説教「私達の弁護者」

2016年4月24日、六浦谷間の集会 
「復活節第5主日

説教、「私達の弁護者」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書36章25-32節
    ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節
     ヨハネによる福音書15章18-27節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・152「陰府のちからは」
    (説教後)讃美歌54年版・500「みたまなるきよきかみ」


 本日は4月の第四日曜日であり、多くの教会が礼拝後に教会総会を開催するようです。日本基督教団の規定では、総会は年一回の開催としていますが、宗教法人としての教会は年二回の開催となっています。従って、2月の予算総会、5月の決算総会を開催する教会があります。しかし、多くの場合、二回も開催するのは、事務的にも大変なので、年一回、4月に開催する教会が多いのです。予算も決算も一度に審議してしまうと言うわけです。そうなると、会計の決算を行うのは結構大変であります。決算が出ないと予算も決めにくい現状でもあります。その様な忙しい現状ですが、やはり一度に済ませてしまう方が、事務的にも処理しやすいのです。
 前任の大塚平安教会在任時代、3月の最終日曜日が終わると、会計役員さんにしても他の役員さん達にしても、報告と計画を作成するのですから、結構大変であったようです。それでも皆さんは総会を開催して、決算と計画を承認してもらうのでした。教会の歩みは教会総会が基であり、総会決議に基づいて歩みが導かれますが、日常のことにつきましては教会役員会が担うことになります。総会で決められているにしても、細かいことを決めているわけではありません。たとえば、クリスマスを迎えるにあたり、総会では12月のクリスマス礼拝日を決めていますが、そのクリスマスをどのように迎えるのか、また祝会の内容をどのようにするのか、それらは教会役員会において決めるということです。
 こうして総会によって定められ、役員会によって具体的な方向性が決められている教会は、毎週の日曜日に礼拝をささげながら歩んでいます。信徒の皆さんは日曜日の礼拝により、信仰が養われ、イエス様のお導きをいただきながら歩むのです。信徒に取って、礼拝は人生の基ということです。私たちは日曜日に教会に集い、神様を礼拝していますが、誠に大きなお恵みであります。月曜日から土曜日までの一週間を、いろいろな状況の中で生きるとき、私たちの身体は多くの疲れを持たなければなりません。また、心労も重なり、精神的にも重いものを抱えることになります。しかし、日曜日に教会に集い、讃美を共にささげ、聖書の言葉に耳を傾けるとき、そこに新しい心が与えられるのです。力が与えられるのです。その力は新しい一週間を歩むエネルギーでもあります。
 日曜日に教会に集まる、と言いましたが、言い直さなければなりません。私たちは自分の気持ちで教会に来たんだと思いますが、そうではなく、神様が私たちに聖霊を注ぎ、私たちを教会に集めてくださったのであります。そして、神様がみ言葉を与え、私たちに新しい力を与えてくださっているのです。自分で得たと思ってはなりません。神様のお恵みとお導きとしての礼拝であります。
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 旧約聖書の示しをいただきましょう。エゼキエル書はエゼキエルという預言者が書いています。彼はもともと祭司の務めを持つ者でありました。ユダの国がバビロンに攻められ、多くの人々がバビロンの捕われ人になりました。エゼキエルもバビロンに連れて行かれました。それを捕囚と言っていますが、捕囚となって5年目に、エゼキエルは預言者としての召命を受け、神様のお心を人々に伝える者へと導かれたのでした。従って、エゼキエルの預言は捕われの境遇でありますが、その中で力強く神様の示しを語ったのであります。エゼキエルの預言は神様の裁きと回復について述べることに特色があります。神様の裁きは、人々が真に神様のご臨在を知るためでありました。ユダの国に対し、あるいは諸国の国に対し、神様は裁きを行うことを述べた後で、「こうして、お前はわたしが主であることを知るようになる」と述べるのであります。この言葉は「神認識句」と言われます。神様を真に知るために裁きが行われるということです。エゼキエル書には「神認識句」が54箇所もあります。従って、エゼキエル書は聖なる神様を証しているのです。真に神様を示されるときに、そこにこそ真の回復が与えられることを示しているのであります。
 今朝の聖書、エゼキエル書36章は「イスラエルの山々に向かって」回復が預言されています。イスラエルの山々は偶像礼拝が盛んになりました。それに対する神様の裁きがありました。今や、山々は回復され、神様のご栄光を現す山々になることを示しています。それが15節までです。そして、16節からは人々の回復であります。私たちの今朝の聖書は25節以下32節です。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる」と示しています。聖書の人々は、何よりも聖なる神様を汚したのであります。それは捕われ人となり、神様の都とさえ言われるエルサレムの滅亡へと至らしめたからであります。そのため、汚れている聖書の人々は清くならなければなりません。自分で清くなることはできません。神様が人々を清めるのであります。そして、清められた人々に「新しい心を与え、新しい霊を置く」のであります。それにより神様のお心をもって歩むようになると示しているのであります。
 「水を振りかける」ということ、カトリック教会ではミサの中で行われます。カトリック教会の棕櫚の主日ミサに列席しました。最初は教会の庭に集まり、そこで祈りの儀式が行われ、神父さんが皆さんに少しずつ水を振りかけていました。皆さんは清められて礼拝堂に入って行くのでした。
 偶像の神々に心を向け、人間の力にすがっていた今までの歩みがあります。それらが汚れた姿でありますが、今や「水を振りかけられて」清められ、新しい心、霊を与えられて、まさに回復を与えられて生きるようになるのです。人間が偶像に依存することは根本的な姿でもあります。偶像は自分の欲望を満足させるものです。それは人間の始まりからありました。創世記に人間が造られ、神様はその人間をエデンの園に住まわせました。それがアダムさんとエバさんです。神様は、彼らに園のどの木からも果物を取って食べなさいと言われ、しかし園の中央の木からは取って食べてはならないと戒めを与えました。彼らはその戒めを守りつつ園で過ごしていました。ところが、ある日、蛇か現れ、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」というのです。神様は、どの木からも食べて良いと言ったのであり、一つだけ、園の中央の木からは食べてはならないと言ったのであります。彼らは蛇の言ったことが気になり、改めて戒められている中央の木を見るのでした。彼らがその木を見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。彼らは思わず木の実を食べてしまいました。おいしそうであること、目をひきつけていること、賢くなるとの思いが食べてしまうことになりました。これは人間の根本的な欲望であり、聖書は原罪としています。人間はこの原罪がある故に、祝福の歩みができないことになります。絶えず自己満足に生きようとしているのです。そして、自己の欲望を満足してくれる偶像へと心を向けていくのです。偶像は自分の欲望の姿であります。実に旧約聖書の歴史は偶像礼拝の歴史でもあります。それに対して、神様は裁きを与え、また回復を与え、忍耐をもって導いておられるのであります。

 主イエス・キリストはお弟子さん達に懇々と示しを与えています。イエス様は十字架にお架かりになる前、お弟子さん達に別れの説教をいたしました。いわゆる決別説教というものであります。決別説教はヨハネによる福音書14章、15章、16章の三章にわたっています。イエス様は復活して天に昇られるのでありますが、この世に残されるお弟子さん達の不安を取り除き、弁護者である聖霊の到来によって、豊かな平安が与えられることを約束しているのであります。決別説教の最後で、16章33節、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と示され、お弟子さん達を励ましています。
今朝の聖書もお弟子さん達を励ましています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と聖霊の導きを示したのでありました。15章18節からは「迫害の予告」とされています。イエス様ご自身も当時の指導者達の迫害を受けていました。その迫害が、結局は十字架へと最悪の結果になっていくのでした。金曜日に十字架で死に、埋葬されますが三日目に復活されます。そして40日間、復活を証します。そして、天に昇られました。それからのお弟子さん達の不安の日々をイエス様は充分心得ていました。この18節以下では、お弟子さん達がイエス様を信じて生きるあまり、人々からの迫害は明らかなことであり、それはお弟子さん達ではなくイエス様を憎んでいるからであることを示します。しかし、神様がくださる弁護者、真理の霊により力強く生きることを示しているのであります。この弁護者は新しい活動を弟子達に導くというのではなく、主イエス・キリストのこの世における救いの全容を明らかにするものでありました。まさに真理の霊であります。弁護者を与えられることにより、お弟子さん達はイエス様の教え、その業が神様のご栄光を現すものであることを知ることになるのであります。だから、確信をもってイエス様の証をしていくことになるのであります。
このヨハネによる福音書は、イエス様が時の社会の指導者、ユダヤ人、群衆と論争が展開されています。私たちはこの論争を見るとき、私たちもなかなか分かりにくいのです。それはお弟子さん達も同じでありました。イエス様と共にいて、イエス様がいろいろな人々と論争をしていますが、お弟子さん達も分かりにくいことでありました。実際、6章60節以下で、弟子達がイエス様のお話しにつぶやき、多くの弟子達がイエス様から離れたと記されています。ここでの弟子達は12人のお弟子さんはなく、イエス様の教えを喜んで受け入れた人々であります。そういう中で、12人のお弟子さんはイエス様のお話、示しが良く分からなくてもイエス様に従っていたのです。そのお弟子さん達に弁護者が遣わされるというのです。真理の霊であります。真理の霊をいただいたお弟子さん達は、イエス様のお話されたこと、証されたこと、すべてが生き生きと示されるのです。そして、主イエス・キリストの救いの証を力強く人々に宣べ伝えていく者へと導かれるのであります。

 神様からの弁護者、真理の霊は私たちに与えられています。真理の霊は、主イエス・キリストが真の救い主、十字架の贖いが私を力強く導くものであることを示してくれます。このことを説明する一つの例としてステンドグラスがあります。ステンドグラスは外から見ると、ぼやっとして何がなんだか分かりません。しかし、このステンドグラスを内側から見ると、まさに生き生きと示されるのです。ステンドグラスが光を受けて、描かれている絵の意味をはっきりと示しているのです。キリスト教について外側から見ようとすると、なんだかよく分からないことが実情です。しかし、内側に入ってイエス様を見つめることによって、イエス様の教え、十字架の意味が生き生きと私に迫ってくるのです。
 最近、少年の頃からの友達からキリスト教の雑誌が送られました。その雑誌に友達の証しが掲載されていたからです。友達は近所に住み、私より一つ上の年齢です。少年の頃、いつも一緒に遊んでいたのです。やがてそれぞれの道を歩むようになり、しばらく会うこともありませんでした。隠退して、私が成長した実家に住むようになりましたが、ある日、少年の頃に遊びながら成長したその友達が訪ねて来ました。もう何十年ぶりの再会でした。いろいろと話しているうちにも、「イエス様がね」という言葉が出てくるのです。彼は私が牧師になったことを知っています。しかし、私は彼がクリスチャンになっていることを知りませんでした。彼もイエス様を信じる人へと導かれていたのです。彼の一番上の方がお姉さんでしたが、その方がキリスト教に導かれていましたので、その姿を見ながら彼の歩みがあったのです。やがて、彼も教会に導かれ、信仰を持って生きるようになったのです。彼は船を造る仕事をしています。もともとお父さんの代から船大工であり、彼も造船の仕事をするようになったのでした。クリスチャンになった彼を示されるとき、私は彼には長い期間、聖霊の導きがあったことを示されています。私は小学校3年生から日曜学校に通うようになりました。本来、日曜日は遊ぶ日なのに、教会に行ってしまう私を彼は見ていたのです。そして、お姉さんの信仰も示されていました。そこにも聖霊のお導きがありました。そして27歳の時に洗礼を受けたのでした。今は77歳ですから、信仰生活50年ということです。相模原に住んでいますが、教会は金沢区の野島の近くにありますので、日曜日には時間をかけて礼拝に出席し、教会の奉仕をしながら信仰生活をしているのです。私は彼の証しを示されたとき、まさに聖霊が長いこと彼を導いていたのであると示されています。そして、今も聖霊が彼の弁護者となって、現在の信仰生活を力強くさせているのであると示されています。
 聖霊は今の私達の歩みを導いてくださっています。聖書は「私達の弁護者」と示しています。いかなる状況を歩みましょうとも、私には「弁護者」がおられて導いてくださっています。弁護者である聖霊は、長い年月を通して導いてくださっているのです。聖霊の導きに委ねて歩むことです。今朝は聖霊のお導きを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。真理の霊をいただき、イエス様の救いをいよいよ示されて歩むことができますように導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。