説教「『主の祈り』を重ねつつ」

2017年5月21日、六浦谷間の集会
「復活節第6主日

説教・「『主の祈り』を重ねつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記上18章30-39節
    ヘブライ人への手紙7章11-19節
     マタイによる福音書6章5-15節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・291「主にまかせよ」
    (説教後)524「イエス君、イエス君」


 今朝は主イエス・キリストのお祈りが示されています。お祈りは、人間は誰もが祈りつつ歩んでいるのです。八木重吉という詩人の歌ですが、「赤ちゃんが泣いている。あれは神様を呼んでいる声だ」と表現しています。赤ちゃんはお母さんを呼んでいるのでしょう。しかし、赤ちゃんにとって、お母さんは神様でもあるのです。自分の欲望を自分にとって大きな存在に投げかけているのです。やがて子供たちも成長していきますが、常に自分の思いを投げかけながら成長して行くのです。大人である私達も、やはり自分の願い、思っていることが、その通りに実現することです。昔、大塚平安教会時代ですが、青年が病で入院していましたので、いつも病院に行ってはお話をしていました。お見舞いに行っても、治療中とか検査中は待合所で待っていることになります。そうすると、いつの間にか知らない人がそばに来て、ささやくように言うのです。「私達が信仰している神様にお願いすると、どんな病気も治りますよ」ということです。そのような誘いの言葉に引かれる人もあるでしょう。お祈りすれば治るという新興宗教の典型的な信仰なのです。苦難と信仰、病気とお祈り、いつも課題になりますが、お祈りすれば、自分の願い通りになるのであれば、喜ばしいことですが、現実はそのようなことではありません。その宗教に入って、お祈りしても治らないと言えば、信仰が足りないということになるのです。
私たちは日々神様に祈りをささげつつ歩んでいます。祈りは私たちの願いを神様にささげ、願いや思いを聞きとげていただくことなのです。しかし、日夜祈りつつ過ごしているのに、少しも自分の思いの方向には行かないと思うことがあります。祈ればかなえられることが前提になっていますが、かなえられなければ、この神様は駄目だと思ってしまうことも、人間の素朴な姿でもあります。従って、別の神様にお祈りすることにもなります。祈ればその通りになる、これは新興宗教の特徴でもあるのです。ありふれた例話ですが、最近は大福を食べてないので、神様どうぞ大福をくださいと祈ります。毎日祈りますが、大福らしきものは自分の前に現れないのです。その大福にしても、大きさもあんこの入り具合も決まっています。自分の思っている通りのものが手に入らないと、祈りはかなえられないと思うのです。しかし、神様は私たちの祈りを受け止めてくださっています。今、私は大福を食べるのはよろしくないので、神様は別のものをもって答えてくださるのです。子どもが寝る前に甘いものをお母さんにねだります。しかし、お母さんは泣き叫んでせがまれても、決して甘いものを与えないでしょう。しかし、少し水を飲ませるとか、添い寝して絵本を読んであげるかして子どもの願いに答えるのです。そのことを示されると、私たちは願いがかなえられないというのではなく、私たちの周囲を見ることによって、神様の答えがここにもある、あそこにもあるということを示されるのです。私たちの願い通りではなく、神様のお心が私たちのあらゆるところに与えられているということです。
 神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。そのことをしっかりと信じてお祈りをささげることです。

 旧約聖書はエリヤの祈りが示されています。聖書の人々は神様に悪を重ねています。何よりも偶像礼拝をささげているということです。バアルという偶像の神のために神殿を造り、日々この偶像に祈りをささげていたのであります。それに対する審判を神様は与えるのです。干ばつ、雨が降らないで水がなくなるという審判でありました。その導入が前の部分の示しであります。エリヤはサレプタの女性のもとに遣わせられるのです。そこで、一握りの小麦粉とわずかな油しかない女性に、パンを所望いたします。しかし、一握りの小麦粉は自分と子どものパンを作れば、後は死を待つばかりですと女性は言います。それでも、エリヤはまず私のためにパンを作りなさいというのです。女性はエリヤの言うとおりにします。すると小麦粉も瓶の油も尽きることなく与えられ、この親子は祝福のうちに生きて行くのでありました。その後、女性の一人息子が死んでしまいます。悲しむ母親に対して、エリヤは心から神様にお祈りをささげます。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈ったとき、神様はエリヤの声に耳を傾け、その子どもの命を元に返したのでありました。
 これらのことがあって3年を経たとき、いよいよエリヤはバアルの預言者たちと決戦に臨むのであります。まず王様のアハブのもとに行き、偶像礼拝を廃するよう求めます。「主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。今、イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く450人のバアルの預言者を、400人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい」とエリヤはアハブ王に言います。こうして集められた偽りの預言者と決戦をすることになりました。二頭の雄牛が用意されます。エリヤの造った祭壇と偽預言者が造った祭壇の薪の上にそれぞれの切り開いた牛を乗せておきます。そこでそれぞれの神を呼ぶことになります。真に神様が答えるならば、神自らが薪に火をつけるというのです。そこで、まず偽預言者たちは祭壇の前でバアルの名を呼び、祭壇の周りで飛び回るのであります。剣や槍で体に傷を付けて叫び続けるのでした。もちろん偽預言者たちがどんなに大声を出しても祭壇の薪に火などつきません。そのような彼らにエリヤは嘲笑いつつ言います。「大声で叫ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それともひと目を避けているのか、旅にでも出ているのか。おそらく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう」と嘲りつつ言うのでした。結局、偽預言者たちの祭壇の薪には火がつきませんでした。当然であります。偶像の神は神ではなく、人間が作った偽りの神だからです。
 そこで今朝の聖書になります。列王記上18章30節以下は、エリヤが神様に祈りをささげる場面であります。エリヤは12部族にちなんで12の石で祭壇を築き、祭壇の周りに溝を作ります。そして祭壇の薪に水を注がせます。三度も水を注ぎます。そんなに濡れてしまっている薪に火がつくかと案じられます。水は祭壇の周りの溝にたっぷりとたまるのです。そこでエリヤは神様にお祈りをささげます。「アブラハム、イサク、イスラエルの神よ、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心をもとに返したのは、あなたであることを知るでしょう」と祈るのでした。すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をなめ尽くしたのであります。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言ったのであります。偶像の神をバアル、アシェラと称していますが、「主こそ神です」という「主」とはエホバという名であります。神様の名をみだりに唱えてはならない、との戒めがありますから、聖書では常に「主」と称しているのです。こうして、エリヤは偽預言者と決戦し、勝利を収めたのであります。エリヤが勝ったというより、神の力が証されたのであります。神様は真実なる声に答えてくださるのです。真実の叫びを顧みてくださるのです。人間が自分のために、自分の思いに答えさせようとして造られた神は神ではありません。そうであるとすれば、ただ自分の思いをかなえさせようとしてささげる祈りは、偶像の神に向けているということになるのです。私たちは真の神様にお祈りをささげなければなりません。

 真の祈りとは、このようにささげなさいと教えてくださったのが主イエス・キリストであります。新約聖書の今朝の聖書はイエス様が教えられた「主の祈り」であります。まず、イエス様は祈りの基本的な姿勢を教えておられます。お祈りは神様に自分の思いを申し上げることであります。従って、神様と自分との関係であります。人に見せるためではありません。祈りの姿を人に見せようと、通りの角に立って祈りたがる人は偽善者だと示しています。鎌倉に行くと、駅を出た道路には大きな鳥居が立っています。八幡宮ははるか向こうにあります。その鳥居付近で八幡宮に向かってお祈りしている人を見かけますが、この場合は人に見せようとしているのではないでしょう。八幡宮まで行く時間がないので、その鳥居でお祈りしていると思うのです。私たちは人前でお祈りするのは気が引けます。
 祈りの姿勢をいくつか示したイエス様は、では祈りとはこのようにして祈りなさいと示されました。マタイによる福音書6章9節以下は、私たちが常にささげている「主の祈り」の原型であります。「天におられるわたしたちの父よ」と最初に祈ります。今、自分が何処に向かってお祈りをしているかを確認しているのです。当然のことでありますが、神様なのです。偶像の神様ではありません。自分の思いをかなえさせようとする偶像の神ではないということです。しかも、イエス様は神様を「父」と呼ぶことを示しているのです。ユダヤ教ではエホバの神様です。しかし、神様の名をみだりに唱えてはいけないとの戒めがありますから、「主」と呼んでいます。その名を口にすることもはばかる存在の神様なのです。それに対して、イスラム教はアラーの神様です。イスラム教のアラーの神様も絶対的な神様ですから、礼拝をささげるときにはひざまずき、額を地面につけて礼拝をささげます。そうした絶対的な神様信仰に対して、主イエス・キリストは「わたしたちの父」として呼ばせてくれたのです。神様は絶対的な神様でありますが、親しく「私たちの父」と呼ばせてくれたのです。ユダヤ教のエホバもイスラム教のアラーもキリスト教の父なる神も、本質は同じ神様です。ユダヤ教の神とイスラム教の神は違うということはありません。「主の祈り」は親しく神様に向かって祈ることが導かれているのです。その親しい神様の「御名が崇められますように」と祈ります。エホバなる神様を心から崇めることが出来ますようにとの願いです。そして、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ります。御国とは神様の国、天国であります。神の国、天国はまさに平安の国です。その平安が地上に行き渡りますようにと願っているのです。主イエス・キリストはこの世に神の国を建設されるために世に現れたのであります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に示したのであります。この地上が神の国になるために、十字架にお架かりになり、私たちを罪の中から贖ってくださったのであります。ここまでは父なる神様のご栄光をお祈りしています。
 11節からは私たちの課題であります。「わたしたちの必要な糧を今日与えてください」と祈ります。必要な糧は毎日の生活に必要な物です。食べること、生活の必要物資であります。しかし、私たちは一人の人間として生きるとき、それだけでは一人の人間とはいえません。イエス様が荒野にて悪魔の誘惑を受けたとき、まず食べることの誘惑でした。これから社会に出て行くにあたり、まず食べて体力をつけることです。だから悪魔は石をパンに変えて食べなさいというのです。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えたのでありました。「私たちの必要な糧」は神様のお言葉であり、体を養う食べ物の両方を求めているのです。12節、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈ります。罪の赦しを願っています。「主の祈り」では「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈ります。イエス様は先に「わたしたちの負い目を赦してください」と祈ることを示していますが、その条件として「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈っています。だから「主の祈り」は先に「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく」と祈っているのです。まず、自分が兄弟を赦すこと、その上で神様に自分の罪を赦していただくのです。マタイによる福音書5章23節でイエス様が教えておられます。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りし、それから帰って来て、供え物をささげなさい」と教えておられます。「供え物をささげる」ということは神様に赦しをお願いすることなのです。13節、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈ります。悪に負けない、誘惑に負けない主にある生き方を求めているのです。

 こうして主イエス・キリストはお祈りの基本的な仕方を教えられました。これを「執り成しの祈り」とするのは、この祈りは「わたしたち」の祈りであるからです。偶像に向けられる祈りは「この私にしてください」という自分中心の祈りであります。「主の祈り」は「わたしたち」の祈りなのです。むしろ、この私のためではなく、人々のためなのです。地上の人々のためなのです。地上のすべての人を覚えて執り成しの祈りをささげるのが主の祈りであります。スペイン・バルセロナサグラダ・ファミリア教会が建てられています。まだ完成していませんが、その芸術的な教会には多くの人々の見学が絶えません。そのサグラダ・ファミリア教会は一階が大聖堂になっていますが、その一角に「主の祈り」が掲げられています。その主の祈りは世界中の言葉で記されているのです。主の祈り全文を一つの国の言葉で記しているのではなく、主の祈りの一部を、いろいろな言葉で現しているのです。日本語でも記されていました。「主の祈り」が世界の人々の祈りであると示されているのです。私達も日々「主の祈り」をささげながら歩むことを示されました。
 <祈祷>
聖なる神様。主の祈りを唱えさせてくださいますことを感謝いたします。心から神様に主の祈りをささげることが出来ますよう導いてください。主の名によって、アーメン。