説教「祈りの家」

2020年2月2日、六浦谷間の集会
降誕節第6主日

 

説教、「祈りの家」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記上8章22-30節

   コリントの信徒への手紙<一>3章10-17節
   ヨハネによる福音書2章13-25節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・123「ナザレの村にて」
   (説教後)讃美歌54年版・524「イエス君、イエス君」

 


2月を迎えています。もはや1月の、お正月の歩みは終わっています。お正月には多くの人々が初詣ということで、お宮さんにお参りをしています。お願いをするためです。新しい年が始まり、この年も家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願等の目的でお祈りをささげるのです。しかし、今はもうお宮さんにお参りする人は少なくなりました。鎌倉八幡宮のように観光地にあるお宮さんには、今でもお参りする人が後を絶たないのですが、この界隈の神社ではほとんどお参りする人を見かけません。金沢八景には瀬戸神社、追浜には雷神社があり、時々その前を通るのですが、お参りしている人はほとんど見かけないのです。お祈りしてお願いするのはお正月の初詣に限っているのでしょう。
以前のことですが、高校生かと思われる女学生、二人であったと思いますが、瀬戸神社にお参りをしていました。若いのに感心して見ていましたら、どうやらその女学生たちはキリスト教主義の学校の生徒のようです。キリスト教主義の学校ですから、いつもは礼拝が行われています。そこでお祈りをささげているのです。お祈りをささげることでは、いつもしていることなのですが、キリスト教ではない神社のお参りまでしている姿には、何となく不可解な思いを持ちました。何事も神様に向かってお願いすることは、良い心構えなのかもしれません。しかもお正月でもなければイベントのあるときでもなく、普段の生活でお参りをするのですから、その姿勢は評価してあげなければならないのしょう。
何かの記念日に神様に向かいお祈りすること、日本ではお正月であり、七五三のお祝いの時等でありましょう。このことは外国でも同じような現象であります。スペイン・バルセロナには何度か滞在しています。クリスマスやイースターカトリック教会のミサに出席しました。カトリックの国ですから、さすがに大勢の人々が出席することに驚いたりしました。そしたらバルセロナに住んでいる娘の羊子が、普段は少ないというのです。クリスマスやイースターの時には大勢出席するものの、通常はむしろ少ないということでした。クリスマスやイースターには若い人たちも結構出席しているのですが、通常は若者の姿はあまり見られないということでした。このことは日本の国でも同じことです。クリスマスには、今まで教会に出席してない人達、若者たちも結構出席するのでした。イベント的な集まりには好んで出席するのです。それでも教会に出席して、神様に向かうのですから結構なことであると思います。
教会には神様が存在していると思っているでしょう。神社にしても、そこに祀られている神様が存在しているのです。しかし、教会には神様はおりません。いるのは教会の牧師ということなのです。その示しを与えている今朝の聖書から教えられたいと思います。

 聖書の人々は神様に導かれる民族です。エジプトで奴隷であった人々は、神様によって選ばれたモーセによって奴隷から解放されます。そして、その後は神様の導く「乳と密」の流れる土地へと導かれていくのですが、エジプトを出てから40年もかかるのです。本当はそんなにかからないのですが、聖書の人々の不信仰が原因しているのです。そういう人々なのですが、モーセはエジプトからの奴隷解放と共に、もう一つの大きな使命がありました。それは神様を礼拝しつつ歩むということです。神様から与えられた十戒を基として、神様の御心をいただきつつ歩むということなのです。そのために神様を礼拝する場所が必要です。いわゆるお宮さんを造りたいのですが、旅の途中であり、固定的な建物はできません。それで折り畳み式のお宮さんを造るのです。いわゆるテントですが、旅の途中で宿営します。その時は折り畳み式のお宮さんを造るのです。その折り畳み式お宮さんを幕屋と称していました。幕屋はいつでも組み立てられ、またたたんでは移動していたのです。そして、宿営しているときには幕屋の前に人々が集まり、そこでお祈りをささげていたのです。
 そしてついに神様の導きの土地に定着するようになります。ダビデ王様はお城に住むようになり、しかし、幕屋は依然として幕屋でした。そこでダビデ王様は、幕屋ではなく立派な神殿を造ろうとしました。すると、神様はそれを阻止するのでした。神様は人間の造った神殿には住まないからです。ダビデ王様は神殿造りを取りやめました。ところが次の王様、ソロモンがやはり神殿造りを始めるのです。それに対して神様は何も言うことなく、神殿造りを見守ります。やがて立派な神殿が完成しました。そこでソロモンは人々を集め、神殿の前でお祈りをささげるのです。ソロモンのお祈りから示されましょう。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。」とお祈りしているのです。つまり、ソロモンにとって、神様は人間の造った神殿の中にはいないということ、しかし、神様が御目を注いでくださる所としているのです。それに対して、ダビデ王様は神殿に神様がお住みになるとして神殿造りを始めようとしたのです。そのため、神様はダビデの思いを阻止させたのでした。
 ソロモンがお祈りしているように、神殿には神様が存在しているのではありません。しかし、神様が神殿に御目を注いでくださっているので、その神殿に向かってお祈りをささげているのです。「どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪をお許しください。」とお祈りしています。ソロモンのお祈りは、まず罪の赦しでした。祈りは願い事であり、次々に欲望を投げかけるのですが、そのような欲望のお祈りではなく、罪の赦しをまずささげているのです。このことは教会に導かれる私たちの基本的な祈りの姿勢なのです。教会で何をお願いするのではなく、自分の存在の悔い改めであり、罪の赦しを願うことこそ、神殿に臨む姿勢であり、私たちの教会での祈りであるのです。お正月の初詣で、罪の悔い改めをお祈りした人がいるでしょうか。ほとんどが幸せをもとめる祈りなのです。ソロモンの神殿建設とお祈りは、私たちにお祈りの基本を示しているのです。

 イエス・キリストは誠のお祈りを導かれています。マタイによる福音書6章にはお祈りの姿勢を示し、具体的に「主の祈り」としてお祈りを示しています。その中には、罪の赦しが重く示されているのです。さらにお祈りについては何かと導いておられます。ルカによる福音書18章には「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえが示されています。ファリサイ派の人と徴税人がお祈りするために神殿の前に立ちます。ファリサイ派の人はこのようにお祈りしました。「神様、わたしはほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のようなものでないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。」とお祈りしたのです。それに対して、徴税人は、神殿より遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」とお祈りしたのでした。イエス様は、神様に祝福されたのはファリサイ派の人ではなく、徴税人であると示しています。神様にお祈りするとき、罪の悔い改めがあるかということです。ファリサイ派の人のお祈りは、自己の自慢であり、自分で自分を良きものとしているお祈りであり、罪の悔い改めが何一つ祈られていないのです。このようにお祈りの姿勢を示しているイエス様は、神殿の祈りについて、さらに示しているのが今朝の聖書です。
 今朝はヨハネによる福音書2章13節以下に記される「神殿から商人を追い出す」ことのしるしです。イエス様は神殿に行き、その場の様子をご覧になります。神殿の境内では、牛や羊や鳩を売っている人たち、また両替人の人たちがいました。それを見たイエス様は縄で鞭を作り、羊や牛を境内から追い出し、両替人のお金をまき散らしてというのです。そこで言われたイエス様の言葉は、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」ということでした。イエス様はそのように言うのですが、昔から神殿の境内では牛や羊や鳩を売る店、また両替人がいるのです。それは必要があるからでした。人々は神殿にお参りにやってきますが、聖書の戒めの中に捧げものが示されています。豊かな人は牛をささげます。貧しい人は鳩を捧げるのです。遠くから神殿にお参りに来る場合、牛を引っ張ってくるわけにはいかないのです。ですから神殿の境内で買い求めてささげるのです。また、両替も必要なのです。聖書の国以外に住んでいる人たちにとって、ここで両替を行い、動物を飼ったり、お金を捧げたりするからです。いずれも必要な商売人たちでありました。その人々を追い出したということ、そして言われたことは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。ヨハネによる福音書にはこの言葉はなく、この言葉はマタイによる福音書で示されています。ヨハネにはその言葉がありませんが、その意味を含めて商売人を追い出したのであります。商売人は、多くの人がいたことでしょう。そして、自分の売り物を買ってもらいたいと掛け声を出していたでしょう。商売人の掛け声、動物の鳴き声等、騒々しい状況であったと思われます。
 神殿はお祈りする場であり、神様が御目を注いでくださっている場所です。そのような信仰をもってお祈りをささげなければならないのです。騒々しい境内では真のお祈りをささげられないということです。そしてお祈りの基本は罪の悔い改めですから、自分自身を深く見つめ、自分の姿を神様に、悔い改めつつささげることなのです。騒々しい境内では悔い改めが導かれず、騒々しい状況に巻き込まれてしまうのです。イエス様の宮清めは祈り原点を示しているのです。

 キリスト教ではいつもお祈りをささげています。礼拝では司会者のお祈りや奉仕者のお祈りがあります。会衆は声には出しませんが、祈りつつ礼拝をささげているのです。そのため教会では祈祷会を開いています。週の半ばの水曜日、または木曜日の夜に祈祷会を開いているのでした。祈祷会では聖書が読まれ、牧師の奨励があり、または信徒の証しが行われます。そして、その後は集まった人々によりお祈りがささげられるのです。大きな教会では多数の皆さんが出席するので、お祈りする人は代表の人が数人でささげることになります。しかし、多くの場合、教会に出席した人たちが全員お祈りしています。多くても10人くらいですから、順次お祈りをささげるのでした。最初の教会時代ですが、祈祷会の出席は多くはなく、いつも少人数でした。主任牧師、副牧師の私と教会員の一人、二人くらいの出席でした。ある時の祈祷会では三人の出席でした。教会員の人は、教会の祈りの課題が多くありますので、それらのお祈りの課題を順次お祈りしていました。次から次へとお祈りが続くのです。一人で長々とお祈りしているものですから、主任牧師が、「もうそろそろ終わりにしてください」と言ったものです。
 お祈りはどこの教会でも長くささげる人がいます。前任の教会でも祈祷会のお祈りが課題となっていました、。やはり一人の方が教会の歩みのあらゆることをお祈りするのです。それでお祈りは、それぞれ分担してお祈りをすることにしたのです。そのため、お祈りを始める前に、誰が何をお祈りするかを決めることにしました。そのように一つのことだけをお祈りされるのですが、中には、やはり別のことまでお祈りしているのです。お祈りの約束事を決めても、ついいろいろとお祈りをささげること、良し悪しを言うのではありませんが、やはり、あまり祈祷会が長くなると、祈祷会の意味を問いたくなるのです。お祈りは簡潔に、必要なことだけをお祈りするということです。
 教会に在任しているとき、時々お祈りにやってくる人がおられます。以前の教会時代でしたが、一人の青年がお祈りをさせてください、とやってきました。週日の教会は静かなものです。お祈りをささげるにはまさに適していると思います。その青年を礼拝堂に導き、私は教会の事務室で執務していました。すると礼拝堂の方で、何やら騒がしい音が聞こえてきました。何事かといってみると、お祈りに来た青年が大きな声で歌っているのです。わたしを見て、讃美歌を歌いつつお祈りをしていました、と言われたのでした。静かな礼拝堂でお祈りが導かれ、そのお祈りが高められたのでしよう。その後、礼を述べつつ帰えられて行きました。また、やはりお祈りに来られる方がおられました。礼拝堂に案内しました。かなり長い時間お祈りしていましたが、静かにお祈りしているようです。やがて、何となく晴れ晴れとした顔で、礼を述べつつ帰えられていくのです。
 教会には神様が鎮座しているのではありません。神様が御目を注いでくださっているので、その神様にお祈りをささげるのです。お祈りにやってくる皆さんは、教会に神様がおられると思っているのでしょう。それはそれでお祈りの意味があるでしょう。神様に心を向けているからです。御目を注いでくださっている神様に、まず罪の悔い改めをささげ、御心に従うお祈りをささげたいのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。祈りの家を感謝いたします。御目を注いでくださっている教会において、真実なるお祈りを導いてください。イエス様のみ名によりおささげします。アーメン

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