる器であります。そこにイエス様がおられるということは、イエス様が神様の糧を私たちに与えるということでした。事実、イエス様は神様のお心、そして命のパンを人々に与えられたのであります。今こそ、ここに神様が共におられるのですよと示しているのです。
 ルカによる福音書は、お告げを羊飼い達に示したのでありました。野宿する羊飼い達は、家に帰ることができません。羊を養っての人生であり、人々からは忘れられているような存在でありました。暖かい温もりのある生活は望めないような状況でもあります。あなたは悲哀に生きているのですか、苦しんで日々歩んでいるのですか、孤独にさいなまされているのですか、そのあなたのために平和の神様が導きを与えられているのですよ、とルカによる福音書は、昔から預言されている祝福の喜びを示し、さらに喜びが発展していくことを示しているのです。
 ルカによる福音書は、他の福音書には記されない人間の悲哀を記しています。一つはルカによる福音書7章11節以下の「やもめの息子を生き返らせる」出来事です。ナインの町で、一人息子を亡くした母親が、悲しみつつ棺と共に歩いています。イエス様は哀れに思われ、「もう泣かなくても良いですよ」と言い、息子を生き返らせるのであります。そのとき人々は、「神はその民を心にかけてくださった」と言い、神様を賛美したのでした。さらに、「善いサマリア人」のたとえ話、「放蕩息子」のたとえ話、「不正な管理人」のたとえ話、「金持ちとラザロ」のたとえ話、「徴税人ザアカイとイエス様との出会い」等、悲哀に生き、悲しみつつ生きていた人々がお告げを示され、喜びへと導かれることをルカによる福音書は証言しているのです。
 私の現実に神様のお告げがある。そのお告げは大きな喜びへと導いてくださるのであります。それは旧約聖書以来示されている平和の神様の到来であります。神様は私たちに平和を実現してくださるのです。

もう一度ルカによる福音書のメッセージを示されましょう。「羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」のでした。この地方は羊を飼う産業が行われており、たくさんの羊を飼うようでした。イスラエル旅行をしたとき、バスの移動で山間の道を通っていきましたが、途中、羊の群れが見られましたが、一つのところに50匹だの100匹はいません。それこそ三々五々という感じで、広い範囲にわたって羊がいるようでした。ですから羊飼いたちも広い範囲にわたって、羊の管理をするのですから、大変な仕事の様です。夜は野宿しながら羊の番をしています。その場合、羊飼いの職務は耳をそばだてることでした。いつも耳を傾け、羊の声を聞いていたのです。広い範囲に羊がいますが、どこに羊がいるか、耳で知っていたのです。どんなにちいさい声でも聞き分ける、そのような姿勢に天使の声が聞こえたのでした。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」との天使のお告げを聞くことができました。天使は多くの人々に告げているのでしょうが、そのお告げを聞くことができたのは、羊飼いたちだけであったのです。いつも聞く耳を持っていたからです。「いと高きところに栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」との天使たちの賛美の歌を聞いたのです。救い主がお生まれになり、地には平和が実験するでしょう、と示しているのです。
 神様は救い主イエス・キリストをこの世に生まれさせ、人々に平和を与えておられるのです。真の平和はイエス様の教え、「自分のように他者を愛する」ことが原点であります。人間はなかなかその導きに従わないのです。しかし、私たちはイエス様の平和のお導きをいただいています。先ほどもお話しいたしましたが、今まで六浦谷間の集会に、時々ではありますが、出席されていた小澤八重子さんを示されます。小澤さんは座間市立野台にお住まいでしたが、高齢になられ、追浜にお住いの娘さんと共に過ごすようになりました。私たちが六浦の家に住むようになる2年前でした。そして、2010年11月から六浦谷の集会を開く様になって、喜びつつ出席されるようになりました。皆さんと共に礼拝をささげるとき、大きな声で讃美歌を歌っていました。礼拝をささげる喜びを持たれていたのです。大塚平安教会には遠くなり、礼拝をささげることができなくなりましたが、この六浦谷の集会の礼拝により、神様から与えられる平和をしっかりといただきながら過ごされたと思っています。そういう意味でも、この六浦谷間の集会でささげられる礼拝が、神様の平和をいただく原点であると示されているのです。今年も皆さんと共に六浦他谷間の集会におけるクリスマス礼拝を心から感謝したいと思います。
<祈祷>
聖なる神様。クリスマスのお恵み、神様の平和をいただきました。神様の平和が日々の希望となりますようお導きください。イエス様のみ名によっておささげ致します。アーメン。