説教「祝福の歩みへと招かれる」

聖霊降臨節第2主日」 三位一体主日   

                      

説教・「祝福の歩みへと招かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書6章1-8節

   エフェソの信徒への手紙1章3-14節

   マタイによる福音書11章25-30節

賛美・(説教前)讃美歌21・351「聖なる聖なる」、

   (説教後)讃美歌21・493「いつくしみ深い」

 

 今朝は三位一体主日であります。「父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊」としての神様を私たちは信じているのであります。神様が三人いるというのではなく、三様に言い表すことのできる神様であるということです。

  神様は、旧約聖書の時代によりますと、アブラハムから始まって、民族の中心的な人により御心を示しました。モーセを通して十戒を与え、導かれたのであります。十戒を守ることで祝福の歩みとなるのでありますが、人々は十戒を守ることができなかったのであります。それが旧約聖書の記録であります。

 神様は神様の御心である十戒を守ることのできない人間に対して、御子である主イエス・キリストをこの世に生まれせしめるのであります。それが新約聖書の示しであるのです。イエス様は旧約聖書では絶対的な神様の存在を、「父なる神様」と親しく呼ぶことのできるお方として人々を導かれました。今までは神様の名を呼ぶことすら畏れ多いのに、「父なる神様」と呼ばせてくれたのです。そして、神様の御心を人々に示すとき、イエス様の目的も人々が神の国に生きることでありました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と宣言して神の国運動を始められたのであります。神の国は死んで彼方の国へ赴くものではなく、今生きているこの世において、神の国を生きるということなのです。しかし、イエス様の教えを受けて神の国に導かれることは、人々にとって困難でありました。自分自身を克服できないからであります。神様は人間が真に救われ、神の国に生きるために、主イエス・キリストを十字架で死なしめ、イエス様の死により、人間の奥深くにある自己満足、他者排除の姿を十字架と共に滅ぼされたのであります。これでこの世における主イエス・キリストの時代が終わりました。そして、聖霊の時代になるのであります。聖霊降臨、ペンテコステにより、聖霊の導きが始まったのであります。

 このように父なる神様の導き、主イエス・キリストの十字架の贖い、聖霊の導きはいずれも三位一体の神様であります。神様が三人いるのではなく、それぞれの時代を通して神の国に生きるために神様が人間に関わってくださっているのです。

 今朝の旧約聖書預言者イザヤの召命であります。まず、イザヤは天上の世界を幻のうちに示されるのであります。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」ということです。ここでは神様があたかも人間のように記されていますが、幻として示されているのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と天使たちは唱えていたのでありました。神様のご栄光が地上にもたらされることで、地上は神の国となり、楽園になるのです。その時、イザヤは神様の声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と言われています。地上に神様のご栄光を現し、神の国、楽園にするために誰がいくのかと問われています。するとイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と召命に答えたのでした。預言者イザヤの働きは神の国実現でありました。

 イザヤが召命に応えたとき、神様は言われました。「行け、この民に言うがよい。良く聞け。しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と」、不思議なことが言われています。「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」と言われるのです。この世の中を神様の国に導くことがイザヤの使命なのですが、神様は人々の心をかたくなにするといわれるのです。人々の心を素直にして、人々が喜んで神様の国に生きることが目的ではないでしょうか。神様が人間をかたくなにするとはどういうことなのでしょうか。神様が人々の心をかたくなにするといわれるとき、私たちはエジプトの王様、ファラオが示されてきます。

神様はエジプトで奴隷として苦しむ聖書の人々を救い出すためにモーセを立てます。モーセはファラオに奴隷の人々のエジプトからの解放を求めます。しかし、ファラオはそれを拒否するので、モーセは神様の力を現すのでした。神様の力を示されたとき、ファラオは「わかった」と言いますか、苦しみがなくなると、再び聖書の人々を苦しめることになります。「わかった」と言いつつ、改めないファラオでした。むしろ、神様が人々の心をかたくなにすることにより、本当に「わかる」ことへと導いているのです。人々がイザヤの言葉を聞いて、「分かった」と言う時、何が分かったというのでしょうか。神の国、祝福の楽園を到来させるために、人々はイザヤの言葉をどのように受け止め、実践するのでしょうか。その問いかけがイザヤ書のメッセージなのであります。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエス・キリストは人々を招いています。「あなたがたを神の国に生きる者へと導く」とイエス様は示しているのです。今朝の新約聖書11章25節以下は主イエス・キリストの招きの言葉であります。招きの言葉を言う時、「天地の主である父よ。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われています。

 神様のお心を受け止めない人々を示し、真に神様のお心をいただくのは、知恵ある者や賢いものではないと言われ、幼子のようなものこそ神様のお心を真にいただく者であることを示しているのです。「幼子」とは貧しき人々であり、世の人々から片隅に押しやられている存在であります。当時の社会で「罪人」といわれる人々、病気の人々は社会からはみ出されて生きていたのであります。律法、戒律から外れる人々でありました。「知恵ある者、賢い者」は律法、戒律を厳格に守って生きる人々なのでありました。彼らはイザヤが示したように、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」といわれる人々であります。分かったといい、見えている、聞こえていると言っていますが、実は何も見えてないし、聞こえてもいない。真実見なければならないものを見ないからであります。聞かなければならない人の声を聞かないからであります。何よりも神様の御心を聞こうとはしないのであります。しかし、「幼子」といわれる人々は真に主イエス・キリストの御心を受け止めたのであります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われるイエス様の御声を真にいただいたのであります。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに安らぎが得られる」と教えておられます。「休ませてあげよう」と言われていますが、「わたしの軛を負いなさい」と言われています。「軛」は牛や馬の首の部分に横木を当てて、重い荷物を引かせるものです。あるいは田畑を耕すためのものです。イエス様のもとに行くことは安らぎを得るためですが、そのためには軛を負うことになるというのです。イエス様が言われる「軛」とは、「自分を愛するように、隣人を愛する」ということなのです。この軛を担って生きることにより、神の国に生きる者へと導かれるというのであります。「自分を愛するように、隣人を愛する」生き方は自分との戦いであります。十字架の贖いをしっかり見つめて生きなければ、自分との戦いに負けてしまいます。

 4

 聖霊が私たちに注がれています。今朝、私たちは礼拝に導かれ聖霊をいただきました。神様の国を生きている保証が与えられているのです。心に痛みを持たれている人がおられます。社会のいろいろな問題、重い問題を担っておられる方がおられます。家庭にあっても家族のいろいろな関わりに心を痛めておられる方がおられます。聖霊が御国に生きている保証をくださっているのです。もはや、神の国に生きる者として、イエス様の軛を負うものとして、現実を導かれているのです。この聖霊が現実のさまざまな問題、課題に勇気を持って生きるよう導いてくださっているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエス・キリストは私を招いてくださっています。自分の十字架を負うということ、苦しいようですが、祝福への道なのです。十字架を負って歩むということが大きな喜びになるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。三位一体の神様のお導きを感謝いたします。御国に生きる確信を得させてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com