説教「今を導いて下さる神様」

2013年11月10日、横須賀上町教会
降誕節前第7主日

説教・「今を導いて下さる神様」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記15章12-21節
    マルコによる福音書12章18-27節
賛美・(説教前)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」
    (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」


 前週の11月3日の日曜日は、今は天におられる皆さんを覚えつつ、そしてやがて私達も天へと導かれるものとしての礼拝をささげました。前週は私が神学校を卒業して最初に赴任した青山教会のお招きをいただき、講壇に立たせていただきました。最初は伝道師として就任しましたが、その後、正教師試験に合格したので按手礼を受けることになりました。ところがその頃は学園紛争が盛んであり、教会にも問題提起の嵐が吹き荒れていたのです。そのため、教区総会が開催できない状態でした。それで西南支区が代わって按手礼を執行していました。その按手礼式も青山教会で行われましたので、私にとっては最初の教会が青山教会であり、牧師になったのも青山教会でありました。実に40年ぶりに講壇に立たせていただきました。
 11月の第一日曜日でありましたので、「永遠の命への道すがら」と題してみ言葉を取り次がせていただきました。日本基督教団は11月の第一日曜日を「聖徒の日」、「永眠者記念日」としています。しかし、青山教会は9月に召天者記念礼拝を行っていますので、その意義は薄れているのですが、「永遠の命への道すがら」は私達の日々の歩みであり、今朝はその続きであるかのように、「今を導いて下さる神様」として御言葉を示されているのであります。永遠の命への道すがら、すなわち今を導いて下さる神様を示されるのであります。今、信仰を持って生きる私達です。
 私たちキリスト者は天に国籍を持つものであります。しかし、現実はこの世に生きる者であり、この世の歩みをしている者であります。人は生まれて死を迎えるまで、その人生80年、90年と言われますが、実に様々な問題と関わりを持ちつつ生きなければなりません。喜怒哀楽交々に、社会と家庭の中にあって歩んでおります。人は何故に生まれ、そして死んでいくのでしょう。あたかも旅人のように、この世に現れて消えていくのです。何故と言うならば、神様が私たちに生命を与え、賜物を与えたのでした。そして、人はそれぞれの姿において歩みますが、賜物としての人生を主のお心により生きるならば、それが神様の栄光を現しているということなのです。私たちが主のご栄光としての人生であるとしたら、この上ない喜びであります。しかし、その人生は戦いであります。自己の内部にある欲望は、常に他者を排除しつつ生きようとするからです。さらにまた、主のお心に生きることは、対人関係においても妨げる存在があるでしょう。自己との戦い、立ちはだかる存在との戦いをするものですが、私たちを励ますのは、やがて永遠の命、天の国、ふるさとへ帰れるという平安であり、今はその道すがらであり、その道すがらの今を神様が主イエス・キリストにより導いて下さっているのです。

 神様の導きに委ねること、それが信仰であります。旧約聖書は信仰の父アブラハムを証しています。創世記15章1節以下が今朝の聖書ですが、ここではまだ「アブラム」という名前でした。「アブラハム」と名前が変るのは創世記17章においてであります。アブラムとの名は「神様は高きにいます」との意味合いであり、高きにいます神様に導かれるという意味でした。それに対して、アブラハムとの名は、「多くの者の父」と言う意味であります。アブラハム物語は創世記12章から始まります。神様はアブラハムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と御心を示しました。アブラハムはその時75歳でしたが神様の御心に従い、出発したのでありました。今朝の15章までには、飢饉のゆえにエジプトに滞在したことや、一緒に旅立った甥のロトとの別れ等がありますが、今朝の15章では神様が幻のうちにアブラハムに臨み、励ましています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と神様は言われます。すると、アブラハムは神様に尋ねます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」と言うのです。エリエゼルはアブラハムに仕える僕であります。「大いなる国民にする」との約束を信じて、旅立ったものの、サラとの間には子供が生まれませんでした。大いなる国民どころか、子供が与えられないという不満を示しているのです。それに対して、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と神様は言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるが良い。あなたの子孫はこのようになる」と言われるのです。アブラハムとサラに子供のイサクが与えられるのは、アブラハムが100歳のときでした。サラは90歳でありました。大いなる国民にするとの神様の言葉を信じて出発したのは75歳でした。それから25年間、次第に歳を重ねていくアブラハムとサラでした。しかし、15章において幻のうちに示された神様の約束をアブラハムは信じたのであります。15章6節、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記していますが、ここがアブラハムを示される大事なところなのであります。アブラハムは神様の御心を信じたのであります。現実的には老いている自分であります。しかし、神様がアブラハムを導いているのです。神様の導きに従って旅立ったのであります。その姿勢は変りません。思わず不平を述べてしまったのでありますが、改めて「あなたの子孫を天の星のようにする」と言われ、アブラハムは不可能の現実の中で、可能を信じたのであります。
 旧約聖書はこれが信仰ですよと示しているのです。人間は不可能との結論を持ちますが、神様は可能の導きなのであります。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と聖書は示しています。ヘブライ人への手紙11章には信仰の先達を記しています。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と書き始めています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召しだされると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」と記しています。その後、モーセの信仰も記しています。そして、「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手にいれ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」と信仰による祝福の歩みを記しています。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と示されています。「望んでいる事柄」とは永遠の生命を信じて、確信することです。人間は死んでしまえばそれておしまいというのではなく、なお永遠の生命があることを信じるのです。「見えない事実」とは、その永遠の生命に生きる事実をしっかりと受け止めることなのです。それがアブラハムの信仰でした。神様はこのアブラハムの信仰を義とし、祝福されたのであります。この世に生きる者は、いよいよ神様の御心をいただいて生きることなのであります。永遠の命への道すがら、その今を導いて下さる神様に委ねて歩むことなのです。
 神様は言われます。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ということです。この言葉は旧約聖書出エジプト記3章6節、15節、16節に記されています。この時、神様は奴隷に苦しむ聖書の人々をエジプトから救済するために、モーセを選ばれました。最初に神様が声をかけたとき、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と御自分の存在を示しました。あなたはエジプトで苦しむ人々を救済しなさい、との使命を与えられたとき、モーセは戸惑います。奴隷の人々に神様をどのように示すかということです。すると、神様は御自分の自己紹介をされました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言うのです。「わたしはある」という方がモーセを奴隷の人々のもとに遣わすというのです。アブラハムを導いた神様は、次の族長イサクを導き、そしてヤコブを導いたのであります。アブラハムだけの神様ではなく、歴史を通して導く神様でありました。その歴史を導く神様が、今の私達の神様として導いておられるのです。今を生きるこの私を導くのが神様であります。

 主イエス・キリストのもとにサドカイ派といわれる人々がやってきました。当時の社会ではファリサイ派とかサドカイ派とか、ユダヤ教の中でも分かれていました。サドカイ派の人々は復活ということはないと主張しています。サドカイ派の人々が質問しました。「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」との掟は旧約聖書申命記25章5節以下に記されています。これは「家名の存続」という課題があるからです。その家の名を絶やさないために、子供をもうけて家の名を続けさせるものでした。弟が兄嫁と結婚します。それによってこの家の名前が続くとされるのです。それで、サドカイ派の人々は極端な例を言いました。つまり7人兄弟であり、兄が死んだので、次男が結婚しますが、子供ができないまま死んでしまいます。7人の兄弟が、一人の女性と結婚しますが、みな死んでしまい、この女性も死んでしまいます。問題はそのところですが、この女性は天国では誰の妻なのかということなのです。この思いは現代においても考えられることです。生きているときの家族はそのまま天国においても家族と思うのは当たり前のことであります。「天国にいるお父さん」、「天国にいる愛する人」の思いは、愛する人が天国で私を見守っているということです。そのように思うことは当然のことです。
 ところがイエス様は不思議なことを言われるのです。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」とイエス様は言われています。死んで復活したら天使になり、家族という絆がなくなるといわれると、何か寂しい思いがいたします。この世の家族は天国でも家族と思うのは素朴な思いです。しかし、イエス様の示されていることは、生きている今の私たちへの示しなのです。死んで天の国に生きる者は、生きているとき神様の御心をいただいて懸命に生きたのですから、もはや神様の導きはいらないのです、行き着くべきところにいるからです。必要なのは生きている今の私なのです。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と示されています。その生きる姿が神の国に生きる者なのです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、あなたの神様が、今を生きることにおいて神の国に導いておられるのです。だから神様は主イエス・キリストをこの世に生まれせしめ、神様の御心を示し、人間がどうしても自己満足や他者排除を続けるので、イエス様を十字架によって死なしめ、人間の罪なる姿を滅ぼされたのであります。十字架を仰ぎ見ることにより、私たちは神の国に生きる者へと導かれるのであります
 2010年3月に大塚平安教会を退任しました。その後4月からは横浜本牧教会の代務者に就任しました。4月に代務者に就任してまもなくのことですが、婦人教会員のお連れ合いが癌を宣告され、余命いくばくもないので訪問していただきたいと役員の方からお話され、さっそく訪問いたしました。ご本人も宣告を受け止めておられ、余命半年であると言われるのです。奥さんは教会員でもあり、二人のお子さんは幼児洗礼を受けておられます。そう言うこともあり、礼拝には時々出席されていたようであります。クリスマスとか特別集会には出席されていたのでした。会社においても責任ある職務を持たれていたので、礼拝にはあまり出席出来ないようでした。余命いくばくもないという宣告を受けたとき、はっきりと神様を見つめるようになったのです。そして洗礼を受けてクリスチャンとして終わりたいと願うようになりました。それで5月23日のペンテコステ礼拝で洗礼を受けたのです。そして8月22日に45歳で召天されました。召天される日は日曜日でありましたので、礼拝後に病院を寄りました。その時、「すべてをイエス様にお任せできますように」とお祈りしました。お祈りが終わると、がくんとベッドに沈むようでした。力が抜けと申しましようか、神様におゆだねした姿でありました。今を導くイエス様に委ねたとき、全身の力が抜け、そして天に召されて行ったのであります。
 イエス・キリストが永遠の命への道すがらを十字架の贖いにより導いて下さっているのです。永遠の命への道すがら、今を導くのはイエス様の十字架の贖いなのです。今朝は西尾弥生さんが洗礼を受けられます。洗礼を受けるということは、イエス様の十字架の贖いを信じて生きるということであり、原罪を持つ私たちですが、自己満足、他者排除を滅ぼしてくださるイエス様に委ねて生きる者へと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。今、私達が生きている者として導いてくださることを感謝します。神様のお導きを確信しつつ歩む者へとさせてください。主によってお願い致します。アーメン。