説教「永遠の命への道すがら」

2013年11月3日、青山教会
降誕節前第8主日

説教・「永遠の命への道すがら」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記4章1-8節
    マルコによる福音書7章14-23節
賛美・(説教前)讃美歌21・385「花彩る春を」
    (説教後)21・571「いつわりの世に」


 今朝は久しぶりに御教会の講壇に立たせていただくこと、感謝しています。こちらの青山教会には、1969年4月に伝道師として就任しまして、それから4年間、職務を担わせていただきました。40年ぶりの講壇ということになります。後ほど講演の中でもお話致しますが、神学校を卒業して、最初の教会が青山教会であり、そして正教師試験に合格し、按手礼を受けたのも、この青山教会でした。按手礼は教区総会で受けるのですが、その頃は学園紛争たけなわであり、教会にも飛び火しまして、教区総会が開催できなかったのです。そのため西南支区が教区に代わって按手礼を執行していました。
 私の42年間の現役牧師の始まりがこの青山教会であり、今は隠退しましたが、再び青山教会の講壇に立つことの導きを感謝しています。私達の三人の子供の中、上二人は青山教会時代に与えられました。上の子供、羊子はクリスマス礼拝の朝に生まれました。クリスマスの朝、礼拝前の朝の準備をしているとき、病院から電話があり、生まれたと看護婦さんが連絡してくれました。しかし、だからと言ってすぐに行くことはできず、その日はクリスマス礼拝、そして祝会があり、後片付け等をして病院に行き、子供と対面したのは夕刻でした。その思い出がいつも甦っています。そして2年後に星子が生まれました。やはりクリスマスの時期に生まれましたので、上の子は「羊の子」と書いて羊子でしたが、次は待降節であり、「星の子」と書いて星子と名付けました。その頃の宮内彰先生が、星子を紹介しながら、次に生まれる子供は「博士」でしょう、と言われたので、皆さんは笑っておられました。二人の子供は宮内彰先生から幼児洗礼を授けていただき、毎週礼拝に連れて来られながら成長しました。礼拝堂には靴のまま入りますが、私は履物を変えていました。靴は玄関の靴箱においていたのですが、私の説教中に上の子の羊子が靴を持って来るのです。すると前に座っていた方が、パパの靴はここにおいておきましょうね、と言いつつ講壇の上がり端に置いてくれるのです。子供たちは幼少時代をこの青山教会に通いつつ成長しましたので、いつか機会があったら、青山教会に行きたいとの思いを持っていました。こちらの講壇のお招きをいただいたとき、当然のように二人の子供達も出席するということでした。
 その頃の皆さんが、今は天におられることに思いを馳せています。青山教会で4年間務めさせていただいた後は宮城県の陸前古川教会に赴任しました。その宮城の教会に能勢さんご夫妻がお訪ね下さったことが忘れられません。東北に旅行されているときで、私たちを覚えてお訪ねくださり、お励まし下さったのでした。在任中は青年会の皆さんとのお交わりが今でも忘れられません。この近くにアルテリーベというレストランとか、交差点のそばに「バッタ」という喫茶店があり、皆さんと共に出かけたものです。その頃の皆さんが、今は教会を担っておられること、神様に感謝しています。
 今朝は召天者記念礼拝であります。日本基督教団は11 月の第一日曜日を「聖徒の日」、「永眠者記念日」としております。天におられる皆さんはいつも示されていますが、特にこの日、召天された皆さんを示され、信仰を持って力強く歩まれたお証を示されるのであります。やがて私達も天に召されるのですが、今は地上に生きる者として、永遠の命への道すがらであるのです。その道すがらを主の御心をいただきつつ歩みたいのであります。

 その道すがらは、イエス様が教えて下さった「互いに愛し合う」こと、それが私達の人生でなければなりません。その人生が永遠の生命への歩みなのであります。出会う人々とどう向き合うか、今朝の聖書の示しであります。旧約聖書は創世記が示されています。今朝は創世記4章に記されるアベルとカインの物語であります。
 神様によって最初に造られたアダムとエバは、神様の戒めを破り、禁断の木の実を食べてしまいます。それにより彼らはエデンの園から追放されてしまうのです。追放された彼らに神様は生きる恵みを与えておられます。すなわち、男性の存在は大地を耕してパンを得ることになります。女性の存在は子どもを産んで、子孫を残していく恵みをいただくのです。神様の配慮ある導きでありました。そして、アダムとエバに二人の子どもが与えられます。最初に生まれた子どもはカインと名付けられました。そして次に生まれた子どもをアベルと名付けたのでした。
このアベルとカインの物語は、どうもよくわからないのです。成人した彼らがそれぞれ神様にささげ物をします。大地を耕すカインは土の実りを神様にささげます。アベルは羊を飼う者であり、肥えた初子を献げたのであります。すると、神様は弟のアベルの献げ物に目を留められたのでありました。何故、カインの献げ物に神様は目を留められなかったのか、と思います。カインは収穫の中から適当にささげたと解釈する人もいます。カインは「土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた」と記されています。申命記26章2節、「あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所にいきなさい」と記されています。つまり、「土の実りを主のもとに献げ物とする」ということは、初物をささげるということなのです。従って、カインは収穫の中から適当にささげたという解釈は成り立ちません。アベルも羊の群れの中から肥えた初子をささげました。二人とも初物を献げ、初子を献げたのです。それなのに、どうしてアベルの献げ物に神様は目を留められたのでしょうか。
 カインとアベル、実は二人の名前がこの物語の意味を示しているのです。カインが生まれたとき、母親のエバは「わたしは主によって男子を得た」と言い、カインと名付けられました。カインは「得た」という意味になります。ここで「得た」と言っていますが、この言葉はヘブル語で「カーニーティ」であります。このカーニーティがカインという名になるのですが、ここにはエバの喜びの声が込められているのです。まさに喜びの子供カインでありました。それに対して、次に生まれた子どもはアベルと名付けられたのであります。「アベル」の意味は「息、はかなさ、空虚さ、無意味、無価値」という意味なのです。従って、アベルが生まれたとき、そこには喜びがなかったということであります。無意味な存在として生まれてきたのでしょうか。無価値の存在として生まれてきたのでしょうか。エバの喜びの声は何も聞こえては来ないのです。カインとアベル、この物語は人間的な判断に対する神様の判断が示されているのであります。人間的には無意味、無価値と判断されても、神様は一人の存在として、意味深く、価値ある者とされるのであります。
 二人が献げ物をしたとき、献げ物に目を留めたのではなく、存在そのものに目を注がれているのです。カインは自分の献げ物に目を留められなかったということで、激しく怒りました。もし、カインが怒らず、アベルの献げ物に神様が目を留められたということで、共に喜ぶことができたとするなら、祝福の二人でありました。しかし、カインは親の自分への誇りを背景にしていますし、アベルという存在の無意味、無価値を心に秘めていたのであります。アベルに劣るはずがないと思っていたのであります。その思いがアベルを殺すことになるのでありました。カインは自分中心に生きた、アベルは痛みを持ちつつ生きた、そこに神様の顧みがあるのであります。自分中心に生きることは神様が最もお嫌いになることであります。

 自分中心ではなく、他の存在を心から受け止めて生きることが大切であることを主イエス・キリストが教えておられます。まず、自分自身の内面を見極めなさいと示しておられるのです。今朝の新約聖書はマルコによる福音書7章14節からでありますが。7章1節以下を見ておかにければなりません。イエス様を批判し、何とかして訴える口実を作ろうとしているファリサイ派の人々、律法学者達がイエス様に批判的に尋ねたことが始まりです。イエス様の弟子達が手を洗わないで食事をしていることに対する批判でもあるのです。食事の前に手を洗うこと、それは今日でもしています。汚いばい菌を落とすためです。しかし、ここではそのような意味合いではなく、手を洗うということは、汚れたものから身を清めるという宗教的な儀式なのであります。すなわち、外を歩けば汚れた物があるのです。例えば、誰かが動物の死体を触り、触った人がその手で柱等に触れます。その柱は汚れたものになるのです。ですから、柱に誰かが触れた場合、間接的に汚れたものに触れることになるのです。だから、手を洗わないで食事をすると、汚れた物が体内に入って、その人も汚れた人になると考えられていたのです。これは神様の教えではなく、人間的な言い伝えでありました。神様の教えより、言い伝えを大事にしていたのであります。
 このような考え方に答えたのが今朝の聖書であります。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」とイエス様は教えます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」とイエス様は教えられました。群衆に対してはそれだけの教えでありますが、弟子達はその意味がわからなくてイエス様に改めて聞いています。それに対してイエス様は、「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことがわからないのか」と示しています。「汚れる」と言っていますが、宗教的な意味においの汚れであります。外から入る物、それは食べ物であります。手を洗わないで食べた場合、ばい菌により病気になることもありますが、汚れというのは、悪い人になってしまうということです。食べ物は胃袋に入るのであり、人の心の中に入るのではないとイエス様は教えています。胃袋に入って、栄養を取って、不要なものは外へ出されるのであります。
 大分前のことですが、在任していた大塚平安教会は神奈川教区湘北地区にありますが、毎年、新年礼拝を開いていました。ある新年礼拝で、ある牧師がこのイエス様の教えをテキストにして説教しました。開口一番、「新年礼拝ですから、『うん』の良いお話をします」と話し始めたのです。「うん」と言ったのは運命の「うん」ではなく、「便」のことでした。そういうことをはっきりいうものですから、説教中に一人の女性が靴音も高らかに出て行ってしまいました。そんなことを思い出しますが、明らかにイエス様はそのことを言っているのです。食べ物は胃袋に入るのであり、手を洗わないで食べたとしても、汚れた物は心には入らないのです。「すべて食べ物は清められる」とイエス様は示されています。
 問題は人の中から出てくるものこそ、人を汚すのであります。「つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」とイエス様は弟子たちに諭されたのであります。これらのことを一口に言うなら、自分中心の生き方であるということであります。自己満足、他者排除の姿であります。実は、人間は根本的にこれらの姿を持っているのです。神様はこのような人間に対して歴史を通して導いてこられました。モーセを通して十戒を与え、人間の基本的生き方を導いてこられたのであります。しかし、人間は基本的な生き方を守ることができなかったのであります。そこで、神様は主イエス・キリストを通して人間に生きる方向をお与えになりました。主イエス・キリストの十字架の贖いであります。イエス様は御自分が十字架で死んで行かれるとき、人間が持つ汚れた姿、イエス様が示したみだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、人間の自己満足と他者排除を共に滅ぼされたのであります。イエス様は私の汚れを清めてくださったのであります。洗礼を受けた私達でありますが、汚れは常に私達に挑んでおります。主イエス・キリストの聖餐をいただき、汚れから解放されて歩む私達へと導かれているのであります。

 今朝は召天者記念礼拝であり、今は天にある皆さんを心に示されます。そのことを示されながら、私達も永遠の命への道すがら、他の存在を見つめつつ生きること、イエス様が導いて下さっている「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という生き方を実践しつつ歩むことです。この「道すがら」を大切にしたいと思います。前週の火曜日でしたか、NHKテレビ「あさいち」という番組で、「遺影」について報じていました。今のうちに「遺影」を写して残しておくのです。写真屋さんが本人と語らいながら、本人の最も良いと思われる写真を写してくれるのです。私も「遺影」をと思い、いろいろと写真を見るのですが、どうもよい写真がないので、遺影となるような写真を写しておこうかと思っています。確かに葬儀の時は、にこやかな遺影を葬儀の参列者が見ることになります。そして召天された方を示されます。しかし、今、心に示されるのは葬儀の遺影ではなく、生前のその方のお証であります。力強く信仰に生きた姿です。永遠の命への道すがら、本当に心砕いてイエス様の愛の実践をされた、その足跡なのです。私達も永遠の命への道すがらを歩んでいます。十字架にお架りになったイエス様から、いよいよ示されて歩みたいのであります。
自分中心になって永遠の命から外れるのか、それとも兄弟のために命を捨てる、すなわち自分を犠牲にして兄弟を見つめ、永遠の命へと導かれるのか。互いに愛し合って、共に永遠の命へと導かれたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。永遠の命への道すがら、今朝も礼拝に導かれ感謝いたします。互いに愛し合う僕とならせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。