説教「平和の原点を与えられ」

2018年8月5日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第12主日」 平和聖日

説教・「平和の原点を与えられ」、鈴木伸治牧師  
聖書・イザヤ書54章4-10節
    エフェソの信徒への手紙2章14-22節
    マルコによる福音書10章13-16節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・420「世界のおさなる」
    (説教後)讃美歌54年版・531「こころの緒琴に」
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毎年、8月の第一日曜日は、日本基督教団は「平和聖日」と定め、平和を祈りつつ礼拝をささげることになっています。今年は本日の8月5日になります。まさに今は平和を祈らざるを得ない状況になっています。この世界で戦争がないのではなく、今でも戦いが続けられているのです。アメリカと北朝鮮の駆け引き、ロシヤ、中国等と日本との関係もなかなか平和な歩みが導かれません。イスラエルと中東の世界との摩擦は解決の糸口がないようです。再び世界戦争が起こらないよう祈っているのです。今は核兵器を持っているので、戦争になれば大変なことになることは分かっているのです。それでいて駆け引きが行われているのです。どちらも自分たちの主張を続けていますので、和平に至るのは困難であります。歴史を見ますと、お互いに話し合いによって戦いが集結したということはあまりありません。どちらかが勝利をおさめ、片方が敗北を認めたときに和平交渉が始まるということです。そのとき話し合いで和平が成立しても、のちにまた戦いが復活するという歴史があるのです。
 平和の実現は、私達は聖書によって示されているのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下に示されています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示されています。人間にとって、十字架を見上げることによって、自分の自己満足と他者排除が滅ぼされていることを示され、他者と共に生きる者へと導かれるのです。まさにイエス・キリストが平和を実現するのであり、いよいよ十字架の真理を示されなければならないのです。
 2010年3月まで、大塚平安教会にて30年間、牧師として務めてまいりました。最初からではありませんが、この8月の平和聖日には「戦争責任告白」を礼拝にて、日本基督教団信仰告白と共に朗誦してまいりました。正確には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」ということです。日本は太平洋戦争を展開し、アジア地域を侵略しました。日本が戦争に負けたとき、日本基督教団の人々の中には、この戦争には我々キリスト者も加担し、アジアの人々を苦しめたと懺悔するようになりました。それにより1967年に当時の日本基督教団総会議長・鈴木正久牧師が、戦争責任告白を教団総会に提出したのです。しかし、この戦争責任告白に反対する人々がおり、教団としては決められませんでした。しかし、これは大切な告白であるとして、教会によっては平和聖日の礼拝にて告白する教会もあるのです。大塚平安教会も最初からではありませんが、平和聖日には戦争責任告白を礼拝にて告白するようになっていたのです。しかし、私が在任している間は、この戦争責任告白について説明することが出来ますが、代が変わることによって、わからなくなる人々が出てきます。そのときは改めて学習してもらうことにして、私の退任の前に、この戦争責任告白を礼拝にて告白することを取りやめたのでした。また、あらたなる思いで取り組んでいただきたいと思っています。
 平和はつねに祈るべきことですが、今は祈らざるを得ない状況が世界に起きているのです。いよいよ、主の十字架にあって平和を祈り求めて参りましょう。

 旧約聖書イザヤ書による示しであります。今朝の聖書の背景は苦しみに生きる人々を励まし、慰めているのであります。すなわち、聖書の人々はバビロンという大国に囚われの身分であります。紀元前587年、聖書の南ユダの国はバビロンによって滅ぼされてしまいます。その時、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そのバビロンで囚われの身分として生きなければならなかったのであります。
 聖書の国は小さな国であり、当初はイスラエル国家でありましたが、お家騒動で国が二つに分かれ、北イスラエルと南ユダの国になりました。北イスラエルは紀元前721年にアッシリアという国に滅ぼされています。そして南ユダも滅ぼされてしまうのです。聖書は滅ぼされる原因は、確かに外国の力によるものですが、聖書の人々の不信仰を示すのであります。すなわち、神様の御心、神様の力により頼むのではなく、外国の力に頼もうとしたのであります。バビロンに対してはエジプトに力を要請しながら対抗しようとしたのであります。そうした人間の思い、人間の力に依存する姿に対して、神様は審判を与えています。むしろ神様が囚われの身へと追いやったことも示されるのであります。今、希望を持たない人々にイザヤは神様の御心として示しています。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」と示しているのです。きわめて人間的な姿を神様に当てはめています。人間も気持ちの持ち方で一人の人を近づけたり、遠ざけたりします。人間的な思いで神様の人間への迫り方を記している訳です。
 人間的な神様を記していますが、旧約聖書はしばしば神様と人間との関係を家族と結びあわせて示しています。今朝の聖書では5節に「あなたの造り主があなたの夫となられる」と示し、神様と聖書の人々が夫婦の関係として、それだけ密接な関係であると示しているのであります。神様と聖書の人々の関係を夫婦として意味深く示したのはホセアという預言者でありました。ホセアはゴメルという妻がいますが、そのゴメルがホセアを裏切り、他の男性のもとへ行ってしまうのであります。本来、そこで夫婦の関係は無くなるのでありますが、ホセアはこの妻を捨てず、彼女を迎え入れたのであります。それは自分の体験を通して、神様の深い導きを示されたからであります。すなわち、聖書の人々が歴史を通して神様に導かれてきました。それは神様と聖書の人々には密接な関係があったということです。ところが、聖書の人々は偶像の神に心を向けて行くのであります。真の神様に導かれているのに、他の神に心を向けること、姦淫であります。姦淫を行う聖書の人々に対し、心を改め、神様のもとに立ち帰るならば、神様は赦しを与え、再び恵みと慈しみを与えてくださることを示したのがホセアでありました。ホセアは自分の体験を通して神様の御心を示されたのであります。むしろ、姦淫の妻を受け入れるのは神様の導きであったのであります。
 このように神様と聖書の人々との関係は家族であることを示していますが、実際の家族の姿は、ドロドロとした姿が示されています。最初の人であるアブラハム、そしてその妻サラの姿が示されます。「あなたがたに天の星のように子孫を与えると」との約束を神様から与えられますが、現実には子どもが与えられません。そして次第に年齢を重ねていく夫婦は、もう神様の約束をあてにせず、サラに仕えている女性ハガルから、アブラハムにより子どもを生まれさせるのであります。ハガルは自分が身ごもるとは主人であるサラを見下すようになるのです。それで、サラはハガルを追放するということになります。しかし、神様はもはや高齢のアブラハムとサラにイサクという子どもを生まれさせるのであります。神様の約束は実現したのです。イサクの時代になりますと、妻リベカの間にエサウヤコブの双子が生まれます。イサクはたくましく育つエサウを愛し、母のリベカは優しく育つヤコブを愛すのであります。エサウヤコブの相続争いがあり、家族の崩壊が示されています。そして、ヤコブの時代でありますが、ヤコブの二人の妻、そしてそれぞれに仕える女性から12人の子供が生まれるのです。父親のヤコブは11番目の子供、愛する妻ラケルの子供、ヨセフを溺愛いたします。他の兄弟たちは父のヨセフへの愛情に妬みを持ち、ヨセフを殺す計画を持つのであります。結局、ヨセフは兄弟たちによりエジプトに奴隷として売られてしまうのであります。ここにも家族のドロドロとした姿が見えてくるのです。しかし、聖書はそのようなドロドロとした家族の中に導きを与えておられます。追放されたハガルと子どものイシマエルに生きる道を与えています。ヤコブが相続権を勝ちとってしまいますが、兄のエサウにも生きる方向を定めています。兄弟たちの妬みでエジプトに売られてしまうヨセフでありますが、それは神様の導きであり、ヨセフはエジプトの大臣になってヤコブの一族を救うのであります。ドロドロとした家族の関係の中に、神様の導きがあることを聖書は示しています。そういう歴史を示しながら、神様ご自身が家族の中心であることを示すようになるのが預言者たちの働きでありました。
 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」とイザヤは示しているのであります。神様がくださる「平和の契約」があなたがたを祝福すると示しているのであります。

 私たちを平和に導くのは主イエス・キリストであると聖書は示しています。イエス様が人々に神様の御心をお話しているところに、人々が子供を連れてきました。イエス様に触れていただくためであるということです。子供たちが親と一緒に来て、その周りで遊んでいたというのではなく、イエス様に触れていただくために子供を連れてきたのです。しかし、イエス様のお弟子さん達は子供を連れてきた人たちを叱ったのです。イエス様が神様の御心をお話しているのに、子供はうるさいというわけです。しかし、イエス様はこれを見て「憤り」ました。イエス様が憤ったという表現は、聖書の中ではこのマルコだけであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じ出来事が記されていますが、イエス様が憤るという表現はありません。イエス様が人間的な感情を現すことの表現は避けたということです。しかし、マルコによる福音書の著者はイエス様のありのままを記しているのです。それだけにイエス様の示しが強いということであります。
 イエス様が憤られた背景には、既にイエス様の子供に対する示しが与えられてたいたからであります。9章33節以下に「いちばん偉い者」についてお弟子さん達が論じあいました。弟子たちの中で、誰がいちばん偉いのかという議論でありました。その議論を知ったイエス様は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。そして、一人の子供を抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と教えられたのであります。このように教えられていながら、子供たちをイエス様に近づけない姿勢を見て、イエス様は憤られたのであります。「子供を受け入れる」ことを教えたばかりなのです。イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と示されています。子供を受け入れなさいと示されています。その子供は純真に神の国を受け入れているのであります。今、イエス様が人々にお話しているのは神の国に生きるということであります。人々が平和を与えられるということであります。何よりも子供たちが神の国に生きることを受けとめているということ、平和の見本でもあります。イエス様はそのように示されながら、イエス様に触れていただくために子供を連れてきた親に対して、祝福を与えたと示されるのであります。平和を祈ることは、イエス様が示されるように、いと小さい存在を受け止めることなのです。世界中の人々は平和願っていますが、イエス様が示される「いと小さき存在を受け止める」こと、そこに平和の原点があるということです。

 8月は第一日曜日に日本基督教団は「平和聖日」を設けて祈っていますが、日本全国民が平和の祈りへと導かれています。8月6日に広島に原子爆弾が落とされ、8月9日には長崎に原子爆弾が落とされました。この原子爆弾投下により、もはや日本は戦争が出来なくなり、8月15日に敗戦を宣言したのでした。従って、この8月は、人々は平和を祈り、各地で祈りの集会を持つことでありましょう。原子爆弾が落とされた広島や長崎で平和集会が開かれますが、いくつかの団体が分かれて平和集会を開くのです。一つの心で、一緒に開いたら良いと思いますが、それぞれの主張があって、一緒には開催できないことがそもそも平和を遠ざけているのです。「信仰と祈り」は自分の主張ではなく、神様の御心を求めることです。主イエス・キリストの十字架の福音を基にしなければ、真の平和は実現しないのであります。
前任の大塚平安教会時代、毎年、8月の第一日曜日は「平和聖日」としての礼拝でした。ところが大塚平安教会は、教会創立記念日も8月の第一日曜日でした。そのため平和のメッセージを示され、さらに教会創立の恵みを示される説教をしていました、ところが「平和聖日」と「教会創立記念日」の礼拝を一緒に覚えることの疑義を述べる人が出てきました。確かに「平和聖日」は平和のメッセージをしっかりといただきたいのです。創立記念日には、歴史を導く神様のお恵みをしっかりといただきたいのです。それで、8月の第一日曜日を「平和聖日」とし、第二日曜日を「教会創立記念日礼拝」としたのでした。しかし、平和に導かれるために教会の存在があり、教会創立は平和の根源であると示されます。二つの意義を共に示されることが平和の導きであることは確かであります。教会を基として、いよいよ平和の祈り、そして平和を作り出す者として導かれたいのであります。 
<祈祷>
聖なる神様。平和を祈るときを迎えています。自分の経験ではなく、信仰とお祈りにより真の平和を実現させてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。