説教「永遠の命を与えられる」

2020年3月15日、三崎教会
「受難節第3主日

 

説教、「永遠の命を与えられる」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨシュア記24章14-24節
   ヨハネによる福音書6章60-71節
賛美、(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」
   (説教後)讃美歌21・521「とらえたまえ、われらを」

 


 受難節第三週であります。後一ヶ月で受難週となり、主のご復活となります。今は主のご受難が私の救いのためであることをしっかり受け止めつつ歩みたいのであります。昔は受難節となると克己の生活が奨励されました。昔はと言いますが、今でも克己の生活は必要なことでもあり、実践されておられる方もいます。「克己」の「克」は「力を尽くして相手に打ち勝つ」という意味です。この場合、相手は「自分」でありまして、自分に打ち勝つのであります。自分は、いつも自己満足に生きています。自分の思いのままに歩んでいるのです。
 昔は教団から克己献金袋が送られてきました。しかし、今は送られてきません。主のご受難をそれぞれが偲びつつ歩むことが本筋であり、各自に犠牲を強いるようで、克己献金を止めたのかもしれません。いずれにしても、克己の歩みは大切であり、受難節ではなくても、信仰に生きるものに求められている生き方でもあるのです。
 私たちが主イエス・キリストを信じて歩むこと、それは私たちもイエス様の歩みに倣いつつ歩むことなのです。それは受難節に限りません。常にイエス様に倣いつつ歩むことで祝福があるのです。私の青年の頃、「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)という本を愛読しました。聖書に次ぐ宗教的古典として世界の人々に愛読されている本であります。日本においてもキリシタン時代から訳されていたとも言われています。青年の頃に読んだとき、強烈な示しを与えられたのでした。修道院に入ったような思いで読んだことが思い出されます。信仰に生きるには、常にイエス・キリストに倣うことが教えられているのです。「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)を読むとき、限りなく自分を捨てることであり、しかし、限りなく「いのち」へと導かれるのであります。「永遠の命を与えられる」のであります。

 「わたしとわたしの家は神様に仕えます」とはっきり立場を表明したのはヨシュアでした。ヨシュアモーセの後継者としてイスラエルの人々を導いた人です。モーセは人々を奴隷の国エジプトから脱出させ、荒れ野の40年間を通して、神様への信仰を教え導きました。そして、約束の地、乳と蜜の流れる土地カナンを前にして決別の説教を行いました。それが申命記であります。そして、モーセの使命はそこまでで、後のことは若きヨシュアに託したのでした。ヨシュアは指導者として、神様から賜った土地であるカナンに侵入し、12部族の土地を得たのであります。その時、ヨシュアイスラエルの全部族を集めました。そして、人々に今日までの神様の絶大な恵みと導きを話します。それは、最初の人、アブラハムの選びから始まり、イサク、ヤコブの時代に及び、ヤコブの時代にはエジプトに下り、奴隷の境遇になったもののモーセを通して救い出され、荒れ野の40年間もマナを与えられつつ導かれ、そしてカナンに到着し、定住へと導いた神様の恵みと導きであります。そして、神様の言葉として、「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」(ヨシュア記24章13節)ことを示します。だから、主の導きと恵みに応えて、神様に仕えることを人々に促しているのであります。新しい土地に生きることになりますが、今後の歩みにおいて偶像を拝んだり、他の宗教に気持ちを向けていくことが考えられるからでありました。
 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 神様は歴史を通して導いてくださった存在であり、人々にとって「いのち」の根源なのであります。「いのち」である神様に従いなさいとヨシュアは、人々に勧告するのです。このような信仰に生きるヨシュアモーセの後継者に選ばれたとき、神様はヨシュアを励まします。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この励ましを基にして、ヨシュアは神様の約束の土地、カナンに侵入したのでした。そして、改めて人々に神様への信仰を促しているのであります。何よりも「わたしとわたしの家は神様に仕えます」とはっきりと信仰の告白をしたのであります。神様の御心をいただいて歩むということですが、導きの霊に従うということなのです。

「導きの霊」に従うのか、私たちに問われていることであります。「導きの霊」をいただきながらべ、「導きの霊」を拒否し、裏切る人の弱さを示しているのがヨハネによる福音書であります。今朝は6章60節以下でありますが、ここに至る前の部分、6章1節以下の示しが全体の教えとなっているのであります。まず、6章1節以下では五千人に食べ物を与えられたイエス・キリストが報告されています。食べ物はパンであり魚でありました。五千人もの人々に対して、イエス様は「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。弟子達は、たとえお金があっても、こんなに大勢の人に対しては食べさせることはできないと思います。しかし、イエス様は少年が持っていたパン五つと魚二匹を受け取ると、感謝の祈りをささげ、それを五千人の人々に分け与えられたのでした。人々は満腹したのであります。この大きなしるしを示した日の翌日、人々はイエス様を捜します。ようやく探しあてると、イエス様は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と、五千人にパンのしるしを与えた意味を示されたのでした。「導きの霊」をいただく示しなのです。確かにパンにより満腹しましたが、その象徴的しるしは神様の救いであることを知らなければなりません。このパンこそ「いのちのパン」なのであります。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とイエス・キリストは教えておられます。
 その後、イエス様と人々のあいだにパン問答が続きますが、イエス様ご自身が天からのパンであり、「いのち」であることを人々は理解できないのでありました。結局、人々はイエス・キリストにつまずいたのであります。そして、多くの弟子達がイエス・キリストから離れたということです。イエス様につまずき、裏切るのはイエス・キリストの「いのちのパン」を拒否したことになったのでした。「いのちのパン」の教えは、まだ予備的なものであります。この後、イエス・キリストは十字架への道を歩むことになります。人間が自分のためにしか生きられないので、共に生きることができるように十字架にお架かりになりました。これは時の社会の指導者達のねたみにより殺されることになったことでした。しかし、神様はこの十字架により、人間を救う基にしたのであります。人間の自己満足、他者排除は人間が持つ根源的な罪の発祥元であります。いつの間にか他者を切り捨てながら生きている人間なのであります。その人間が持つ根源的な罪を十字架により滅ぼされたのでありました。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」との意味であります。「神のパン」は見える形ではありません。「神のパン」すなわち「導きの霊」なのです。

今は日本ばかりではなく世界中が新型コロナウィルス感染予防で、対策をとっているところです。地球の危機的状況になっています。各国は人の往来を遮断する対策をとっていますが、感染は食い止めても食い止めても広まっていくようです。感染しても、その後、回復する人がいますが、死んでしまう人もおられるので、感染予防が強化されているのです。コロナウィルスは見える存在ではなく、私たちの目には見えない菌によって感染していくのです。この時、私たちはイエス様が約束してくださっている「永遠の命を与えられる」歩みを導かれたいのです。イエス様がくださる命のパン、それはイエス様の十字架の救いを信じるということです。私たちにとって、十字架の救いを信じるということは、「導きの霊」によって示されるのです。導きの霊は見えません。しかし、私たちをしっかりと導いてくださるのです。イエス様は私たちの罪の姿、自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼされたのです。イエス様の十字架を仰ぎ見ることにより、永遠の命が与えられるのです。感染予防で心を痛めているとき、永遠の命を与えられる喜びを持ちつつ、歩みたいと示されているのであります。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)と示されています。目に見えないコロナウィルスですが、目には見えない神様の霊のお導きは祝福の歩みとなるのです。そして、永遠の命が与えられるのです。イエス様の救いの十字架を仰ぎ見ることで霊のお導きが豊かに与えられるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与え、命のパンを与えて下さり感謝致します。導きの霊にゆだねつつ歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。

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