説教「命の息をいただきつつ」

2013年10月27日、六浦谷間の集会
降誕節前第9主日

説教・「命の息をいただきつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記2章4-9節
    ヨハネの黙示録4章1-11節
     マルコによる福音書10章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・225「すべてのひとに」
    (説教後)讃美歌54年版・352「あめなるよろこび」


毎年、日本基督教団は10月の第三日曜日からの一週間を「信徒伝道週間」としています。大塚平安教会在任時代は、この日は教会員のどなたかに証をしていただいていました。伝道は牧師の仕事ではなく、教会員の皆さん全員が使命を担うのであります。その意義を深めるために「信徒伝道週間」と言うものを設定しているのです。それから第三日曜日からは「教育週間」が始まりました。信徒伝道週間は昨日の土曜日までですが、教育週間は本日の日曜日までです。教会教育の大切な意義を示されるのです。教育は子供達ばかりではなく、大人も教育を受けて、教会員として成熟して行かなければならないのです。しかし、やはり教育と言えば子供達の良い成長と言うことであります。その意味でも教会は幼稚園を設置しています。幼児からイエス様のお心により成長すること、そのために幼稚園を設置し、イエス様の「お友達と共に成長する」教えを与えているのです。
1979年に大塚平安教会に就任しました。そのときは40歳でした。そして教会の牧師と共にドレーパー記念幼稚園の園長として就任しました。まだ若い園長で、保護者の皆さんにとっては頼りないことでありましたが、30年間、子供たちと共に過ごして来たのです。子供達の信仰はすばらしいものであります。毎週金曜日に全園児の合同礼拝がありました。始まりの前奏のときには、胸の前で手をくみ、静かに黙祷する姿は、まさに神様に心を向けているのです。地域の保育者研修会で、ドレーパー記念幼稚園が担当幼稚園となり、公開保育をしました。保育の前半は自由遊びであり、子供たちは元気に走り回って遊びます。そして後半は教室に入って過ごします。そのとき、まず礼拝を持って始まります。先生がピアノで前奏しますと、子供たちは目を閉じて黙祷をするのです。誰も話している子供はいないのです。公開保育が終わってから、協議会があり、ドレーパー記念幼稚園の保育についての感想等が話し合われたとき、礼拝と言うものがすばらしい取り組みであると指摘されました。自由遊びから教室に入っての保育を始めたとき、まだ自由遊びの余韻が残っていて、先生が「静かにしなさい」と何回も言わなければならないということです。それに対して、こちらの幼稚園では、自由遊びから教室に入ると礼拝があり、先生が注意しなくても、一斉に沈黙して礼拝をする、これはすばらしい取り組みであると言われたのでした。神様に向かう姿勢が評価されたと思いました。
このような礼拝の姿勢は人間関係におきましても、お友達の声に耳を傾ける姿勢が養われるのです。礼拝においては神様のお心をいただくことですから、聞こうとする姿勢なのです。キリスト教教育の自然な取り組みであるのです。そして、礼拝では、いつも先生が休んでいるお友達、病気や怪我で休んでいるお友達のことをお祈りしますので、子供達もいつもお友達のことをお祈りするようになるのです。あるとき、お祈りについてお話をしました。お祈りするとき、「ケーキを下さい、かわいいお人形さんを下さい、とお祈りしましょうか」と聞きました。すると子供たちは「違いまーす」と答えるのです。そう言うのはお祈りではないと思っているのです。お祈りはお友達のことを神様にお願いすることであると思っているのです。すばらしい子供たちではありませんか。聖書のイエス様の教え、「お友達を自分と同じように愛しましょう」の示しが子供たちにしみ込んでいるということです。まさに今朝示される「命の息」をいただいているのです。改めてキリスト教教育の使命を示されています。

 今朝の旧約聖書創世記は人間創造が示されています。その前に天地創造について示されておきましょう。創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」と記されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。このような状況を誰かが見たというのではありません。創世記を書いた人が、信仰において証しているのです。このような状況をどのように描いたらよいのでしょうか。とにかく、何が何だかさっぱりわからない状況なのです。その何が何だかさっぱりわからない状況に、神様が言われるのです。「光あれ」と言われます。すると明るくなったのであります。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたと記しています。次に神様は言われます。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」というのであります。すると大空が造られ、大空の下と大空の上に水を分けられたというのであります。古代の人は大空の上に水があると考えたのであります。その大空の水が雨となって落ちてくると考えていたのであります。創世記は古代の人々の考え方が反映しています。とにかく、何が何だかさっぱりわからない状況に、神様が言を下さるのです。すると形ある、あるいは筋道が導かれるということであります。ここに天地創造の意味があるのです。この現代の社会の中に生きる私たちであります。世の中の動き、自分を取り巻く環境、つくづくと何が何だかさっぱりわからないと思うのであります。しかし、だからこそ、神様がこの状況に「言」を与え、導きを与えてくださっているのです。
 その後は草木が創造され、生き物が創造されていきます。いずれも神様の「言」によって創造されていくのであります。そして、最後に人間も造られるのであります。この創世記は1章1節から2章3節を書いている人と、2章4節以下を書いている人が異なります。最初は神様の「言」によってすべてが造られるのでありますが、今朝の聖書は神様の創造の業が示されているのであります。従って、2章4節以下から改めて天地創造について示されるのであります。「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである」と示しています。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤したと示しています。そして、人間の創造に至るのであります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり」ました。しかし、それはまだ人間ではありません。人の形を粘土で造り、その鼻に「命の息」を吹き入れられました。「人はこうして生きる者となった」のであります。「命の息」をいただいて人間として生きる者になったのであります。「命の息」はヘブル語で「ルアッハ」という言葉であります。「ルアッハ」は「霊」とも訳され、「風」とも訳されています。
預言者エゼキエルはこの「ルアッハ」について証しています。エゼキエル書2章には、エゼキエルが神様から励まされていることが記されています。「自分の足で立ちなさい」と励まされたエゼキエルは、人々が「聞き入れようと、拒もうと」神様の御心を語り続けました。その彼が、人々の立ち上がる様を目の当たりに示されるのです。それはエゼキエル書37章に記されます。彼は幻のうちに、ある谷の真ん中に降ろされました。見ると枯れた骨が谷中に散らばっていたのであります。触れれば骨がくずれてしまうほど枯れているのです。神様の導きのままにエゼキエルはこれらの枯れた骨に預言いたします。すると、骨と骨があい重なり、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆うのでした。さらにエゼキエルが預言すると、四方から霊が吹き付けたのでありました。この霊の風が「ルアッハ」であります。枯れた骨は生きかえり、「自分の足で」立ち上がったのでありました。霊の風が吹きつけ、「哀歌と、呻きと、嘆き」の人々は自分の足で立ち上がるのです。人々が「自分の足で立つ」ために、神様は教会を建て、伝道者を立てているのです。そして、教会に導きいれられた人々に聖霊を与え、福音を証しする者へと導いておられるのです。「自分の足で立ち」、社会の人々に福音を示すために、私たちも「ルアッハ」を与えられているのです。
「ルアッハ」、「風」については使徒言行録に記される聖霊降臨においても示されています。主イエス・キリストが御昇天になられ、弟子達は人前に出る力もなく、イエス様が示されたように、家の中で祈っていたのであります。すると、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」たのでありました。「すると、一同は聖霊に満たされた」のでありました。この風は「ルアッハ」であります。「命の息」なのです。「命の息」をいただくことにより、力強く立ち上がることができるのです。今、御言葉に向かう私達にも「命の息」が与えられているのです。「ルアッハ」がこのところに満たされているのです。
これが天地創造の示しです。神様は天地をお造りになったとき、神様の「言」による創造を与えられました。神様の言が基となって、すべてが存在するようになったのであります。そして、人間には「ルアッハ」が与えられ、真に生きる者へと導かれるのであります。基本は天地創造の示しであり、勝手に天地創造の示しを変えてはいけないのであります。

 天地創造の示しを人間が勝手に変えてしまうことに対する主イエス・キリストの警告が新約聖書の示しであります。マルコによる福音書10章1節以下が今朝の聖書となっています。ここには「離縁について教える」イエス様が示されています。離縁についての示しが天地創造の示しとどのように関わるのかと思います。しかし、イエス様はこの問題に対して、天地創造の初めから示されていることとして教えておられるのです。イエス様のもとへファリサイ派の人々が来て、イエス様を試そうとして尋ねています。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」との質問です。2千年前の社会ですから、男性中心の考え方でもありました。それに対して、神様の御心をいただいて律法を与えたモーセはどのように示しているかとイエス様は聞きました。すると、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。男性中心の社会ですから、離縁状を書けば離婚できるということになってしまっていたのです。それに対して、イエス様は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」と示しているのであります。天地創造の示しを与えています。人間創造において、最初に男が造られますが、そのもっとも相応しい相手が女性であることを創世記は示しているのであります。これは天地創造の示しでありました。しかし、その天地創造の示しを超えて、人間の勝手な解釈があり、離縁が横行するようになったのであります。
 現代の社会から理解しようとすると、このイエス様の教えは何となく不自然に受け止められます。離婚があり、同性愛があり、イエス様の教えは現代には合わないと思うでしょうか。主イエス・キリストは当時の男性中心の社会で、天地創造の示しを与えているのです。それは一人の人間の尊厳を示しているのであります。「命の息」をいただいた人間の尊厳を示しているのであります。自分勝手に人間関係を作り上げてはならないということであります。一人の存在を大切にするということ、それが天地創造の示しなのであります。離婚にしても、同性愛にしても、「命の息」をいただいている人間の尊厳、天地創造の示しに立つべきなのであります。

 10月31日は宗教改革記念日であります。ローマ帝国キリスト教を迫害していました。それは、ローマ皇帝は神であり、崇拝することを求めました。人々は止む無くローマ皇帝を拝むことになりますが、イエス様を信じる人々は決してローマ皇帝を拝みませんでした。そのため迫害が強くなりますが、迫害しても絶えないキリスト教信者に脅威を持つようになります。こんなに強い信仰を持つ根源は何かと思うようになるのです。人間ではなく、神様を信じること、主イエス・キリストの十字架の救いを信じること、そこに迫害にも屈しない基があることを知るようになります。そして、その強い信仰をローマ帝国の中心にすることになるのであります。ローマ法王を中心とするカトリック教会が出来上がっていきます。ヨーロッパの世界はローマカトリック教会一色になります。しかし、発展したローマカトリック教会は堕落が始まります。大きな教会を建設するために資金が必要です。資金を得るために免罪符を売り出します。その免罪符を買えば、どんな罪でも赦されるということなのです。お札を買えば善人になるのですから、人々は喜んで買うのでした。このようなことでよいのか、と疑問を持ったのがマルチン・ルターという人でした。この疑問は免罪符ばかりではなく、いろいろと示されるようになりました。このようなことは神様のお心ではないと思います。人間が考え出したことなのです。神様の創造の示しではないということです。神様の創造の示しは、「命の息」をいただく人間が、真に御心を喜ぶことなのです。人間の尊厳を大切にすること、聖書に向かう限り、いよいよ一人の人間の尊厳を示されてくるのです。新約聖書の中で、パウロという伝道者は、私達は「信仰によって義とされる」と示しました。人間の業ではなく、私達の信仰が祝福されるのです。人間は一生懸命努力して良い業を行っても、それは自分の栄誉のためであり、自己満足であります。しかし、神様を信ずること、イエス・キリストの十字架の贖いを信じること、そこからすべてが始まるのです。宗教改革者マルチン・ルターは、このパウロの示しを受け止め、人間が神様によって祝福され、「義とされるのは信仰によってのみ」であると言い直しています。神様は私達が一人の人間として生きるために、「命の息」を与えておられます。「命の息」は主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見るほどに与えられるのであります。十字架の贖いの信仰のみ、私達の歩みなのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。「命の息」を賜り、真に生きる者へと導いてくださり感謝いたします。一人の尊厳を大切にしつつ歩むことを得させてください。主の名によって祈ります。アーメン。