説教「神様の御心をいただきつつ」

2022年8月7日、大塚平安教会

聖霊降臨節第10主日

                      

説教・「神様の御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・民数記11章24-30節、

   マルコによる福音書9章33-41節

賛美・(説教前)賛美歌「生きて愛して祈りつつ」

   (説教後)賛美歌「主の祝福」

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 本日は8月の第一日曜日でありますが、日本基督教団はこの日を「平和聖日」と定めています。8月は日本の戦争中、原子爆弾が広島と長崎に落とされ、多くの人々が犠牲になりました。日本はこれ以上戦争ができないとして8月15日に敗戦を宣言したのであります。戦争により多くの人々が犠牲になり、日本列島のどこも戦争により破壊されたのでした。そのような苦しみと悲しみの戦争があり、日本基督教団としても8月の最初の日曜日に「平和」をお祈りする提案をしているのです。「平和」とは、戦争がないこと、人々が喜びつつ心を合わせて生活できることであります。しかし、「平和」と言えば平穏な日々を示されるのですが、平和と言う言葉の中には「戦う」ことも含まれているのです。日本の国も、戦国時代がありました。それぞれの民族、部族が争っていたのです。それで、そのような戦いの世の中ではなく、国を統一すれば戦いが無くなるということで、天下統一の戦いが展開されたのでした。そして、最終的には徳川家康によって、安定した世の中になったのでありますが、封建制の社会であり、真の平和とは言えないのであります。国を安定させ、平和を実現するために戦争をすること、それは現代でも適用されているのです。

 聖書では「平和」という言葉は「シャロ―ム」であります。この言葉には「安心、穏やか、親しい」との意味があり、聖書の世界の人々は挨拶の言葉として使っているのです。ところが「シャローム」の言葉なのですが、この言葉は「戦いに勝つ」と言うときにも用いられています。例えば、旧約聖書士師記11章31節に、「わたしが戦いに勝って帰るとき」と記されているように、「戦いに勝つ」がシャロームなのです。戦いに勝つことで平和が訪れるという訳です。従って、シャロームと挨拶を交わしても、必ずしもシャロームが平和の言葉とは言われなくなるのであります。その意味でも聖書はシャロームをもって平和を示しているのではなく、「神様の御心をいただく」ことが平和の原点と示しているのです。

 今朝は旧約聖書民数記から示されています。この聖書ではモーセと言う人が登場します。モーセと言う人は聖書の人々の指導者であります。神様はモーセ十戒という神様の御心を与えます。十の戒めです。その戒めを守るならば、良い人生が歩めますよ、と言うことです。モーセはその神様の御心である戒めを人々に教えるのでした。人々はモーセが与えてくれる神様の御心を、守りながら過ごしているのです。どのような戒めかと言いますと、「あなたは人を殺してはならない」、「あなたは人の物を盗んではならない」、「あなたは嘘を言ってはならない」、「あなたは人の物を欲しがってはならない」、「あなたは父と母をうやまいなさい」と言うことです。これが戒めかと思います。普通の生活をしていれば、殺したり、盗んだりはしないのです。だから、普通の生活をしていれば、戒めを守っていることになるのです。モーセは神様の御心である戒めを人々に与えていたのです。人々はモーセの教えているように生活しているのでした。ところが、そのモーセの真似をする人が出てきました。モーセのように人々を指導したり、神様の御心だと言って教えていたのです。そういう人がいるので、モーセのお弟子さんのヨシュアという人が、「あの人を止めさせてください」とお願いしているのです。なんか出しゃばって、指導者のようになっているという訳です。ところが、モーセは止めさせませんでした。モーセの真似をしているのです。モーセは神様の御心をいただき、十戒を与えられているのです。真似をするということは、十戒を求めているので、そういう姿勢、モーセにまねるということは十戒を、神様の御心を大事にしているということで、「やめさせない」と言っているのであります。旧約聖書は、神様の御心を求めて歩む真似をしていることで、人々に神様の御心へと導いているのです。神様の御心に近づくことを導いているのであり、そのようにしている人を止めさせてはならないと言っているのです。

今朝の新約聖書マルコ福音書9章33節以下でありますが、ここでも真似をしている人がいるので、やめさせてもらいたいとイエス様に訴えているのです。今朝の聖書の38節以下は、「逆らわない者は味方」との題になっています。弟子のヨハネさんがイエス様に、「イエス様の名前を使って悪霊を追い出している者がいるので、やめさせようとしました」と報告しています。するとイエス様は「やめさせてはならない」と言うのです。イエス様の名を使う以上、イエス様を信じているのであり、反対のことはできないからであります。むしろ、その者は味方であるとも言っているのです。いわゆるイエス様の所作を真似ているのであり、だから反対者ではないのです。イエス様も真似をすることを奨励しているのです。

真似をしなさいと言うことでは、イエス様ご自身が「わたしの真似をしなさい」と教えています。今の「真似をさせなさい」の前の部分は「いちばん偉い者」についての示しです。イエス様には12人のお弟子さんがいますが、彼らは、この中で誰がいちばん偉いのかと論じあっていたのでした。人間は、いつも他の存在と比較しているわけで、お弟子さんたちも同じ思いでした。その時、イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えておられます。一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われたのであります。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と示されています。イエス様は、人に仕える教えをしていますが、まさにお弟子さん達の足を洗うということで実践的に示しているのです。

それはヨハネによる福音書に示されています。イエス様はお弟子さん達と食事をしました。その時イエス様は、盥をもってきて、お弟子さん達の足を洗ったのです。お弟子さん達は先生のイエス様に足を洗ってもらうなんて、恐れ多いことでしたのでお断りをするのです。すると、イエス様は、わたしがあなたがたの足を洗わなければ、あなたがたはわたしと関係が無くなると言われました。そしたら、お弟子さんのペトロさんは、それでは手も頭もと言うのでした。足を洗うということ、それは相手の足を自分の目の高さにまで上げるのでは、相手はひっくり返ってしまいます。だから、相手の足元にうずくまって洗わなければならないのです。そういう生き方をイエス様は教えておられるのです。だからイエス様自らがお弟子さんたちの足元にうずくまって洗ったのでした。「あなたがたも同じようにしなさい」と言われています。「わたしの真似をしなさい」と示しています。

今朝の旧約聖書新約聖書もそれぞれ異なった状況を述べているようですが、一つのことを示しているのです。すなわち、「神様の御心をいただく」ことなのです。神様の御心をいただいている指導者モーセのようになること、イエス様の所作をまねること、すなわち「神様の御心をいただく」歩みを示しているのです。

 最初に8月は「平和」を祈る月であると示されました。平和を祈りつつ礼拝をささげるよう勧めています。しかし、私たちが目指す「平和」は、ともすると自己中心的な、他者排除を伴う平和でもあるのです。それは人間が作り出す平和と言うものなのです。そうであっても私達は平和のために努力しようとしていますが、その平和は「神様の御心をいただく」ことが原点でなければならないのであります。では、「神様の御心をいただく」とはどのようにすれば御心をいただけるのでしょうか。これが「神様の御心」であるということを示されたいと思っています。

 その答えは神様が人々に示した「十戒」であると思います。十の戒めのうち、第一戒から第四戒までは神様に関する戒めであり、第五戒から第十戒は人間関係の戒めです。「殺してはならない。盗んではならない。嘘をついてはならない。」と戒められています。これが神様の御心なのです。問題は、私達の生活上のことで、神様の御心として示されたいのであります。ここで、もう少し言葉の整理をしておきますが、私達が求めている平和、そして今朝示されている「神様の御心」を別の言葉で表すなら「神の国」と言うことです。「神の国」は死んで彼方の国ではなく、今生きている現実が「神の国」なのです。神様の国は、もちろん争いもなく、人々が共に歩む国なのです。神様は私達が神の国に生きるためにイエス様をこの世に送ってくださったのです。だからイエス様に導かれて神の国に生きているのです。ではその「神の国」はどこにあるのでしょうか。それについてもイエス様から示されましょう。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と示されています。「わたしとあなたの間に神の国がある」と言われています。人と人とが向き合うこと、そこに神の国が存在する、平和が実現する、神様の御心がいただける、と言うことなのです。

 先ほども十戒を示されました。それらを守ることが平和の原点でありますが、イエス様は十戒を二つの戒めにまとめました。「神様を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と教えておられます。このイエス様の教えを実践することが平和の基であります。「神様の御心をいただきつつ」歩む人生なのです。人と人との間にある神の国です。他の存在に向き合って歩みたいのです。神様の御心をいただきつつ歩む人生となるのです。

<祈祷>

聖なる神様。イエス・キリストのお導きを感謝いたします。神様の御心をいただき平和を築かせてください。キリストの御名により、アーメン。

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