説教「良いものをくださる神様」

2019年6月9日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第1主日聖霊降臨日(ペンテコステ

説教・「良いものをくださる神様」、鈴木伸治牧師
聖書・ 創世記11章1-9節

   使徒言行録2章1-8節
   ルカによる福音書11章1-13節
賛美・(説教前)讃美歌21・343「聖霊よ、降りて」
   (説教後)讃美歌21・497「この世のつとめ」


 今朝は聖霊降臨祭、ペンテコステであります。聖霊がイエス様のお弟子さん達に降り、聖霊の導きのままにお弟子さん達は力強く立ち上がったのです。聖霊すなわち神様の力をいただいて、今までしょんぼりしていたお弟子さんたちが元気になったのでした。もはや落ち込むことなく、元気な人生を送ることができたのでした。聖霊降臨祭、ペンテコステは私達の生活に良いものをくださるのであります。
 キリスト教はクリスマス、イースターペンテコステの三つのお祭りを中心にしながら一年間を歩んでいます。クリスマスはイエス・キリストが御生まれになった日でありますのでお祝いいたします。このクリスマスは、今ではキリスト教に関係なくお祝いするようになっています。クリスマス・パーティー、クリスマス・プレゼントがあり、楽しい限りです。教会も子供たちにクリスマス集会を誘います。楽しいことがありますよ、プレゼントがもらえますよ、と呼びかけるのです。だから、いつもは教会学校には出席しない子供たちも出席します。プレゼントがもらえるよ、と言われれば、やはり出席したくなります。そして、春になるとイースターがやってきます。イエス様の復活を喜ぶのです。だから、この喜びの日にも子供たちを誘います。楽しい卵、イースターエッグがもらえるよ、と誘っています。クリスマスほどではないにしても、卵がもらえるのですから、期待をもって教会に来るのです。ところがペンテコステは、何にももらえないのです。なんか工夫してもらえるようにしたら良いと思っているのですが、教会学校としてはあげる物がないのです。大人の礼拝では、お弟子さんが聖霊をいただいたように、私達も聖霊をいただきますとのメッセージがあります。しかし、目に見えるものではないので、子供たちに「もらえるよ」とは言えないのです。ペンテコステも何かもらえればよいと思っています。
 ペンテコステは目には見えませんが、神様が良いものをくださるのです。イエス様が復活して、イエス様はお弟子さんたちを励ましました。お弟子さんたちは、イエス様に対して一人一人が負目を持っていました。イエス様が指導者たちに捕えられたとき、お弟子さんたちは、皆散りぢりに逃げてしまったのです。ペトロの場合は、捕らえられたイエス様について行きます。そのペトロに対して、あんたもあのイエスの仲間だと言われ、ペトロは正面から否定するのです。イエス様に対しては、「どんなことがあっても、従ってまいります」と告白しているペトロでありました。イエス様に対してお弟子さんたちは負目を持っています。自分の存在に疑問を持たなければなりませんでした。そういう彼らが、イエス様が昇天されたあと、とにかくイエス様が言われたように、一つの場所に集まっていたのでした。その彼らに聖霊が与えられ、自信を失っていた彼らを立ち上がらせたのでした。良いものをくださった神様なのです。

 聖霊降臨祭は一つの霊により、一つの心に導かれ、一つの人になるということです。今までは、人間は一つの心にはなれなかったのです。人間の根本的な姿、自己満足と他者排除があったからです。そのことを旧約聖書創世記11章の「バベルの塔」の物語は意味深く示しています。
 天地創造物語において、今朝の聖書に示されるように、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と記しています。もともと同じ言葉を話していたのに、世界のそれぞれの国はみな違う言葉を話している、その意味を示しているのが「バベルの塔」の物語なのです。東の方からやってきた人々は、シンアルの平野に住み着いたと言われます。ここはバビロニアの土地であります。彼らは「レンガを作り、それを良く焼こう」と言い、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言うことで町づくりを始めるのです。彼らの目的は「有名になること」、「全地に散らされない」ことが目的です。「有名になる」ということは、神様を忘れていることであり、自分自身のためです。また、「全地に散らされることのないように」とは、一つの思いになることです。バベルの塔の町を造るということは、極めて人間的な思いであったわけです。この人間の自分本位の思いを、神様は打ち砕くのです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉で話しているから、このようなことを始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と神様は言われました。こうしてバベルの塔のある町づくりは建設が中止になりました。そして、人間は全地に散らされたのでした。
 「バベル」とは「混乱」という意味があります。「バブル経済」と言われますが、バベルが語源になります。人間は人間的な一つの思いになると、極めて自己満足的な思いに統一されるのです。これは歴史を通して示されています。今でも独裁者がいますが、自分の思いのままに国造りをしています。人々はその独裁者の思いに統一されて行くのであります。日本の戦争時代は国民こぞって戦争への道を歩んでいました。人間的な一つの思いは、自己満足なのです。日本が戦争により、アジアに侵略し、自分の国を広げて行ったことは、極めて人間的な思いであります。バベルの塔の物語は、「有名になること」、「一つになること」が目的でした。一つになることは、人間的に一つになることであり、これほど恐ろしいものはないのです。人間的に一つになった時、弱き存在、貧しき存在は置き去りにされ、あるいは切り捨てられていくのです。神様がバベルの塔の町を破壊したのは、その人間達の思いでした。人間は全地に散らされ、言葉が通じなくなりました。それにより人間的に一つになることは阻止されましたが、各地においても人間的に一つになろうとすることは、その後も続くことになるということです。

 人間的な思いで一つになるのではなく、神様の御心において一つになることを聖書は導いているのです。使徒言行録に記されている聖霊降臨を示されておきましょう。
 聖霊がくだったことについては使徒言行録2章に記されています。お弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しです。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「~のような」としています。聖霊が風であることは旧約聖書エゼキエル書において示されました。風、ルアッハ(霊、神様の息、風)が枯れた骨に吹き込まれます。散らばっていた骨が相つらなり、筋ができ、皮で覆われ、生きた者へと導かれたのでした。死んだように力をなくしている人々に神さまのルアッハが与えられることにより、力を得るのです。立ち上がることができたのです。この使徒言行録においても、力をなくしているお弟子さん達にルアッハが与えられたのです。「激しい風のような音」を聞いたのです。聞いたばかりでなく、一人ひとりに聖霊が降ったということです。
 そして、炎のような舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。お祭りでにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて、今まで考えも及ばない歩みが始まったのであります。
 「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と証しされています。聖書の民、ユダヤ人は歴史を通して各地に散らされた民族でした。離散の民、ディアスポラと称しています。その散らされた人々がお祭りになると故郷へ帰ってくるのです。旧約聖書詩編の中には「都もうでの歌」というものがあります。遠くから都に集まってくるのでありますが、道々何があるか分かりません。不安を持ち、危険をおかしながらも都に帰って来るのは、お祭りを共に喜び、神様の救いの喜びを分かち合いたいからであります。こうして外国に住むうちに言葉も外国語になっているのです。ところが、自分の国の言葉で「神さまの偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚きつつお弟子さん達の証しに耳を傾けたのでした。聖霊の導きは人と人とを分かり合わせるのです。言葉が異なっても、聖霊の導きにより、出会いが与えられるのです。このことは、聖霊をいただいて語り合うとき、言葉と心が通じ合うことを示しているのです。聖霊は人と人とを結びつけます。一つの心へと導かれるのであります。
 そこで主イエス・キリストの教えを示されます。今朝のルカによる福音書11章5節以下は、イエス様が、私達に神様の御心を求めなさいと教えています。それをたとえ話で示しています。ひとつは「真夜中の友人」です。真夜中に客がきたので、友人にパンを貸してくださいとお願いします。もう真夜中なのですが、執拗に頼まれるので、頼まれた人は求められるようにしてあげた、というお話しです。それからもう一つのたとえ話は、「門をたたき続けなさい」ということです。神様への切なる願いは、必ず聞き遂げられるということです。たとえば自分の子供が悪いと分かっているのに、求められれば聞き遂げているのです。だから心から神様に、中でも聖霊を求める者には、必ず与えてくださると示しているのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」とイエス様は今朝の聖書で示しています。一生懸命に祈れば与えられると示しているのです。この言葉を私たちに希望を与えるでしょう。だから一生懸命に祈るのです。「一生懸命にお祈りしたのに亡くなってしまった」と言われている方もあります。癌を宣告されたお連れ合いのために、彼は一生懸命お祈りしたのです。葬儀の時、繰り返しお話しされていたことは、「一生懸命にお祈りしたのに」ということでした。その場合、その人がお祈りしたので、元気になった時、「祈ったからである」という結論になります。あたかも自分の成果であります。それは私達の自己満足です。病気で苦しんでいる人を、私たちはいつも祈っていました。でも、神様に召されるのです。その時、私たちは、こんなに、一生懸命に神様にお願いしたのに報いられなかったと言うのでしょうか。それは、違うということを示されなければなりません。私たちの一生懸命の祈りは、自分の願い通りになることです。しかし、イエス様が「求めなさい。そうすれば与えられる」と示されているのは、神様の御心が示されるということなのです。神様は、一つの出来事を通して、本人と共に本人を祈る人々を含めて、御心を示されているのです。私たちは元の状態へと回復を願いながらも、現実を受け止め、病気の人がどのようになろうとも、この人を受けとめ、新しい状況を受け止めて歩む決意へと導かれることなのです。私たちは自分の願いをかなえてもらおうとする祈りではなく、神様の御心を受けとめることができるように祈らなければならないのです。聖霊の導きに委ねることです。
<祈祷>
聖なる神様。聖霊をお与えくださり感謝いたします。聖霊に導かれて新しい一歩を歩ませてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。

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