説教「信仰の人生」

2021年10月3日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第20主日」              

                      

説教・「信仰の人生」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨシュア記6章1-5節

   ヘブライ人への手紙11章17-22節

   マタイによる福音書21章28-32節

賛美・(説教前)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」

   (説教後)讃美歌21・375「賜物と歌を」

 

 日本基督教団は日曜日の礼拝でいろいろな課題を祈りつつ礼拝をささげせています。本日の10月の第一日曜日は「世界聖餐日」としての礼拝であります。世界の人々が共に聖餐に与ります。主の聖餐が世界の平和の基となります。エフェソの信徒への手紙2章15節、「キリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と示されています。十字架を仰ぎ見る、世界の平和の基があるのです。主を記念とする聖餐をいただくことにより、主の御心を与えられ、新しい歩みへと導かれるのです。

今朝は「世界聖餐日」と共に「世界宣教の日」として示されています。世界の人々へ主の福音を宣べ伝える使命を与えられているのです。2006年に開催された日本基督教団の第35回総会で、それまでは「世界宣教協力委員会」との名称でありましたが、「世界宣教委員会」と変更されました。2006年まで日本と北米六教団が協力して日本の宣教を担ってきました。その日北米宣教協力会(JNAC)が解散となりました。今までは協力のもとに宣教師を迎え、また派遣してきましたが、日本基督教団が主体的に宣教師を迎え、派遣することになったのです。現在、日本基督教団には外国からは約80名の宣教師が日本の伝道を担っています。日本基督教団からは世界の各地に約30名の宣教師を派遣しています。世界の人々が主の聖餐をいただくために、世界の宣教を祈らなければなりません。

 今朝は世界の宣教を示されていますが、主日礼拝としての主題は「信仰による生涯」であります。信仰の生涯を導かれ、祝福のうちに歩みたいのであります。キリストの示された歩みへと導かれたいのであります。

 旧約聖書ヨシュア記から示されます。今朝の聖書はイスラエルの人々が奴隷の国エジプトから脱出して、神様の導きである「乳と蜜の流れる土地」カナンに向かっている時であります。エジプトを脱出したイスラエル民族はモーセに導かれて荒野をさまよいつつ、約束の地へと向かったのです。いよいよ約束の土地を目の前にしたとき、モーセの役目は終わります。そして、後継者ヨシュアに引き継がれるのです。ヨシュアに率いられて、約束の土地へと目指すにはエリコと言う町を通らなければならないのです。しかし、エリコの町は城門を閉ざして、イスラエルの人々を通すことを拒んでいます。それで行き詰っているわけですが、神様の導きを与えられるのです。すなわち、毎日エリコの町の周辺をイスラエルの人々が一周するということです。七日間、毎日一周し、七日目には七周しなさいと言うことであり、終わった時には鬨の声を上げると言うことです。毎日、町の周りを多くの人々が歩き、最後は七周もして鬨の声を上げると、城壁の石垣は緩んでいるので、何所かは崩れ去ると言うわけです。そして、そこから突入してエリコを占領するということなのです。昔のことですから、また約束の土地へと導かれていくので、その障害になることは排除しなければならないのです。

 ここで先ほども示されましたが、この聖書から「信仰の生涯」が示されるのかと言うことです。ここの聖書の記述だけでは示されないのですが、ヨシュアの信仰を示しているのです。神様の御心に従うヨシュアの信仰を示しているのです。モーセに導かれて約束の土地カナンに近づいたとき、モーセはカナンの土地を調べるために12人の斥候を派遣します。その中にヨシュアもいました。12人の斥候は40日間、カナンの土地を調べて帰ってきました。そして報告したことは、カナンの土地は確かに「乳と蜜の流れる土地」であり、酪農に適し、果樹の栽培も豊かであると言い、実際に果物を携えて帰ってきました。ところが10人の斥候は、カナンの土地には巨人のような人がいて、住民も強い人ばかりであるから、入って行かない方が良いと報告するのです。それを聞いた人々は不安を感じ、カナンの土地に入って行くのを嫌がるようになるのです。ところがヨシュアとカレブと言う人は、カナンは神様の約束の土地であり、この土地へと導いてくれたのであるから、勇気を持ってカナンに入って行くべきであるとモーセに進言し、人々を説得するのです。モーセはこの二人の助言を受け止め、カナンへと向かった経緯があります。モーセの後継者として人々の指導者になったヨシュアは、絶えず神様の御心を求めてイスラエルの人々を導いたのでした。

 カナンの土地に入ったイスラエルの人々はそれぞれの土地が与えられ、そこで生きることになります。それに先立ち、ヨシュアは 人々を集めて、今後の生き方、信仰の生涯について求めています。「あなたたちは主を畏れ、真心を込め、真実をもって神に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし、主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいるアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」と、自分の「信仰の生涯」を明言するのです。「わたしとわたしの家は神様を信じて生きる」と宣言し、今までも神様のお導きによって生きてきたのであるから、これからも神様に委ねて生きてゆくと証ししているのです。

 自分の人生は神様の御心によって生きる、と宣言したヨシュアですが、宣言した通りにその後の人生を生きたということです。イエス・キリストもまた信仰の生涯を導いています。そのことで一つのたとえ話をしています。ある人に二人の息子がいます。ある日のこと、二人の息子の兄に対してぶどう園で働くようにと言いました。ところが兄は「いやです」と断るのです。しかし、後で考え直して、ぶどう園に行き働いたのでした。今度は弟にぶどう園で働くように言います。弟は「お父さん、承知しました」と良い返事をします。ところがこの弟はぶどう園には行かなかったというのです。「ぶどう園で働く」と言うことは、神様の御心をいただいて信仰に生きることを示しています。問題は兄と弟の存在です。イエス様は当時の社会で、神様の御心に厳格に生きている律法学者やファリサイ派の人々と、徴税人や罪人と称される人々を示してはお話されています。人々の模範のような律法学者は神様に祝福されないと示し、むしろ自分を空しくして神様の御心をいただこうとしている徴税人や罪人こそ神様に祝福されると示しているのです。そのような観点から、このたとえ話を示されるとすれば、兄の存在は徴税人や罪人になります。この人たちは社会の片隅に追いやられているのです。だから、御心を示されても、すぐには自分の生活の中に入ってこないのです。しかし、考えてみて、神様はこんな自分にも御心を与えてくださっているのだ、と思うようになるのです。それでぶどう園に行って働くようになるのです。信仰の生涯へと導かれるのです。それに対して弟は、神様の御心をすぐに受け止めようとします。「承知しました」と答えます。御心に生きることが神様の祝福であることを知っているからです。しかし、ぶどう園に行かなかった。彼は神様の御心を知っているのです。実際、それを守って生きているのです。それが律法学者でありファリサイ派の人々なのです。そんなことは分かっている、もうずっと律法、すなわち神様の教えを守って生きているのです。ぶどう園で働くこと、いまさらそんなことを言われなくても分かっているというわけです。

 イエス様は、神様の御心を示され、実践的に歩むことを導いているのであり、神様の御心を知ってるだけではいけませんと示しているのです。

 旧約聖書の示しで、ヨシュアの信仰を示されました。人々を前にして、「わたしとわたしの家は主に仕えます」と証ししたのでした。この証しは、私達に強く示しを与えています。私の家族は、教会が自分の家でした。大塚平安教会に招かれましたが、牧師館は教会の中にあり、そこで子供たちは成長し、それぞれ成長して、それぞれの歩みをするようになりました。この子供たちは、教会で成長したことを喜びつつ歩んでいます。2010年3月に退任しましたが、11月より「六浦谷間の集会」として夫婦で礼拝をささげるようになっていますが、子供たちも共に出席しています。また、今でも三崎教会の礼拝説教をさせていただいていますが、いつも子供たちも一緒に出席しています。「わたしとわたしの家は主に仕えます」と証していますが、子供たちも喜んで信仰の歩みを過ごしていると示されています。信仰の生涯を目ざして歩むことを祈っているのです。祝福の人生であるからです。主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ歩むこと、信仰の生涯なのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを感謝致します。十字架を仰ぎ見て歩む者へとお導き下さい。イエス・キリストの御名によって。アーメン。

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