説教「救いのしるし」

2022年10月2日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第18主日

                      

説教・「救いのしるし」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記12章21-28節

   ヘブライ人への手紙9章23-28節

   マルコによる福音書14章12-26節

賛美・(説教前)讃美歌21・402「いともとうとき」

   (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」

今朝は世界聖餐日であり、世界宣教の日として定められています。世界の人々が聖餐式に与り、主イエス・キリストの救いを確認する日であります。聖餐式はイエス様が十字架にお架りになる前、お弟子さんたちと最後の食事をしました。この場面を「最後の晩餐」としてレオナルド・ダ・ヴィンチが絵画を残していますが、今でもこの絵を示され、イエス様の当時のお姿を示されています。何よりも聖餐式の意味です。イエス様は12人のお弟子さんたちと最後の夕食をしました。最後のというのは、この後に捕えられて十字架へと向かうのです。イエス様は最後と示されていますが、お弟子さんたちは分かりません。食事をしながらパンを取り、お弟子さんたちに配ります。そして、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と示されました。次にぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りを唱え、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と示されたのです。お弟子さんたちは、イエス様が十字架に架けられた後、このイエス様の晩餐を示され、「主の聖餐」としていただくようになり、今日もなおイエス様の聖餐をいただいています。聖餐式は各教会で行われていますが、今朝は特に世界の皆さんが共に主の聖餐式に与ることを目指しているのです。私たちも、いつも聖餐式にあずかり、イエス様の十字架のお救いを仰ぎ見つつ、導かれたいのであります。

 旧約聖書出エジプト記の教えであります。神様の救いの根本がここに示されています。最初の人アブラハム、そしてイサク、ヤコブの族長時代の救いというものも示されますが、奴隷からの解放は、救いとして聖書全体の救いの下敷きになっているのであります。

 今朝の聖書、出エジプト記12章21節以下は神様の救いが実現するにあたり、聖書の人々が救いに与る準備をする所であります。聖書の人々がエジプトで奴隷である、この意味を分からない人々がいます。奴隷として働かせているエジプト人も、奴隷として働かせらせている聖書の人々、イスラエル人も、なぜなのか分からない人々がいるのです。これは少し遡らなければなりません。族長ヤコブの時代、飢饉、冷害が起こり、食べ物に窮することになりました。それでエジプトに食料があるというので、ヤコブの子ども達10人が買い出しに行くのであります。そこで、はからずも11番目の兄弟ヨセフに出会います。ヨセフはエジプトで王様に次ぐ大臣になっていました。兄弟達は驚くと共に恐れるのであります。なぜならば、このヨセフを兄弟達が奴隷として売り渡してしまったからであります。ヨセフはヤコブの12人の子ども達の中でも、父のヤコブがこよなく愛している息子でした。他の兄弟達は面白くありません。何とかしなければとの思いが、ヨセフを奴隷として売ってしまうことでした。本当は殺すことまで考えたのですが、一番上の兄が殺すことは思いとどまらせたのでありました。売り飛ばされたヨセフは、不思議な力がありました。それは夢を解くということです。王様が変な夢を見ました。誰もその夢を解き明かすことができません。それがヨセフへの導きとなり、ヨセフは王様の不思議な夢を解き明かすのであります。7年間は豊作が続き、その次に来る7年間の飢饉は豊作を飲み込んでしまうというものです。だから、豊作の期間、穀物や食料を貯蔵することを王様に進言するのであります。王様はヨセフの夢の解き明かしを喜び、ヨセフを大臣にして食料の管理をさせたのであります。そこで食料の買い出しに来た兄弟達との再会になりました。ヨセフは恐れる兄弟たちに、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言うのであります。

 こうしてヤコブの一族はエジプトに寄留することになりました。その後、ヤコブもヨセフも死んでしまいます。そして、このエジプトに外国人が住んでいることの意味を知らない王様の時代になります。自分の国で外国人が多くなっていくことに恐れを持つのであります。それにより奴隷の時代が始まるのであります。奴隷として苦しむこと400年と言われています。この苦しみの声を神様が受けとめ、モーセという指導者を立てて救い出すのであります。モーセはこの大きな職務に恐れを持ち躊躇します。しかし、神様はモーセを励まし、救いの業を行わせるのであります。モーセはエジプトの王様ファラオに、聖書の人々がこの国から出ていくことを交渉します。しかし、王様は応じません。今や奴隷の力はエジプトにとっては大きな力になっているのであります。奴隷の労力がなければ何もかも進められなくなるのであります。かたくなに拒否をする王様に、モーセは神様の力を持って迫ります。

 そして、ついに最後の災いが下されるのであります。それが今朝の聖書になります。神様の最後の災いは、エジプトに住むすべての初子は死ぬということでした。聖書の人々もエジプトに住んでいるのです。神様の審判から救われるために、聖書の人々の家の鴨居に羊の血を塗っておくのです。審判の日、モーセは聖書の人々に、「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される」と示すのであります。こうして過越の救いが与えられたのであります。この救いの過越は定めとし、永遠に守りなさいと示しているのであります。

 主イエス・キリストも過越の食事を致します。旧約聖書過越の祭りが、イエス様による救いの時となるのであります。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意致しましょうか」と弟子たちが聞きました。すると、イエス様は、「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子達と一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と言われたのであります。

 こうして準備された食卓で、イエス様は救いの儀式を示されたのであります。マルコによる福音書14章22節以下は「主の晩餐」として示されていますが、「最後の晩餐」なのであります。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」と言われたのであります。イエス様の十字架による贖いはこの後ですが、あらかじめ儀式を示されたのであります。イエス様が十字架にお架りになり、復活されたとき、お弟子さん達はイエス様の残された儀式をしっかりと受け止め、聖餐式として守るようになりました。イエス様が十字架にお架りになる前に、最後の晩餐を通して聖餐式をお定めになられたのは、十字架の救いが前提であります。十字架により血が流されること、その血は救いのしるしであるということを示されているのであります。従って、十字架の救いを信じて洗礼を受けること、そして聖餐式に与ることが救いの確信となるのであります。同じ信仰に導かれるのであります。

 今朝は「世界聖餐日」であり、「世界宣教の日」であります。世界の人々が共に聖餐に与ること、そこに平和の原点があるのです。イエス様の平和が実現するために、いつも聖餐式に与りたいと思います。聖餐式ということで、いくつかの思いがあります。

 2014年にバルセロナに滞在しましたが、娘の羊子の知り合いである神父さんが羊子に奏楽を依頼しました。私たちも一緒にミサに出席しました。そうしましたら神父さんが、私も一緒にミサの司式をするように依頼されるのです。驚きましたが、求められるままに、神父さんのガウンを着て、短い奨励を行い、その後聖餐式が執行され、私もぶどう酒を会衆の皆さんにお配りしたのでした。カトリックの神父さんとプロテスタントの牧師が共同でミサと聖餐式を司ったのでした。何度かバルセロナに滞在しています。日曜日には六浦谷間の集会バルセロナ集会として礼拝をささげていましたが、合わせてカトリック教会のミサにも出席していました。カトリック教会はミサの終わりに必ず聖餐式が行われるのです。私もその聖餐式に与っていました。カトリック教会にしてもプロテスタント教会にしても、イエス・キリストが御示しになった聖餐式は同じです。みな、こころを一つにしてイエス様の聖餐式に与ることです。

 今朝は「救いのしるし」とのメッセージですが、私達にとって「救いは」は洗礼であり、信仰を導くこととして聖餐式が定められています。私達はこの救いのしるしをしっかりと受け止めつつ歩みたいのです。聖餐式には

常にあずかることを示されています。

<祈祷>

聖なる神様。日々の歩みをお導き下さり感謝します。永遠の生命を目指して、信仰を深めて歩ませてください。キリストの御名により、アーメン。

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