説教「新しく生きる者」

2016年5月15日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第1主日

説教、「新しく生きる者」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書37章1-10節
    使徒言行録、2章1-4節
     ヨハネによる福音書14章15-21節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・181「みたまよ、くだりて」
    (説教後)讃美歌54年版・500「みたまなるきよきかみ」


 本日は聖霊降臨祭としての礼拝です。ペンテコステ礼拝とも称しています。ペンテコステという意味は「第50」ということです。何に対して「第50」というのかといえば、イエス様のご復活からの数字です。イエス様のご復活から50日目ということです。もともとユダヤ教では、この日を「五旬祭」としてお祝いしていました。もとは収穫感謝祭でしたが、後に、シナイ山十戒が授与された日とするようになり、与えられた律法を感謝する日とするようになりました。キリスト教も並行して「第50」を大切にするのは、この日に聖霊が降ったのです、聖霊降臨祭としてお祝いするようになっています。
本日は聖霊が降る日であります。この聖霊が降る意味を、まず受け止めておかなければなりません。それは前週も示されました。主イエス・キリストは十字架に架けられ、埋葬されますが、三日目に復活されました。そして、復活されたお姿を40日間、お弟子さんを始め多くの人々に示されたのです。そして、40日後に天に昇られたのです。今年は5月5日でした。前週はイエス様のご昇天の意味を示されています。イエス様は復活されて、だから天にお帰りになったと考えるのではなく、天に昇られ、私達を天国に迎えてくださるためなのです。再びイエス様のお言葉を示されましょう。それはヨハネによる福音書14章1節以下であります。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と示されたのであります。聖霊降臨は、天国で場所の用意ができたので、私達がその天国に導かれるために、イエス様がお迎えに来られたということです。お迎えに来られても、私達はそれぞれの人性を歩んでいますので、その人生を聖霊によってお導きくださり、そして目的地、すなわち天国へと導いてくださるのです。聖霊降臨とは、イエス様が私達を天国に導いてくださるために、イエス様が聖霊となって私達の現実を共に歩んでくださることなのです。
 前週は自動車の運転免許の更新手続きを行いました。高齢者の75歳以上の人は、更新手続きをする前に講習を受けなければなりません。その時、認知症の検査があるのです。自分では気がつかないうちに認知症が進んでいる場合があるのです。私も77歳ですから検査対象です。まず、自分の名前、生年月日、今日は何日であるか等を書かせられます。次に、数字がランダムに記されており、その中で1と2に斜線を引くというものです。それが終わると、3、4、5に斜線を引くというものです。一通り斜線を引き、後で見ると結構飛ばしてしまっている数字がありました。更に記憶術の検査です。全部で16枚の絵を見せられます。少し時間をおいて、16の絵の名前を書くということでした。その時、絵を見せて、その後の説明がありました。オルガンの絵に対して、楽器と説明しています。ぶどうの絵に対して果物と説明しています。それで思いだしながら絵の名前を書くのですが、少し時間が経っているので、全部を思い出せないのです。私の場合、16のうち8くらいしか思い出せませんでした。次の検査は、16の絵に対して、それぞれの種類で書くことになります。楽器と書かれているので、すぐにオルガンを思い出しますし、果物の欄ではぶどうと書くことができました。だからヒントによる検査は全部を思い出すことができました。
 あまり適当ではありませんが、このヒントによる検査は聖霊の導きのように思えたのでした。現実にイエス様が聖霊として私と共にある時、いつもヒントを与えては歩むべき道を導いておられると思うのです。はっきりと導くのではなく、私達の賜物を通して、ヒントにより方向が示されているのです。そこに私達の人生があり、天国への導きがあると示されているのです。今朝はその聖霊をいただく礼拝をささげているのです。

聖霊により力強く立ち上がる人々を今朝の旧約聖書は示しています。エゼキエル書37章は「枯れた骨の復活」との表題がつけられています。預言者エゼキエルは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされました。このことは、エゼキエルが幻によって神さまのお心を示されていることなのです。ある谷に降ろされ、あたりを見回すと人間の骨が散らばっているのであります。しかも、それらの骨は枯れた骨だといいます。枯れた骨と言いますから、骨となって久しく経っているということで、触ればもろくもくずれてしまう骨でありました。そのとき、神さまの声がありました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と言うのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」とエゼキエルは答えます。骨が生き返る、しかも枯れた骨です。考えられないことでありますが、エゼキエルは神さまの御心にお任せしています。すると神さまは言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と言うのです。エゼキエルは命じられたように枯れた骨に向かって神さまの言葉を示します。すると、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づくのです。そして、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆ったのであります。
 骨がカタカタと近寄ったと聖書は示しています。関根正雄さんという学者の訳は「骨と骨がガサガサと近よった」としています。前の口語訳聖書は「動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった」と訳しています。「カタカタと音を立てて骨と骨が近づく」より、「骨と骨が集まって相つらなった」との訳の方が理解しやすいと思います。しかし、カタカタとかガサガサとの音の表現も現実味があるようです。こうして、枯れた骨でありますが、人間の姿になりました。しかし、その人間の姿には霊はなかったのであります。そのとき、再び神さまは言われました。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と言うのであります。エゼキエルが命じられたように預言します。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ったのであります。生き返った人々は非常に大きな集団となったのであります。
 今朝の預言は、捕われの身となり、希望をなくし、力をなくしている人々の回復を示しているのであります。その姿はあたかも枯れた骨でした。その枯れた骨が生き生きと立ち上がることを示しています。もはや、希望のない存在ではない、もはや力をなくしている存在ではないのです。霊が与えられ、生き生きと立ち上がる人々なのです。神さまの霊が与えられること、この原点は創世記における人間創造にあります。創世記2章7節にこのように記されています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と示されています。神様が天地を創造され、天地や植物、生き物を造られ、最後に人間を造った状況です。もちろん、この描写は神話的でありますが、深い真理を示しているのです。神様は粘土で人の形を造りました。それはまだ人間ではありません。粘土の人の形の鼻に「命の息」を吹き入れることによって、人間は生きた者になったのであります。ここで、「命の息」と言われていますが、聖書の言葉であるヘブル語では「ルアッハ」と言います。このルアッハは「命の息」と訳されていますが、「霊」とも訳され、「風」とも訳されるのであります。エゼキエル書で、「霊よ、四方から吹きつけよ」と示しています。霊の風が四方から吹いてきて、枯れた骨のような状態の人々に与えられるのであります。希望をなくし、力をなくしている人々が生き生きと立ち上がったのであります。希望を持って、捕われの境遇を生きることになるのであります。

 新約聖書ヨハネによる福音書14章15節以下が示されています。ここでは主イエス・キリストが弟子達に聖霊を与える約束をしています。ヨハネによる福音書は14章から16章まではイエス様のお弟子さん達への決別説教であることは示されています。決別説教では、イエス様はやがて天に昇られることを示しながら、残されるお弟子さん達を繰り返し励まされておられるのです。その約束が聖霊を与えるというものでした。
 その主イエス・キリストの約束の霊が与えられたのであります。今朝の使徒言行録により示されます。使徒言行録2章はお弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しであります。この使徒言行録は1章6節以下で、主イエス・キリストが天に昇られたことが記されています。そして、その後は、イエス様の示しにより常に祈りを合わせていたのであります。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「〜のような」としています。聖霊が風であることはエゼキエル書において示されました。風、ルアッハが枯れた骨に吹き込まれます。散らばっていた骨が相つらなり、筋ができ、皮で覆われ、生きた者へと導かれたのでした。死んだように力をなくしている人々に神さまのルアッハが与えられることにより、力を得るのです。立ち上がることができたのです。この使徒言行録においても、力をなくしているお弟子さん達にルアッハが与えられたのです。「激しい風のような音」を聞いたのです。そして、一人ひとりに聖霊が降ったということです。
 そして、炎のような舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。祭でにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて、今まで考えも及ばない歩みが始まったのであります。
 「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と証しされています。聖書の民、ユダヤ人は歴史を通して各地に散らされた民族でした。離散の民、ディアスポラと称しています。その散らされた人々が祭りになると故郷へ帰ってくるのです。旧約聖書詩編の中には「都もうでの歌」というものがあります。遠くから都に集まってくるのでありますが、道々何があるか分かりません。不安を持ち、危険をおかしながらも都に帰って来るのは、祭りを共に喜び、神様の救いの喜びを分かち合いたいからであります。こうして外国に住むうちに言葉も外国語になっているのです。ところが、自分の国の言葉で「神さまの偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚きつつお弟子さん達の証しに耳を傾けたのであります。聖霊の導きは人と人とを分かり合わせるのです。言葉が異なっても、聖霊の導きにより、出会いが与えられるのです。このことは、聖霊をいただいて語り合うとき、言葉と心が通じ合うことを示しているのであります。聖霊は人と人とを結びつけるのであります。一つの心へと導かれるのであります。

 私は前週の5月10日で77歳になりました。連れ合いのスミさんの誕生日が9月19日であり、二人とも喜寿を迎えることになったのであります。その喜寿のお祝いを皆さんからしていただき、感謝している次第です。改めて自分の人生を振り返ったとき、もちろん自分で切り開いた人生ではありません。聖霊の働き、聖霊の導きがあって今日の私の存在があると信じております。前週も私の証をしていますが、私がキリスト教に導かれる経緯を、「母の日」との関連でお話しさせていただきました。
 母の導きで近くの関東学院教会の日曜学校に通いつつ小学生時代を過ごしたのです。今朝は、その続きをお話ししたいと思います。日曜学校は毎週出席していました。昔の写真を見ると、日曜学校では夏の修養会に参加しています。野島海岸で記念写真も残されていますし、金沢文庫のハイキングにも参加しています。日曜学校を本当に喜びつつ出席していたようです。その日曜学校の生徒は、ほとんどが関東学院小学部の生徒でした。だから皆さんはそのまま関東学院の中学部に進むのです。その様な日曜学校の友達と接しているうちに、私も関東学院中学部に入りたくなったのです。両親に願って、試験を受けることになりました。しかし、不合格になりました。それによりその教会には行かれなくなりました。それで二人の姉が横浜の清水ヶ丘教会の教会員となっており、中学になってからその教会に出席するようになったのです。そのまま関東学院に進んでいたら、また違った人生であったと思いますし、試験に落ちたことも聖霊の導きであると思っているのです。試験に落ちたことが、今の私へと導かれているのです。聖霊は私の意志ではなく、神さまの御心を導いてくださるのです。「新しく生きる者」へと導いてくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。聖霊を与えてお導きくださり感謝致します。天国への歩みが強められますようお導きください。主イエス・キリストのみ名によりおささげします。アーメン。