説教「平和を与えられる」

2016年5月1日、六浦谷間の集会 
「復活節第6主日

説教、「平和を与えられる」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記33章7-11節
    ローマの信徒への手紙8章28-39節
     ヨハネによる福音書16章25-33節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・151「よろずの民、よろこべや」
    (説教後)讃美歌54年版・506「たえなる愛かな」


 今朝は5月1日、早いもので初夏という季節になりました。今は新緑がきれいです。毎日散歩していますが、新緑を見ながら歩いています。新緑と言っても、いろいろな色合いがあります。淡い緑とか、かなり濃い緑にもなっている木々の葉を見ることになります。一方、地上ではいろいろな花が咲いていますが、つつじの花があちらこちらで咲いています。昔はつつじとして鑑賞していましたが、いつの間にか「さつき」というようになり、「つつじ」の名前を忘れてしまいました。なかなか思い出せないので辞書を開いて調べてみました。「さつきつつじ」という名称のようです。上の言葉の「さつき」が定着するようになっていますが、やはり「つつじ」と称した方が愛着があるようです。季節ごとにいろいろな花を鑑賞すること、誠にお恵みであると思います。
 ところで、本日は5月1日で「メーデー」と言われています。労働者の祭典と言われています。この日は、人々が広場に集まり、いろいろなイベントを楽しみますが、労働者の祭典ですから、労働者の権利をアピールすることも重要な課題になっています。昔は、「血のメーデー」と言われるくらい、荒れた日になりました。労働者の権利を主張するあまり、激しいデモが行われ、警察と衝突したこともありました。しかし、今はその様なことはないようです。労働者の権利を喜びあって主張するようになっています。デモにしても荒れた行動ではなく、静かに歩きながら労働者の権利を主張しているようです。
 日本基督教団は前週の4月24日を「労働聖日」(働く人の日)として定めています。「働く」ということから、いろいろな仕事をすることが考えられます。しかし、キリスト教が定めている「労働聖日」は、必ずしも労働、仕事をするということではなく、信仰の働きを含めて奨励しているのです。主イエス・キリストの十字架の救いを人々に証すること、それが働くことなのです。一般的に考えて「働く」ということは、何かの仕事をすることでありましょう。ある代議士のポスターに、「汗を流すものが報酬を得る」というようなことが書かれていました。なんとなく割り切れない思いでポスターを見ました。働きたくても働けない人々があるのです。汗を流す場所がないのです。また、高齢者ともなれば、働く現場から隠退して過ごしています。「働く」とは生きるということであるのです。どのような生き方であれ、一生懸命に生きること、それが祝福であるのです。 

 旧約聖書出エジプト記は「平和が与えられる」という、土台が据えられて歩みだす人々を示しています。400年間の奴隷生活から解放され、神様が立てたモーセにより、約束の土地、乳と蜜の流れる国へと導かれる途上にあります。神様は人々に平和を与え、「選びの民」にするためにも、戒めを与え、神様の民として導こうとされています。そのため、モーセシナイ山に導くのであります。そこで十戒を授けます。十戒は神様を愛し、人々を愛する基本的な教えでありました。与えられた十戒は二枚の石の板に書かれており、その石の板を抱えてシナイ山から下山すると、異様な出来事が待っていました。モーセシナイ山に登ったまま帰ってこないので、人々は不安になり、自分達を支えるもの、偶像を造ることになります。それは金の子牛でした。人々は金の子牛の周りで踊り狂うのです。一時の不安がなくなります。そういう状況にモーセが下山し、偶像礼拝を目の当たりにします。モーセはもっていた石の板、十戒を金の子牛に投げつけます。金の子牛は粉々に散ってしまいます。そして、モーセは偶像礼拝をした人々を処罰したのでした。
 神様はモーセに、ここを発って約束の地へ進みなさいと言います。しかし、神様は人々が偶像礼拝を行った罪の故に、一緒に約束の地には行かないというのです。33章1節以下は「民の嘆き」とされていますが、一緒に行ってくれないという神様の故に嘆くのでした。そして、今朝の聖書になります。モーセは宿営から遠く離れたところに「臨在の幕屋」を造りました。モーセはその幕屋で神様にお祈りをするのです。人々はモーセが「臨在の幕屋」に行くときには、自分の天幕の入口で起立して見送ります。モーセが「臨在の幕屋」に入ると、雲の柱が降りてきて幕屋の入り口に立つのでした。それは神様が降りてきてモーセと語ることでした。雲の柱が幕屋にたっている間、人々は起立して礼拝しているのです。このことは、人々は偶像礼拝を行ったことを深く悔いているのです。こうしたことがあって、神様は約束の地へと一緒に行くことを告げるのでした。人々にとって神様の導きなしには生きられないことを真に知ることになるのです。モーセを通して与えられる神様の導きこそ、神様が下さる平和であり、人々の土台でありました。何があっても土台があるという希望が人々を約束の地へと向かわせることになるのです。

 私たちも平和が与えられ、土台が与えられて約束の地へと向かっています。神の国、永遠の生命という約束の地へと向かっています。私たちの土台を新約聖書の主イエス・キリストから示されているのです。
 今週の5月5日は早くも主イエス・キリストの昇天日であります。3月27日がイエス様の復活されたイースター、復活日でありました。それから40日間、イエス様は復活の姿を人々に証されました。そして40日後に天に昇られるのです。イエス様の昇天のメッセージは次週に示されます。今朝の聖書、ヨハネによる福音書16章25節以下33節は、前週も示されましたが、イエス様の決別説教の最後になります。ヨハネによる福音書14章、15章、16章はイエス様のお弟子さん達への別れの説教であります。十字架の死、復活、そして昇天ということが今後起きてきます。それに対し、お弟子さん達に平和が与えられ、力強く生きるよう励ましているのが決別説教であります。
 決別説教の冒頭でイエス様は言われます。14章1節以下、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と示し、この決別説教は始まったのであります。そして、今朝の聖書でクライマックスになります。16章33節、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と締めくくっているのです。今朝はイエス様の示し、イエス様から平和を与えられ、「世に勝つ者」として導かれたいのであります。
 「世に勝つ」と言った場合、どういうことが世に勝つことなのでしょうか。この社会で成功するとか、人々を「あっ」と言わせることなのか、もちろんそのようなことではありません。イエス様も示しているように、私たちの現実にはいろいろな苦難があります。その苦難に対しての勝利ということであります。今朝の聖書の冒頭で、イエス様は「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた」と示しています。「たとえを用いた」と言われますが、実際イエス様のお話しは何だかよく分からなかったということがお弟子さん達の理解です。「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時がくる。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しているからである。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と示されています。まさに主イエス・キリストが神の子であり、十字架を通してご栄光を現されたと信じること、これが信仰であります。十字架を通して人間を救われたことを信じること、これが私たちの信仰であります。このイエス様の示しに対して、お弟子さん達は「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と告白したのでした。これはお弟子さん達の信仰の告白であります。この告白により、お弟子さん達は平和を与えられ、しっかりと土台が据えられたのでした。今まではイエス様の言われていることが、雲をつかむようで、何だかわからなかったのです。しかし、今、イエス様がはっきりと御自分を証されたことにより、お弟子さん達のイエス様への信仰が確立されたということなのです。イエス様が平和を与えてくださるということです。
 主イエス・キリストは神様のもとからお出でになり、十字架により人間を救われ、再び天に昇られたということ、これが信仰なのです。わたしたちの信仰はこの基本の何ものでもありません。従って、教会に来る、キリスト教の中に入るということは、イエス様の救いに与ることなのであります。教会の歩みの中で、交わりが深められ、食事を共にしながら、いわば喜びの歩みであります。教会に出席した感想はと言えば、雰囲気がよいとか、賛美歌を歌うことができるからとか、楽しい食事があるからとか言われます。それは結構な感想であります。しかし、そこで終わってしまうのではなく、お弟子さん達のように「あなたが神様のもとから来られ、十字架の救いを与え、天に昇られた」と信仰の告白をしなければならないのであります。そこに「平和が与えられる」根源があるのです。
 「わたしをひとりきりにする時が来る」とイエス様は示しています。このヨハネによる福音書は、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられたとき、お弟子さん達は逃げたと言うことを記していません。しかし、他の福音書は、イエス様が捕らえられたとき、お弟子さん達は逃げてしまったと記しています。ヨハネによる福音書は逃げたとは言いません。ペトロともうひとりの弟子は捕らえられたイエス様についていき、裁判の様子を見たりしています。十字架に架けられたときにも、十字架のもとにはマリアさんヨハネさんがいました。このヨハネによる福音書は、お弟子さん達は逃げてはいないのであります。「わたしをひとりきりにする」と示しているのは、逃げることでも、裏切ることでもないのです。それはイエス様がわたしの中から消えてしまうということです。礼拝で讃美歌を歌います。大変美しく歌うので、自分でも聞きほれてしまうくらいです。その場合、讃美はどこに向けられているのでしょうか。いわば自分に向けて歌っていることになるのです。イエス様をひとりきりにしているのです。楽しい交わりも、あるいは懇談のときもイエス様をひとりきりにしていることがあるのです。それは常に自分が先走っているからであります。自分が中心になるとき、イエス様をひとりきりにしていることであります。
 しかし、私たちが自分の都合で、イエス様への信仰告白をしたり、イエス様をひとりきりにする時にも、イエス様は決してひとりきりではないと証されています。父なる神さまが共におられるからです。神さまが共におられる確信を持ちつつ十字架の道を歩みます。それは勝利の証なのであります。私たちもイエス様をひとりきりにするのではなく、イエス様が共に歩まれてくださると信じるとき、わたし達も勝利者、世に勝つ者へと導かれているのです。「平和を与えられる」信仰の歩みなのです。

 パウロの励ましを示されましょう。今朝の聖書、ローマの信徒への手紙8章31節以下です。「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と示しています。主イエス・キリストが私のために十字架にお架かりになられたのです。神様が私たちを愛してくださる故に、イエス様を十字架におかけになり、私たちの内面的な姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。私たちは十字架を仰ぎ見るほどに、この神さまの愛が迫ってくるのです。イエス様が十字架の勝利を得たように、私たちも世に勝つ者へと導かれたいのであります。
私達の人生はいろいろなことがあり、それらを受け止めながら歩まなければなりません。自分に与えられた人生として、諸問題に向きつつ歩むのです。最初に「働く」ことを示されましたが、自分の人生を精一杯歩むということです。私達はイエス様の福音をいただきつつ歩んでいます。それが「働く」ということなのです。イエス様から「平和を与えられる」人生です。神様の愛という土台に生きているのです。
昔、私の母が亡くなったとき、両親は浄土真宗の信仰を持っていましたので、葬儀は所属するお寺の和尚さんにお願いしました。浄土真宗は葬儀の時、奨励があります。和尚さんの奨励は、「鈴木さんのお母さんは、今お仕事を終えたのです。お仕事を立派に終えてあの世に行かれたのです」と言われました。そう言われながら母の人生を示されたのでした。私にとって、母が日曜学校に連れて行ってくれたのであり、牧師になるために神学校の寮に入る時、母は新しい布団一式をそろえてくれたのでした。仏教の信仰を持ちながらも、私の牧師への道を励ましてくれたのです。母は大きなお仕事をしたと思っています。
 私達は、主イエス・キリストから「平和を与えられる」人生を歩んでいますので、イエス様の御心をもって「お仕事」をする、そういう人生を歩みたいとお祈りしています。
<祈祷>
聖なる御神様。平和を与えてくださり感謝致します。その平和をいただきつつ世に勝つ者としてください。主イエス・キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン