説教「心の目が開かれる」

2021年5月16日、六浦谷間の集会

「復活節第7主日」       

                      

説教・「心の目が開かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書10章6-11節

   エフェソの信徒への手紙4章7-16節

   ルカによる福音書24章44-53節

賛美・(説教前)讃美歌21・336「主の昇天こそ」、

   (説教後)讃美歌21・357「力に満ちたる」

 

 今朝は主イエス・キリストのご昇天を覚えつつ示されるのであります。今年のキリスト教の暦は4月4日がイエス様の復活祭、イースターでありました。イエス様はご復活後から40日間、そのご復活の姿をお弟子さん達はじめ人々にお示しになりました。そして、天に昇られたのであります。その昇られた日が前週の5月13日でした。今朝は天に昇られたイエス様のお導きであります。

 イエス様はかねてより、ご復活後には「弁護者」、「助け主」、「聖霊」が与えられる約束をされていました。イエス様のご昇天後は、現実に見えるお姿では存在しなくなるのでありますが、お導きの聖霊を与えてくださるという約束です。しかし、その聖霊降臨は、今年は5月23日になるのです。従って、イエス様のご昇天から聖霊降臨までの10日間は空白の時となるのです。ご復活のイエス様はおられない、約束の聖霊はまだ与えられない、そういう期間が今の時なのです。この空白の期間をどうするか、どのように歩むのか、それは今朝の聖書で示されることでありますが、「心の目が開かれる」お導きをしっかりと受け止めて歩むことなのです。

前週は「主の祈り」について示されました。それと共に祈りの姿勢をイエス様から与えられました。心から神様に祈ること、必ず神様は私たちの祈りを受けてくださることを示されました。今、不安の日々を歩む弟子達は、何よりも祈ることの導きを与えられているのであります。祈ることが導かれるのは、神様が私たちを見守り、生きる指針を与え、導いてくださっていることを信じているからであります。

 今朝の旧約聖書は、偶像の神を信じる人々についての戒めであります。

偶像崇拝については特に旧約聖書は繰り返し述べています。神様の導きをいただきながら、そして神様の恵みをいただきながらも、偶像の神を造り上げる人間の欲望を聖書は繰り返し示しているのであります。今朝の旧約聖書エレミヤ書10章は「偶像とまことの神様」について示しています。偶像とは「森から切り出された木片、木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれていく。彼らは災いをくだすことも、幸いをもたらすこともできない」のであります。どうしてこのような偶像に人間は心を寄せるのでしょうか。10章2節に「主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ」と言われています。「天に現れるしるし」は光り輝く星であり、あるいは流れ星のようなものです。偶像を金星と同一視している場合もあります。ですから星の現れ方で、偶像の示しを受け取るのであります。

 「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方、御名には大いなる力があります」とまことの神様をエレミヤは讃えています。エレミヤにとって「大いなる方」である神様への信仰こそ、人間の基本的な生き方であることを人々に証しているのであります。「大いなる方」である神様を信じて生きることがエレミヤの働きであり、彼自身の人生であったのであります。指導者達は人間の力、強い国に頼っていました。一方、偽預言者たちは、神様の御心ではない自分達の思いを人々に示していました。エレミヤ書7章では「我々には主の神殿があるから、何も恐れる必要はない」と偽りの平安を述べています。また、8章では「平和がないのに『平和、平和』といっている」のであります。そして、今朝の聖書は偶像に心を寄せる人々への警告であります。人間の力への依存、人間の偽りの希望、偶像礼拝等、人々は「大いなる方」から離れ去っています。そこで、エレミヤは「大いなる方」のもとへ「帰りなさい」と繰り返し叫ぶのであります。「背信の子らよ、立ち返れ」(3章14節)。「大いなる方」こそ、あなたがたの生きる支えであり、導く存在であることを示すのであります。「これからの導き」は神様に委ねるということであります。

 その「大いなる方」が約束されたものをあなたがたに送られると主イエス・キリストは弟子たちに示しました。「大いなる方」が力をくださる約束なのであります。主イエス・キリストは復活後人々に現れました。二人の弟子がエルサレムからエマオに下る途上、道連れの人が加わりました。その道連れの人が復活のイエス様でありました。エマオの宿に着いてからイエス様であることが分かり、二人はもはや夜でありますが、都エルサレムにとって返し、他の弟子達に報告したのであります。すると他の弟子達も復活のイエス様にお会いしたことを語りあっていたのでありました。そこへ復活のイエス様が再び現れたのであります。復活のイエス様にお会いしたことを語り合っていたのに、再び現れたイエス様を見たとき、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのでした。その彼らにイエス様は手や足を見せながら、復活したイエス様であることを証し、彼らの見ている前で焼き魚を食べたのでした。そこで今朝の聖書ルカによる福音書24章44節以下になります。

 主イエス・キリストは改めて、イエス様がモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄が実現された存在であることを示したのであります。つまり、旧約聖書で証しされていることは救い主イエス・キリストであるということであります。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とイエス様は言われています。イエス様は、
これらのことをお弟子さんたちが悟るために、「心の目を開かれる」のであります。人間的な思いで理解するのではなく、「心の目が開かれる」導きにより、ご昇天を示されているのであります。

 この後、主イエス・キリストは昇天されますが、このルカによる福音書はイエス様の昇天にあたり、イエス様が言い残されたことを示しているのであります。「死者の中から復活された救い主イエス様により、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということであります。「大いなる方」が人間をそのように導いているのであります。そして、その働きを導くのが、「大いなる方」がくださる約束の聖霊なのであります。

4 

神様により「心の目が開かれる」とき、豊かなお導きを与えられるということです。

 2010年3月に前任の大塚平安教会を退任しました。退任の一年前より、辞任が決まり、退任を示されながら歩んでいたのです。丁度その頃、日本基督教団の「隠退教師を支える運動」推進委員会が、30年記念誌を発行するので、当時、教団書記であった私にも寄稿を依頼されたのでした。わたし自身、隠退を目の前にしていましたので、その心境を書いたのでした。記念誌は「夕べになっても、光がある」という、いかにも隠退教師を示す題であります。その記念誌にこのように記しました。

 「どこの教会に行こうか」と連れ合い。「そうだねえ」と言ったきり黙っている私。こんな会話が多くなった。いよいよ教会を退任する方向がはっきり決まってから、なにげなく出てくる言葉である。来年3月末で退任することを教会に申し出た。そして、臨時総会が開かれ、退任が決まった。今年は夫婦共に70歳を迎え、この教会で30年の牧会であり、前任時代を加えると40年間となる。聖書に関わる40年であり、この時をもって退任することを数年前から示されていた。そして、その退任がはっきりしたとき、退任後の方向もぼつぼつ話されるようになった。「退任したら、スペインに行こうね」と連れ合い。「家でのんびりしていたいよ」と私。娘がバルセロナでピアノの演奏活動をしている。連れ合いは今までも二度訪ねている。退任したら絶対に一緒に行こうと言うのである。当然のことながら、現職中は長期の休みが取れない。退任後、当分の間は人生の整理に明け暮れるだろうと思っている。」

 以上のような拙文でありますが、「心の目が開かれる」お導きを信じて歩んでいたのです。その導きが六浦谷間の集会で礼拝をささげることであり、毎月、他の教会のお招きをいただくことであり、そして3月までは、幼稚園の園長を担うことでありました。空白のときこそ、約束の導きを信じて歩むことを示されているのです。現状を心配することはありません、聖霊のお導きが与えられているのです。「心の目が開かれる」のです。

<祈祷>

聖なる御神様。「心の目が開かれる」お導きを感謝いたします。さらに聖霊のお導きを与えてください。主の名によってささげます、アーメン

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