説教「信仰による忍耐」

2013年11月17日、六浦谷間の集会
降誕節前第6主日

説教・「信仰による忍耐」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記6章2-13節
    ヘブライ人への手紙11章23-31節
     マルコによる福音書13章3-13節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・171「なおしばしの」、
    (説教後)讃美歌54年版・398「わがなみだ」


 スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子が、去る11月1日に帰国し、14日にバルセロナにもどりました。青山教会、ドレーパー記念幼稚園、横須賀上町教会、三崎教会、老人ホーム等で演奏会を行い、皆さんに喜ばれた次第です。今回の帰国は7月頃から予定されることになりました。私が神学校を卒業して最初の教会が青山教会でしたが、その青山教会が11月3日の礼拝の説教を依頼されてきました。青山教会時代に長女の羊子や次女の星子が生まれておりますので、子供達も懐かしさがありました。羊子はかねがね青山教会でコンサートを開きたいとの希望を持っていました。私がお招きをいただきましたので、礼拝後には演奏の機会をいただいた次第です。帰国に合わせて他の場所でもコンサートを開かせていただいたのです。今までコンサート開催の思い、準備等に集中していましたが、前週14日に羊子はバルセロナにもどりましたので、なんとなく安堵した次第です。それと共に過ぎ去った日々を思いますと、本当に月日が経つのは早いものただと思います。この一年を思い返しても、昨年の9月10日から11月4日までの約二ヶ月間、私共夫婦は娘がいるスペイン・バルセロナに行ってまいりました。そして今年は3月13日から6月4日までの三ヶ月間、マレーシア・クアラルンプール日本語集会の牧師として過ごしてまいりました。いずれもその日を待ちつつ過ごし、そしてその日が訪れると瞬く間に過ぎてしまい、今では楽しい思い出として残っています。
 過ぎ去ってしまった年月は、常に早いものだと思いますが、その時は祈りつつ歩み、出会いの人々と共に歩んでいたのです。私は74歳にもなりましたが、この年になると、常に召される時を心に示されながら歩むようになります。いわば終わりの時です。終わりの時を常に心に示されながら歩むことを示しているのが聖書です。ですから、終わりを示されつつ歩むのは、何も老人に限らず、若い人々も心に示されながら歩まなければならないのです。今朝は教会の暦においても終末を示される聖書の教えなのです。日本基督教団の教会暦は「降誕節主日」となっていますが、他の教会暦では「終末前主日」としています。そして次週の11月24日が「終末主日」であり、12月1日が「降誕節第一主日」になります。すなわち、降誕節になりますと新しい教会暦になるのです。キリスト教の歩みは今週と次週を持って一年の暦が終わるということです。その意味で「終末」を示しているのが今朝の聖書であります。
キリスト教の暦の上でありますが、世の終わりを示されるときなのであります。終末はいろいろな意味として示されます。一つは世の始まり、天地創造の始まりがあったのだから、天地の終わりがあると考えられるのであります。それがいつであるかはわかりません。終末は天地が次第に滅んでいくと考えている人もあります。地球温暖化が進み、次第に滅んでいくということです。しかし、ある日突然、天地が崩壊するとも考えられています。聖書的には、神様が終末を与えるということであります。主イエス・キリストが再びお出でになり、人間の一人ひとりの生き方を問い、審判を与えるのであります。その日、その時はわかりません。何万年、何億年先のことかも知れません。しかし、明日のことかも知れません。その日その時がわからないので、いつ終末が来てもよいように、今のとき、目を覚まして歩みなさいと教えているのが主イエス・キリストであります。

 終末を心に留めつつ歩むということ、信仰に生きる姿であります。しかし、人生は喜びもありますが、苦難に生きることもあります。その苦難にあっても信仰による忍耐を持って生きることが私達の人生であります。そのためにも信仰の人生をいよいよ導かれたいのであります。信仰に生きる示しは前週においても示されました。終末に向かうとき、聖書はアブラハムモーセの信仰を示します。前週はアブラハムの信仰を示されました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙が示していますが、アブラハムがまさにその信仰をもって生きたのであります。見えない事実でありますが、生きている者の神様は、見えない事実を確実に与えてくださるのであります。今朝はモーセの信仰です。アブラハムは黙々と神様に従う姿勢がありました。それに対して、モーセは常に神様の御心を求めて歩んだのであります。
 出エジプト記6章2節以下は、神様がモーセに使命を与えています。この使命については、既に出エジプト記3章で示されています。3章ではモーセに召命が与えられます。召命とは「命を召す」と書きますから、神様の御用のために召しだされるという意味です。モーセに召命が与えられ、その働きの内容、すなわちエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を救いだすことを示されたとき、モーセは躊躇するのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」とモーセは神様に言うのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と神様は力付けてくれるのですが、それでもモーセは拒みながら言うのです。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と応えるべきでしょうか」と言うのでした。その時、神様は御自分の自己紹介をいたします。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたがたに遣わされたのだ」と言われたのです。この後、神様は聖書の人々がエジプトで奴隷としてどんなにか苦しんでいるかを示します。だから神様はモーセを選んでエジプトに遣わすことを、モーセに懇々と諭すのであります。ところが、それでもモーセは躊躇するのです。モーセは神様に逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのでした。そこで、神様は共におられる証拠を示すのです。まず、モーセが持っている杖を地面に投げさせます。すると杖は蛇になりました。更に、神様はモーセの手を懐に入れさせます。懐から手を出すと、手は重い皮膚病になっているのです。再び手を懐に入れると、元の手になるのでした。これらの奇跡は神様がモーセと共にいる証拠なのです。このようにして、神様の力がモーセに与えられていることを示されるのですが、モーセはそれでも躊躇しています。
 4章10節、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つほうではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言うのでした。それに対して、神様は「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている」と言われ、アロンがモーセに代わって語ることを示すのでした。モーセはようやく神様の召命に応えました。神様のお言葉をいただいてすぐに従ったアブラハムとはまったく反対のモーセなのです。弱さを神様に投げかけていくこと。これがモーセの信仰なのです。この後もモーセはことごとく問題を神様に投げかけます。そして、御心をいただいては一歩前進していくのであります。
 モーセは神様から使命を果たすため、アロンと共にエジプトの王様ファラオのもとに出かけ、イスラエルの奴隷の人々を解放するように交渉します。エジプトにとって奴隷がいなくなることは大きな痛手であります。ファラオはそんなことを言ってきたことに対して、今まで以上の重い労働を奴隷の人々に課すのでした。それで奴隷の代表がファラオに労働が重すぎることを訴えるのですが、ファラオは聞こうとしません。そのため奴隷の人々もモーセを恨むようになります。それで、モーセは神様に弱音を吐くのです。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いを下されるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとしません」と神様に言うのです。その訴えに答えたのが今朝の聖書、出エジプト記6章2節からであります。神様は改めてモーセの使命を言い渡します。モーセが奴隷の人々を解放すること、新しい土地へと導くこと、神様の民として生きること、その使命を実行するのがモーセであることを示すのでした。この後も、モーセは常に神様に弱音を述べながら、神様の使命に応えていくのであります。
 モーセは神様のお力によって、エジプトの人々に終末、審判を与えます。そして、神様の御心に従う聖書の人々が新しい神の国へと導かれていくのであります。絶えず御心を求めての旅路でありますが、神の国、新しい土地、乳と蜜の流れる土地へと導かれていくのであります。モーセの信仰なのです。今朝の聖書、ヘブライ人への手紙11章23節以下はモーセの信仰の証を記しています。24節、「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」とモーセの信仰を示しています。目に見えない方の導きを信じてファラオと戦い、奴隷の人々を約束の地へと導いて行ったのでありました。
 終末を覚える礼拝において、私たちはアブラハムモーセの信仰を示されました。私たちはこの二人のどちらかの姿を持っています。神様の導きを信じて、黙々と御心に従うアブラハムの生き方です。御心をいただき、なかなか従い得ないで、神様に自分の思いを投げかけ、自分の弱さを神様に申し上げながら御心に従うモーセの生き方です。この二人の信仰をわたし達も持ちながら終末に向けて歩んでいるのです。

 その終末を主イエス・キリストは厳しく示します。マルコによる福音書13章3節以下に終末が示されます。イエス様と弟子達が神殿の境内を出て行くとき、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と言います。それに対してイエス様は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたのです。これは神殿の崩壊を述べているのです。それに対して弟子達は、そのようなことがいつ起こるのか、またどんな徴があるのかと聞くのでした。それに対してイエス様が終末の出来事をお話されたのであります。
 「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗るものが大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と言われています。「わたしがそれだ」というのは、「わたしが救い主だ」という者が多く出てくるというのです。戦争や地震、飢饉が起きると、終末ではないかと思う。これらはまだ終末ではないと言います。また、イエス様を信じるゆえに迫害を受けることになります。しかし、聖霊の導きがあるから、信仰により生きなさいと教えています。さらに家族においてもいがみ合わなければならなくなります。最も悲しいことであります。それらの悲しみ、苦しみを経験することにより終末の到来を思うことになるのです。しかし、終末の予告的なことであるかもしれませんが、終末ではないと言います。大切なのは「最後まで耐え忍ぶ者」であり、その者が「救われる」のであると示しています。終末の徴として、現実の悲しみ、苦しみを示しています。どのような状況に置かれようとも、信仰によって生きるならば、「最後まで耐え忍ぶならば救われる」のであります。この「最後まで」のときが終末であります。今、どんなに苦しくても、悲しくても、まだ終末ではない。「最後」のときが終末なのです。従って、私たちの日々の歩みを信仰によって生きること、そこに真の救いがあることを教えているのであります。置かれている状況において、御心に従いつつ歩みたいのであります。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩むことであります。

 苦難と言われますが、今は自然災害の苦難に生きる多くの皆さんがおられます。東日本大震災の苦難はまだまだ続いています。多くの人々が犠牲になり、愛する者を失った悲しみが続いています。帰る家がありません。福島原発事故が重なり、放射能の危険地域になり、住みなれた家を後にしている人々です。これらの地域の人々の中にキリスト教の信仰を持っておられる人々もあります。今まで教会に集まり、礼拝をささげていたのに、その礼拝の場がありません。以前、大塚平安教会出身の牧師が浪江町にある教会に赴任しました。信徒も少ないのでありますが、ご夫婦で伝道されていたのです。それで大塚平安教会としても応援しましょうということで、第一回目はワークキャラバンとして数人の若者と共に訪れ、教会のペンキ塗り、草むしり等を行いました。翌年にはワークと共に聖歌の集いを各地で開催しました。いくつかの教会で伝道集会を開いたのでした。その浪江教会は跡かたもなく流されています。大塚平安教会出身の牧師は大分前に隠退していますので、災害には遭いませんでした。このような苦難の中におられる皆さんですが、皆さんの信仰が忍耐を増し加えていると示されています。苦しい現実の中で、祈りつつ歩まれている皆さんです。私達も忍耐を持って支え、祈りを深めたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。終末信仰を持ち、忍耐を持って歩むことができ感謝致します。御国を来たらせたまえと祈りつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。