説教「力を与えられて生きる」

2020年8月16日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第12主日

 

説教、「力を与えられて生きる」 鈴木伸治牧師

聖書、士師記6章36-40節

   ヨハネの手紙(一)5章1-5節

   ヨハネによる福音書7章1-9節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・240「とざせる門を」

   (説教後)讃美歌54年版・514「よわきものよ」

 

 8月の暑い日々を過ごしています。本日も六浦谷間の集会としての礼拝をささげることができて感謝しています。しかし、8月の歩みをしながらも、何となく物足りない思いがないではありません。2010年3月に大塚平安教会を退任し、その4月から9月までは横浜本牧教会の代務者を担っていました。その翌年の8月を迎えたとき、いくつかの教会からお招きをいただきました。それぞれの教会は、8月は牧師にお休みを取っていただくため、他の牧師をお招きして礼拝をささげるものです。ですから私も教会を退任してからは、毎年8月になると、いくつかの教会からお招きをいただいていたのです。今年も8月23日には三崎教会に招かれています。しかし、三崎教会の場合は、牧師の休暇のためではなく、今の体制でお招きをいただいているのです。今、述べようとしていることは、最近は、どこの教会からもお招きがないということなのです。私が80歳を過ぎているので、配慮してお招きには至らないのでしょう。そういう意味では、高齢になるとき、何となく寂しさがあるのです。しかし、現役を退任してからも六浦谷間の集会として礼拝をささげることができており、それだけで感謝と言うほかはありません。家族と共に礼拝をささげる喜びを与えられているのです。

 この説教で、最近は他教会における説教の御用をすることがないにしても、六浦谷間の集会として礼拝をささげていること意義を示されているのです。先日、ある方から、今に至るまで御言葉を取り次ぐバイタリティーを示されました、とのメールをいただいたからです。現役を隠退しているのに、いまだに御言葉を取り次いでいることに驚かれているようです。私自身も隠退しているのに、毎週のように説教を作成し、六浦谷間の集会の礼拝で語り、それをブログで公開しているのですから、神様の御力をいただいていると示されているのです。どこの教会からもお招きをいただかなくても、毎週、六浦谷間集会で礼拝をささげていますので、御言葉に向かい、説教を作成することは、終わりがないと示されています。いつもは連れ合いのスミさんと二人で礼拝をささげています。そのスミさんが手術して入院することがありました。日曜日になり礼拝を捧げるのですが、スミさんがいないので一人で礼拝を捧げることになります。しかし、我が家の子供たちが都合をつけて出席したのです。この年になっても御言葉に仕えることができること、「いつも力が与えられ」ていることを示されているのです。私の証しとしてお話しをしましたが、神様はいつも力を与えてくださっているのですから、勝利の道を踏みしめて歩みたいのであります。ヨハネの手紙には、「世に勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」と示されています。世の勝利者として歩むことを示されているのであります。

2.

 旧約聖書士師記はギデオンの信仰の勝利を示しています。士師記は一時的、地域的に登場した強い人、士師たちの信仰を記すものです。奴隷の国エジプトから脱出し、神様の導きのもとに、「乳と蜜」の流れる土地カナンに到着しました。「乳」とは酪農が盛んであることです。牛や羊を飼い、バターやチーズ、牛乳等を得る人々を酪農家と言いますが、「乳」と称しています。「蜜」とは植物から得られる甘い食べ物ですが、「蜜」が流れるほど豊かな土地を意味しているのです。今まで人々を導き、指導してきたモーセは、約束の地カナン、「乳と密」の土地を前にして使命を終えたのでした。モーセの後継者はヨシュアでした。若きヨシュアモーセの後を継いで約束の地カナンに侵入していったのであります。神様はモーセにカナン侵入にあたり、土地の人々を皆殺しにすることを命じます。カナンに入るまで、モーセは神様の命令通りにします。その後、ヨシュアに引き継がれたとき、ヨシュアは無益な殺生はしない方針を取り、必要な土地を得たとき、その後は戦いをしませんでした。従って、その土地にいた人々が生き残ることになるのです。神様がモーセにカナンの土地に侵入したら皆殺しにせよと命じたことが、ヨシュアによって証明されることになるのです。すなわち生き残った人々が力を増し、聖書の人々に立ち向かってくるようになるのです。さらに、カナンの宗教、偶像礼拝の風習が、ただ神様のみを礼拝する聖書の人々に影響していくのでありました。皆殺しにしなければ、力を増して立ち向かってくるでしょうし、偶像崇拝になじんでいくのであります。

 士師記ヨシュアの後の時代になります。地域的にカナンの人々が聖書の人々に立ち向かってきています。そして、偶像崇拝が広がりつつありました。そういう中で立てられたのが士師、救助者といわれる人々でした。オトニエル、左利きのエフド、女預言者デボラ、そしてギデオンになります。その後、エフタ、サムソン等の士師が神様によって立てられ、聖書の人々を救済するのでした。

 ギデオン物語は士師記6章から始まります。冒頭に、イスラエルの人々が神様の目には悪とされることを行っていたことが記されます。すなわち、偶像礼拝でありました。それで神様は偶像礼拝を懲らしめるために、ミディアン人の力を強くするのでした。ミディアン人はイスラエルの人々を苦しめます。6章6節に、「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ」と記されています。それで神様は助け主、士師を選びました。それがギデオンでありました。ギデオンは常に神様に御心を求める人でした。

 神様のお使いがギデオンに現れ、ギデオンがイスラエルの危機を救済するために選ばれたことを告げます。するとギデオンは、お告げのしるしを見せて欲しいと願います。神様のお使いはギデオンが用意したパンと肉を岩の上に置かせます。神様のお使いが杖を岩に触れると岩から火が燃え上がり、パンと肉を焼き尽くしたのでありました。それによりギデオンは自分が士師、救助者として選ばれたことを確信いたします。そのギデオンに神様は偶像礼拝の祭壇を破壊するように命じます。ギデオンは言われたとおり、バアルの祭壇を打ち壊したのでした。そのとき、町の人々は祭壇を壊したギデオンを責めるのですが、それよりもミディアン人やアマレク人が結束してイスラエルに攻め上ってくるのです。ギデオンはイスラエル人に呼びかけて、せめて来る大軍と戦おうとするのです。そこで今朝の聖書になります。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます」と神様のお心をいただこうとしているのです。神様はそのように答えてくれました。さらにギデオンは、今度は反対に、羊の毛だけが乾いていて、土は一面に露が置かれることを願うのです。そのようになりました。このことにより、ギデオンは自分を通してイスラエルを救おうとされていることを確信するのです。旧約聖書において、士師と言われる人々は、自分を超えた神様が、自分を通して人々を救ってくださることを示されて、神様のご使命に応えたのでした。神様がお力を与えてくださっているのです。私たちは自分の力に頼っていますが、力は神様が下さることを聖書は示しているのです。

3.

 人の思いなのか、神様の御心なのか、ヨハネによる福音書7章の今朝の聖書が示しています。7章は表題に「イエスの兄弟達の不信仰」とされています。まさに兄弟達の人間的な思いが露骨に表れています。ちょうど仮庵の祭りが近づいているときでした。仮庵の祭りは、聖書の人々が奴隷の国エジプトを出て、神様の約束の地、乳と蜜の流れる土地を目指して荒れ野の40年間を旅するのですが、その40年間、天幕の生活でした。いわゆる仮住まいは救いへ至る順序でありました。今、約束の地で生きるとき、テント生活を感謝しての祭りが行われるようになりました。仮庵の祭りには各地にいる聖書の人々が都エルサレムに集まり、神様に感謝をささげるのであります。

 その仮庵の祭りにイエス様が行くように勧めるのがイエス様の兄弟達であります。イエス様の兄弟達がいます。マタイによる福音書13章55節にイエス様の兄弟達の名が記されています。いずれも弟になりますがヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダであります。妹もいたことが記されています。この兄弟達は、この時点ではきわめて人間的な思いでおりますが、後にイエス様を信ずるものへと導かれるのです。中でもヤコブは最初の教会の中心的な人になります。12人のお弟子さんの中にヤコブがいますが、そのヤコブよりも重要な存在として主の兄弟ヤコブの存在があるのです。

 仮庵の祭りが近づいているとき、兄弟達は兄であるイエス様に言います。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」と言うのでした。つまり、こんな地方にいないで、都のエルサレムに行き、一旗あげなさいといっているのであります。イエス様がガリラヤ地方で神様の御心とその業をなしていることについては、イエス様の兄弟達も見たり聞いたりしていました。しかし、信じる姿勢ではなく批判的に見ていたということでしょう。きわめて人間的な思いで一旗あげなさいといっているのであります。その時、イエス様は都には行かないと言います。それはイエス様の時がまだ来ていないからであります。ヨハネによる福音書2章には「カナの婚礼」について記されています。お祝いの婚礼でぶどう酒が無くなってしまいます。イエス様のお母さんであるマリアさんが、イエス様にこの事態を言います。するとイエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」と言い、お願いを断っているようにも受け止められるのです。しかし、そうは言いながら水をぶどう酒に替える奇跡を行っています。今朝の聖書も、都には行かないと言いますが、それはイエス様の「時」が来ていないからでありますが、イエス様は後で都に行くことになるのです。しかも、隠れるようにして都に行ったのでありますが、公然と人々に教え始めるのでありました。隠れるようにして都に行ったものの、都ではイエス様についていろいろ噂されていました。今朝の聖書の後の部分12節で、「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた」と示されています。つまり、都の人々は主イエス・キリストを自分の思いで評価しているということであります。そのため、イエス様は、ご自身が神様の御心であることを証されているのであります。16節、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と示しています。神様の御心なのか、人間の思いであるのか、ここに主イエス・キリストがはっきりと示しているのであります。神様の御心に生きること、信仰の勝利者へと導かれるのであります。

4.

  「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つのか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とヨハネの手紙(一)5章で示されています。主イエス・キリストを救い主として信じる人が、信仰による勝利者であることを示しているのであります。

 私の親しくしている友人、岩崎隆牧師でありますが、今年の春に隠退されました。彼は私と同年代であり、清水ヶ丘教会で共に成長しました。そして、彼は私より3年早く神学校に入りましたので、3年早く牧師になったのです。最初の教会は東京の高輪教会で、2年ほど伝道師を務めた後は、開拓伝道を始めたのです。開拓伝道とは、まだ教会ができてないのですが、信者さんと共に集会を続けることです。次第に信者さんが与えられ、それで教会となり、今日まで牧師として歩んでまいりました。この春、ようやく退任することになったのです。50年以上は開拓伝道で造り上げた教会と共に歩ん来たのです。

 神学校では私と共に卒業した友達も開拓伝道を始め、今でも教会の牧師として歩んでいます。開拓伝道で造り上げた教会は、なかなか退任できない事情もありますが、やはり神様のお力をいただいているのであり、たとえ年齢を増しても伝道者として用いられているのです。神様のみ言葉は、私達の力となり、私達を支えてくださるのです。

 冒頭にも示されましたが、私はこの年齢になっても、神様の御言葉を伝える務めを与えられていますが、神様がお力を与えてくださっているからです。旧約聖書において、モーセは力強い働きをしていますが、彼は言葉に弱く、言葉をもって人を説得する力はありませんでした。むしろ、モーセに代わって言葉となったのはアロンと言う人でした。一つの力をモーセは与えられ、神様大きな御用を成し遂げたのでした。力を与えられるということは、何もかも、できるということではありません。一つのことができるということ、神様によって一つの力が与えられているということです。その一つのことで、神様の御心に生きるということを今朝は示されているのです。

 <祈祷>

聖なる神様。信仰による勝利の人生を導いてくださり感謝します。イエス様のみ救いがいよいよ力となりますようお導きください。主のみ名によりおささげします。アーメン

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