説教「実を結ぶ人生」

2022年5月15日、六浦谷間の集会

「復活節第5主日

                      

説教・「実を結ぶ人生」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記19章1-6節

   ペトロの手紙<一>2章1-10節

   ヨハネによる福音書15章1-10節

賛美・(説教前)讃美歌21・333「主の復活、ハレルヤ」

   (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」

 

 今朝は「実を結ぶ人生」との説教題ですが、別の言葉で示されるならば「祝福の人生」ということになります。与えられた人生が、喜びが与えられていることを示される人生であるということです。教会は主イエス・キリストを中心として信仰が導かれ、教会員の交わりが深められながら、皆さんの歩みが導かれるのです。しかし、人によっては教会の歩みに疑問を持つ方もおられ、教会から離れてしまう場合もあります。大塚平安教会に在任中、二人の方が別の教会に行くようになりました。東京のある教会に行かれるようになりました。お二人が言われるには、教会に出席しても、なんとなく礼拝がささげられており、出席してもピリッとしないと言う訳です。魂が揺さぶられるような礼拝に出席したいと言われるのです。出席されるようになった教会は、彼らが希望するような教会であったようです。お祈りによって病気を癒すことまで行われているようです。しかし、その後、二人はいずれも戻ってきました。東京の教会まで2時間も要するので、礼拝に出席するにも大変であったようです。二人とも、私より年齢が上であり、高齢になって遠い教会に出席するのは困難になったようです。その頃、いよいよ私も70歳になるので、一年後には退任することになったのです。そしたら彼らが帰ってきたのでした。役員会は、出たり入ったりする理由をはっきり聞きたいというのですが、帰ってきたことは喜ばしいことですから、そのまま受け入れたのでした。私の個人的な思いは、私が退任することになったので帰ってきたのかな、と思っているのですが、教会に繋がっていることは喜ばしいことですから、彼らを迎えたのでした。その後、彼らは近くの大塚平安教会の礼拝に出席しながら歩んでいるのですから喜ばしいことです。どのような形になりましょうとも、教会に繋がっていること、そこに祝福があるのです。その生き方が「実を結ぶ人生」としての歩みなのです。

 今朝は私達の現実に神様の愛が注がれていることを示されるのです。言うまでもなく、私達にとって、「神様の愛」とは神様の御心をいただくことであります。主イエス・キリストの十字架の救いをいただくことが私達の「神様の愛」なのであります。聖書は全体を通してこの神様の愛を示しているのであります。旧約聖書出エジプト記19章であります。聖書の人々はエジプトという国に400年間も寄留していました。最初は寄留でしたが奴隷とされ、過酷な労役を課せられるようになったのであります。その苦しみを神様はモーセという指導者を立てて救い出したのでした。

 そして、今朝の聖書に至ります。19章1節以下、「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」のであります。そこで天幕を張り、宿営することになります。このシナイ山の麓で、モーセは神様の召しをいただき、エジプトで苦しむ人々を解放する役目をいただいたのであります。最初は躊躇しますが、神様の強い励ましをいただき、召しに応えたのでありました。そして、解放された人々をシナイ山の麓に導き、モーセシナイ山に登っていきます。今、神様のご使命を果たし、このところに連れ戻った報告をするためでもあります。そのシナイ山で神様はモーセにお語りになるのであります。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなた達は見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを」と救いの事実と経過を示しております。今いる事実は、神様の導きの賜物であること、聖書の人々は常にそこに原点を持ちます。救われた事実を繰り返し朗唱すること、すなわち信仰告白をするのであります。その信仰告白申命記が記しています。「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」と信仰告白をするのであります。聖書の人々は常に信仰告白をしました。それが人々の生きる祝福であります。信仰告白をすることは私の祝福は神様の導きであり、主イエス・キリストの十字架の救いにより生かされていることを確認することなのであります。神様の愛にとどまるということであります。

 私達がいつも信仰告白をしつつ力強い人生を歩むようにと、イエス様が示されています。ヨハネによる福音書15章はイエス様がぶどうの木として私達をお導きになっておられます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と示されています。イエス様はぶどうの木であり、私達はその枝であると示しているのであります。主イエス・キリストはご自身をぶどうの木にたとえられました。そして、あなた方はぶどうの木につながる枝であるとしているのであります。枝はぶどうの木から栄養をいただき、それによりおいしいぶどうの実を生むのであります。もし、酸っぱいぶどうであるならば、それはぶどうの木にしっかりとつながっていないからなのであります。ぶどうの木につながる枝でありますが、ぶどうが実らないこともあります。それは木につながっている枝のように見えますが、実はつながっていない状態なのであります。枝の根本に虫食いがあり、十分につながっていないのです。当然栄養がいきません。実らないのであります。しかし、多くの場合、枝はぶどうの木につながっているのでありますから、みな良いぶどうを実らせることになります。これは自然の成り行きです。イエス様は枝に御心を与えているのであります。枝であるあなたはイエス様のぶどうの木につながるか、との問いであります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と示されています。

 イエス様は、「自分を愛するように隣人を愛する」ことは掟であると示されました。今朝の聖書はヨハネによる福音書15章1節から10節でありますが、その後の12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と示しているのであります。イエス様のぶどうの木につながる枝は、イエス様の掟を守ることであると示されているのであります。しかし、今朝の示しは、私を生かす祝福として示されています。旧約聖書で示されましたように、私が今いる状況は神様のお導きであり、主イエス・キリストの十字架の救いによるものであるということ、その私自身の信仰告白をすることなのであります。聖書の人々が今に至る神様の導きを告白したように、私達もイエス様のぶどうの木につながるに至る導き、信仰の告白をしなければならないのであります。神様は私達に対して忍耐を持って関わり、導いておられるのであります。

 もう9年前になりますが、2013年3月13日から6月4日までマレーシア・クアラルンプール日本人キリスト者集会のボランティア牧師として赴いてまいりました。マレーシアの教会は2012年3月までは専任牧師がおられました。しかし、高齢になられて退任されたのです。すぐには後任が決まりませんので、日本基督教団の隠退牧師が応援することになりました。パスポートの許容滞在期間の三ヶ月ずつ、隠退牧師が務めることになったのです。私は2013年の3月から三ヶ月間、五番目の牧師として連れ合いと共に赴きました。三ヶ月間でしたが、教会の皆さんとのお交わりが深められ、感謝しています。2014年4月からは専任の牧師が就任しました。もう入れ替わりの牧師でなく、皆さんはほっとされたのではないでしょうか。それにしても教会の皆さんは三ヶ月毎に牧師が変わるので、なんとなく落ち着かなかったのではないでしょうか。しかし、皆さんは順次赴任する牧師と共に、よく歩んでくださいました。皆さんのお世話をいただきながら、ボランティア牧師を務めさせていただいたのです。クアラルンプール日本人キリスト者集会の皆さんは、その集会、その教会にしっかりと結びついて信仰生活をされているのです。

 教会の皆さんは半永住的にマレーシアに住んでおられる方、そして、会社から派遣されておられる方々です。派遣されておられる方は、いずれは日本に帰国されるのですが、今はマレーシアに住んでいるのであり、原点を教会において歩んでおられるのです。神様の愛にとどまりながら歩まれている証しを示されたのです。神様の愛にとどまりつつ歩むこと、教会に繋がりながら歩むことが、神様の愛にとどまることなのです。

 主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、イエス様の救いをしっかりと見つめながら歩むことが、「実を結ぶ人生」の歩みであると示されました。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様のぶどうの木につながるお導きを感謝いたします。実を結ぶ人生を歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

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