説教「日々、導きを与えられ」

2021年5月23日、三崎教会

聖霊降臨節第1主日」  

                      

説教・「日々、導きを与えられ」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨエル書3章1-5節

   使徒言行録2章1-13節

   マタイによる福音書12章15-21節

賛美・(説教前)讃美歌21・343「聖霊よ、降りて」、

   (説教後)讃美歌21・504「主よ、み手もて」

 

 今朝はペンテコステであります。聖霊がお弟子さん達に降り、聖霊の導きのままにお弟子さん達は力強く立ち上がったのであります。主イエス・キリストが復活されたのは、今年の暦は4月4日であります。クリスマスは12月25日と決められていますが、復活祭、イースターは毎年異なる日になります。春分の日を迎え、最初の満月となり、その満月から次の日曜日をイースターとしてお祝いしています。従って、毎年イースターが異なるのです。イエス様はご復活してから40日間、お弟子さんを始め、多くの人々に現れてご復活を証しされたのであります。そして、40日後の5月13日に天に昇られました。昇天日とされています。そして、5月23日の今日、聖霊として降るのであります。従って、5月13日から5月23日までの10日間は、イエス様はおられない、聖霊も降っていない、導きの主はおられない空白の期間となります。その10日間の空白の時、お弟子さんたちはどうしていたのか。イエス様はご昇天のとき、お弟子さん達に対し、「約束の聖霊、助け主が降るまで都にとどまっていなさい。」と言われたのであります。お弟子さんたちは、イエス様が言われた通り、都にとどまり、一緒に集まってはお祈りをしていました。そこはイエス様と最後の夕食、晩餐をしたところですが、イエス様の母にもなるマリアさんやイエス様の兄弟たちも一緒に心を合わせてお祈りをしていたのであります。その彼らに聖霊が降ったのでありました。
 こうしてお弟子さんたちはイエス様がご昇天になった後の、空白の時もイエス様のお導きをいただいて過ごしていたのであります。「日々、導きを与えられる」お弟子さんたちであったのです。そして、聖霊を与えられ、日々の導きを喜びつつ、人々にイエス様の証しをしたのであります。

 神様が聖霊をくださるということは、主イエス・キリストのお約束でありました。しかし、聖霊が降ることは旧約聖書からの約束でありました。今朝の旧約聖書はヨエル書3章1節以下であります。神様の霊が注がれるという約束が示されています。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と示しています。神様の霊が注がれることにより、若者も年配者も神様のお心にあって生きると示しているのです。

 聖霊旧約聖書から示されていることでありました。霊の力が一人ひとりを力強く立ち上がらせることは旧約聖書のメッセージであるのです。聖霊により力強く立ち上がる人々についてエゼキエル書37章に示されています。「枯れた骨の復活」との表題がつけられています。預言者エゼキエルは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされました。このことは、エゼキエルが幻によって神さまのお心を示されていることなのです。ある谷に降ろされ、あたりを見回すと人間の骨が散らばっているのであります。しかも、それらの骨は枯れた骨だといいます。枯れた骨と言いますから、骨となって久しくたっているということで、触ればもろくもくずれてしまう骨でありました。そのとき、神さまの声がありました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と言うのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」とエゼキエルは答えます。骨が生き返る、しかも枯れた骨です。考えられないことでありますが、エゼキエルは神さまの御心にお任せしています。すると神さまは言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」と言うのです。エゼキエルは命じられたように枯れた骨に向かって神さまの言葉を示します。すると、カタカタと音を立てて、骨と骨とが組み合わされるのです。そして、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆ったのであります。こうして、枯れた骨でありますが、人間の姿になりました。しかし、その人間の姿には霊はなかったのであります。そのとき、再び神さまは言われました。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と言うのであります。エゼキエルが命じられたように預言します。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ったのであります。このように旧約聖書の示しをいただきながら、新約聖書聖霊の導きをしめしているのであります。

 使徒言行録2章はお弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しであります。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「~のような」としています。聖霊が風であることはエゼキエル書において示されました。死んだように力をなくしている人々に神さまの霊が与えられることにより、力を得るのです。立ち上がることができたのです。この使徒言行録においても、力をなくしているお弟子さん達に霊が与えられたのです。「激しい風のような音」を聞いたのです。聞いたばかりでなく、一人ひとりに聖霊が降ったということです。

 そして、炎のような舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。お祭りでにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて、今まで考えも及ばない歩みが始まったのであります。

 「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と証しされています。聖書の民、ユダヤ人は歴史を通して各地に散らされた民族でした。離散の民、ディアスポラと称しています。その散らされた人々がお祭りになると故郷へ帰ってくるのです。旧約聖書詩編の中には「都もうでの歌」というものがあります。遠くから都に集まってくるのでありますが、道々何があるか分かりません。不安を持ち、危険をおかしながらも都に帰って来るのは、お祭りを共に喜び、神様の救いの喜びを分かち合いたいからであります。こうして外国に住むうちに言葉も外国語になっているのです。ところが、自分の国の言葉で「神さまの偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚きつつお弟子さん達の証しに耳を傾けたのであります。聖霊の導きは人と人とを分かり合わせるのです。言葉が異なっても、聖霊の導きにより、出会いが与えられるのです。このことは、聖霊をいただいて語り合うとき、言葉と心が通じ合うことを示しているのであります。聖霊は人と人とを結びつけるのであります。一つの心へと導かれるのであります。

 今朝はペンテコステ礼拝をささげています。今朝、私たちも聖霊を与えられています。聖霊は本日の礼拝ばかりではなくも、いつも与えられているのです。2000年前のこの日、お弟子さん達に聖霊が降りましたが、その日以来、今の時代までを「聖霊の時代」と称しています。この世に現れたイエス・キリストは2000年前のことであり、今はイエス様が聖霊として私たちをお導きくださっているのです。十字架によるイエス様の救い、復活のイエス様のお導き、信仰の原点としていますが、今は聖霊の時代であり、聖霊により「日々、お導きを与えられ」ているのです。私たちの信仰の原点はイエス様の十字架によるお救いであります。また、ご復活の主に導かれることです。そのような信仰の原点がありますが、日々、お導きを与えてくださっているのが聖霊なのであります。聖霊のお導きが与えられていますから、与えられている日々の歩みを喜びつつ歩みたいのです。聖霊は私たちを祝福の歩みへと導いてくださっているのです。今朝も聖霊のお導きをいただき、礼拝を捧げることができ、感謝したいと思います。

<祈祷>

聖なる御神様。聖霊のお導きを感謝致します。いよいよ聖霊に委ねて歩ませてください。イエス・キリストの聖名によりおささげします。アーメン。

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