説教「うるおいをいただきつつ」

2016年5月8日、横須賀上町教会 
「復活節第7主日

説教、「うるおいをいただきつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記下2章1-8節、
    ヨハネによる福音書7章32-39節
讃美、(説教前)讃美歌21・336「主の昇天こそ」
    (説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」


 前週はゴールデンウィークであり、お休みが続きました。このお休みを利用して故郷に帰省する人々がおられ、例によって高速道が大変な混雑をしていました。また痛ましい事故もあり、楽しく出かけたのに、悲しみを持つ方々もおられます。このお休みで家族の楽しいひと時を持たれた皆さんが多いと思います。毎日散歩していますが、野島付近を歩くことになりますが、野島にはバーベキュー場があり、野外施設として人々から喜ばれています。普段は野島公園を歩くのですが、お休み中は混雑していますので、さけて歩いていました。ゴールデンウィーク、8月のお盆休み、年末年始のお休みがあり、働き者の日本人ですが、良いひと時を持つことができるのです。
 5月は私にとりましても祝福の歩みとなっています。本日は「母の日」として、覚えつつ礼拝をささげています。また、5月10日は私の誕生日であり、家族からお祝いされるのです。いつも私自身の証しをさせていただいていますので、またか、ということになりますが、時期的なこともあり、お話しさせていただきます。誕生日を迎えると77歳になります。小学校3年生の途中から日曜学校に通い始めましたので、67年間くらいの教会生活をしていることになります。私が日曜学校に通い始めるのは、私の母の導きであります。
 1945年、昭和20年に日本は戦争していましたが、敗戦を宣言しました。私はその翌年、1946年に小学校1年生になりました。戦争のどさくさが続いていました。その敗戦後に兄が亡くなるのです。戦争中は学童疎開と言い、小学生は安全な場所に集団疎開をさせられたのです。松田の方面と聞いています。敗戦となって疎開先から帰ってきましたが、兄は栄養失調であり、肺炎となり亡くなったのです。小学校3年生でした。その後わたしの、母は戦争の疲れもあり、身体をそこねて入院するようになりました。横浜南共済病院です。その病院を今でも毎日見つめながら散歩しているのですから、私は毎日信仰の出発点を示されているのです。母が入院していると、ある日のこと、見知らぬ子ども達が病室に入ってきたのです。そして、お花を差し出しながら、おそらく、「早く良くなってください」と言われたのでしょう。後で知ることですが、その日は6月の第二日曜日、教会では「子どもの日・花の日」の行事を行っています。近くの日曜学校の子ども達が花をもってお見舞いしてくれたのです。その頃も、既に「花の日」の行事が行われていたのでした。子ども達が花を持参して教会に出席し、その花をもって病院を訪問するのです。
 見知らぬ子ども達からお花を贈られた母は、亡くした子ども、私の兄くらいの子ども達からお見舞いされ、感動しつつお花をいただいたようです。その後、どのくらい入院していたか定かではありませんが、退院いたしますと、私を連れてその教会の日曜学校に出席したのです。それは関東学院教会の日曜学校でした。母は花の日の御礼を述べ、今後はこの子が出席しますから、よろしくお願いします、と挨拶したようです。それからは日曜日になると、朝も9時前から日曜学校に送り出されるようになりました。母は自分は教会には出席しませんが、子供には人様に喜ばれる人になって欲しいとの願いを持ったのでした。4年生、5年生、6年生と毎年精勤賞をいただくほど、ほとんど休むことなく日曜学校に出席しながら成長致しました。そして、中学生になりまして、二人の姉たちが出席している清水ヶ丘教会に出席するようになるのです。高校3年生の時に洗礼を受けました。23歳の時、神学校に入ったのです。42年間の牧師をしてから隠退して今日を歩んでいるのですが、原点は母の導きでありました。その出発点の横浜南共済病院を見ながら散歩しているのですが、いつも出発点を示されているのです。牧師は人々を天国へとお導きする職務であり、母が私に対して「人様に喜んでもらうため」として日曜学校に連れて行った大きな証を示されています。
 今朝は主イエス・キリストの昇天の意義を示されます。イエス様の昇天は、私達が天国への道、天国を目指す人生へと導いておられるのです。今年の暦は3月27日にイエス様は復活され、その後40日間、復活を人々に証しされたのであります。そして5月5日に天に昇られたのでありました。ヨハネによる福音書はイエス様の昇天については記していませんので、使徒言行録1章8節以下の昇天についての証を示されましょう。「イエスは言われた。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土まで、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」と天使が示したのであります。主イエス・キリストのご昇天は私達を天国へとお導きくださることなのです。
 今まで共に歩んでいたイエス様は十字架に架けられて死んでしまいます。しかし、ご復活されて、再びお弟子さんたちを導かれました。従って、今まではイエス様と共に歩んでいたのです。しかし、イエス様は昇天されました。現実にはおられないのです。あなたがたのために「助け主なる聖霊」を与えると約束されましたが、その「助け主」はまだ与えられていないのです。その「助け主」は5月15日のペンテコステ聖霊降臨祭に与えられるのです。今はイエス様がいない、聖霊も与えられていないという空白の10日間になります。お弟子さんたちは祈りつつ過ごしていたのですが、イエス様のご昇天を示されていますので、お弟子さんたちは寂しく過ごすうちにも、天国への希望を持っていたのです。

 旧約聖書は列王記下2章1節以下8節であります。ここには預言者エリヤから弟子のエリシャに職務の継承が示されています。エリヤは預言者として活動しましたが、「わたしは万軍の神、主に熱情を傾けて仕えた」(列王記上19章10節)と言うほど、神さまのお心に忠実に生きた人でした。時の王様が偶像礼拝をするので、激しく反対し、罪を宣告したのであります。また、バアルという偶像を拝む預言者たちと対決し、この預言者たちに勝利したことも記されています(列王記上18章)。力強く活動したエリヤでありましたが、神さまのもとに召されるときが来ました。そのことを示すのが今朝の聖書であります。
 エリヤはお弟子さんのエリシャを連れてギルガル、ベテル、エリコと旅をします。その時、エリヤは「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」とエリシャに言います。すると、エリシャは「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と言うのでした。それでエリヤはエリシャを連れてベテルに来ます。ベテルでは預言者の仲間達がエリシャに言います。「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」とエリシャに問いかけるのです。すると、エリシャは「わたしも知っています。黙っていてください」と言うのでありました。つまり、エリヤが神さまのもとに召されることについては、預言者たちもエリシャも知っていたのでした。「黙っていてください」とエリシャは言います。騒がないでください、静かにその時を待っているのです、とエリシャは言っているのです。エリヤは、今度はエリコへ遣わされていると言い、ベテルのときと同じように、エリシャにここで待てと言いますが、エリシャは一緒に行くのです。エリコに来たときにも、エリコの預言者たちはベテルの預言者たちと同じことを言いました。エリシャはベテルで答えたと同じ内容でエリコの預言者たちに答えたのであります。そして、エリヤとエリシャはヨルダンへと向かいます。
 ヨルダン川を前にして、エリヤは外套で水を打つと、水が左右に別れ、彼らは乾いた川の中を渡って行ったのであります。渡り終わると、エリヤはエリシャに、「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」と言いました。エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」とお願いいたします。その時、エリヤは「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのを見れば、願いはかなえられる」と言うのでした。そして、その後、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、エリヤは嵐の中を天に上って行ったのでありました。エリシャが「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と願いました。これは相続にあたり、長子が与えられる特権でありました。長子は、分け前が他の兄弟達より二倍が与えられたのであります。したがって、エリシャはエリヤの弟子として、他の預言者たちよりも多く、エリヤの力を譲り受けることは当然と思っていたのであります。エリヤのあとの働きは自分であるとの自負を持っていたということです。まさに、エリヤの霊がエリシャに継承され、力が発揮されていくのでありました。
 エリヤの昇天の証し人になったエリシャは、エリヤを離れず、どこまでも従う姿勢において、祝福の人生へと導かれて行くのです。旧約聖書では天国への思いはありませんが、やはり天国への希望を持ったということです。

 エリシャがエリヤの昇天を見ることによって、願いはかなえられました。同様に主イエス・キリストの昇天を見ることになったイエス様のお弟子さん達は、天国を信じて歩むようになるのです。今朝のヨハネによる福音書は主イエス・キリストの昇天については触れていませんが、イエス様の昇天により、人々に霊が与えられることを示しています。その霊をいただくことにより、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」のであります。そして、天国への希望を持ちながら歩むことになるのです、
 時の社会の指導者達は主イエス・キリストが次第に人々の希望になっていくことを知りました。何とかしなければなりません。社会を指導するのは自分達であり、あのイエスがいては、自分達の体制が崩れていくと思うのであります。7章32節、今朝の聖書の冒頭で、ファリサイ派の人々は、群衆がイエス様についてこのようにささやいているのを耳にしました。「このようにささやいている」というのは、前の段落、25節以下で、群衆の中にはイエス様を信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言っていたのであります。ということは、このイエス様こそメシアであると信じる人々が大勢いたということなのであります。それで祭司長達とファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえるために下役達を遣わしました。そのときイエス様は、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言われたのでありました。すなわちイエス様の昇天について触れているのであります。イエス様のご昇天は天国の実在を示していることになります。その天国を示すために、この後に霊が降るのであります。霊をいただいた人は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」のであります。天国の歩みを、現実に歩むことになるのです。

 「天国は、本当にある」という映画があるそうです。スペインのバルセロナ日本語で聖書を読む会の月報で紹介されていましたので、引用させていただきます。この映画は、タッド・バーポ牧師の体験をもとにして作られたということです。この牧師の息子さんが盲腸破裂ということで緊急手術をすることになります。助かる可能性は50%ということでした。息子は一命をとりとめます。瀕死だった間、息子は天国に導かれたというのです。天国に行って神様とイエス様に会ったこと、自分が生まれる前にママが流産した女の子と会ってきたこと、パパが幼いころに死んだパパの祖父に会ったこと、天使が歌ってくれた事、イエス様の服装、イエス様の馬の様子、天国の門の美しさ、様々な事を話して家族や村人を驚かせました。牧師は、息子の体験をもとに説教をしました。
「息子は本当に天国に行ったのでしょうか。その答えはYesです。神のご意思でした。では天国はあるのか?もし本当にあるなら、それは人の生き方を改めるのではないでしょうか。天国は存在するのかどうか、一度は考えたことがあるでしょう。私は思います。天国はある。私はそれを見ました。だから信じるのです。信じることで意識は変わります。神は愛なのです。私の息子は天国を見た。イエス様のことも教えてくれました。神は私の自尊心を砕き、広い心を与えた。愛です。私の使命はひとつ。愛を伝えること。人は孤独ではないということを」と牧師は説教で天国の実在を示されたのでした。
エス様は天に昇られました。だから、今は現実にいないのです。少なくとも聖霊降臨日までイエス様はおられないのです。しかし、イエス様は言われています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのところに迎える」(ヨハネによる福音書14章1-3節)と約束されているのです。イエス様のご昇天は、イエス様が私達を天国へと迎えてくださるためなのです。そのことを信じて生きるとき、「うるおいをいただく」人生へと導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主の昇天を仰ぎ見ることができ感謝致します。「うるおいをいただく」人生を人々に証し出来ますようお導きください。主のみ名によりお祈りいたします。アーメン。