説教「神様の平和を与えられ」

2017年8月13日、横浜本牧教会
聖霊降臨節第11主日」 

説教・「神様の平和を与えられ」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨナ書3章1-5節
    マタイによる福音書10章5-15節
賛美・(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」
    (説教後)561「平和を求めて」

 8月の歩みも半ばになっています。この8月は平和を示され、お祈りが導かれています。前週は「平和聖日」としての礼拝をささげています。今朝も「神様の平和が導かれ」との説教題になっていますので、さらに「平和」の示しをいただくのであります。日本基督教団の聖書日課として、今朝は「宣教への派遣」ということになっています。主イエス・キリストの教えを人々に伝えていくことの導きであるのです。そのイエス様の宣教というものは、何を伝えるかと言えば、「平和」ということなのです。今朝のマタイによる福音書は、お弟子さんたちを町や村へ派遣することが記されていますが、派遣されたお弟子さんたちは何を人々に示すかと言えば、「平和」を示すことでした。従って、平和を祈ること、人々にイエス様の教えを伝えること、いずれも平和のために祈り、平和のために働くということなのです。そういう意味で、今朝も「平和」の導きを与えられるのです。
 「平和」については誰もが願うことであります。しかし、「平和」を実現するためには、人それぞれが異なる見解を持つことになるのです。みんなが仲良く生きることが平和の根源でありますが、そのためには力によって仲良くしようとします。いわゆる戦争によって平和を実現しようとするのです。一つの物語を紹介しておきましょう。もう随分古くなりましたが、1984年に日本YMCA同盟から発行された「平和の本」との題名です。バーナード・ベンソンというイギリス人が書いたものです。この本の中では子供たちの叫びを記しているのです。戦争の恐ろしさを知った男の子が、「僕たちは死にたくない」と叫びをあげるのです。その叫びをテレビ局が受け止め、テレビで流します。多くの子どもたちが同じ叫びをあげていきます。次第にその叫びが大きくなり、ついに大統領と面会するようになるのです。大統領と話しているうちに、大統領が一つの鍵を持っていることを知ります。その鍵は、絶対に使ってはいけない、しかし、持っていなければ不安になるというものでした。その鍵を使うことによって核爆弾が発射されるのです。大統領は絶対に使いたくないが、鍵を持っていることで、他の国との平和が導かれているのだと言うのです。男の子は、「僕たちは死にたくない」と繰り返し訴えます。大統領は他の国の大統領も、みんな鍵を持っていると言いますので、男の子は多の国の大統領にも面会します。やはり、平和のために核爆弾の鍵を持っていると言うのでした。男の子は、みんなが平和を願っているのであるから、その願を形にしましょう、ということで、緑の葉っぱを紙に描いて胸に付けたのでした。これもマスコミにとりあげられ、世界中の人々が共感するようになりました。胸に緑の葉っぱを付けること、これが平和の叫びであり、祈であると示され、人々は木の葉っぱを胸につけるようになるのです。葉っぱは朝付けても夕方にはしおれてしまいます。だからまた木から葉っぱを取り胸につけるのです。世界中の人が毎日のように新しい葉っぱを胸につけますから、葉っぱのない木が枯れてしまうのです。男の子が提案したのは、葉っぱを紙に書いて胸につけることでした。しかし、人々は木の葉っぱを付けるようになったのです。平和ではなく、荒廃になってしまったとうことです。しかし、それも解決されて、男の子の叫びは世界中の人々の祈りなったということです。
 平和を作りだすために、平和を破壊してしまう人間でもあるのです。自分の満足ではなく、真に一人一人が喜びへと導かれること、それを示されるならば、自分の生き方を深く見つめなければならないのです。自分を見つめることによって平和が導かれてくること、聖書の示しをいただかなければなりません。

 今朝の旧約聖書はヨナの物語であります。旧約聖書は創世記から始まってエステル記までは歴史書であります。聖書の民族の歴史的経過を記しています。続いてヨブ記から雅歌までは文学書と言われます。これらは実際の出来事ではなく、創造的な物語、あるいは神様を讃美する詩歌であり、神様の知恵として語られる教訓であります。そしてイザヤ書から最後のマラキ書までを預言書と称しています。神様のお心を預言者が人々に示す書なのであります。今朝のヨナ書は預言書の中におかれています。ヨナ書を読むと、預言というより物語であります。従って、これは物語的に神様のお心を示しているのであります。
 少し物語を見ておきましょう。ある日、ヨナさんは神様のお告げを聞きます。「さあ、大いなる都ニネベに行って、これに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」と神様は言われるのであります。ヨナさんがニネベに行き、悪に染まっている人々に神様のお心を伝えなさいと言われているのであります。ところが、ヨナさんはその神様のお告げから逃れようと、ニネベではない、別の方角に行く船に乗ってしまうのでした。ヨナの乗った船が航行していると、嵐になり、船が沈みそうになります。船の人たちは積荷を海に捨てたりして、難を逃れようとします。そして、こんなに船が嵐によって災難を被るのは、誰かのせいであり、その誰かを突き止めるためにくじを引くことになりました。くじはヨナに当たりました。そこでヨナさんはありのままを話します。神様のご命令を逃れて、別の船であるこの船に乗ったこと、この嵐は神様の私への怒りであり、だから私を海の中に放り投げてもらいたいというのです。躊躇する船の人々ですが、ヨナさんの申し出の通り、ヨナさんを海の中に放り投げるのでした。すると嵐はぴたりと止まり、船は静かに航行できるようになりました。海に放り投げられたヨナさんは大きな魚に飲み込まれてしまいます。そして、その魚の中で三日三晩過ごすのでした。そして祈りのうちに過ごしますが、心からなる祈りをささげたとき、魚はヨナさんを吐き出しました。吐き出したところがニネベの都でありました。
 そして今朝の聖書になります。ヨナさんはニネベの人たちに、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と一日中叫び続けたのでありました。すると、ニネベの人たち、王様も粗布をまとって神様にお祈りをささげるのでした。粗布をまとうということは悲しみを表す行為です。こうして国中の人々が粗布をまとって懺悔のお祈りをささげましたので、神様は悪に染まったニネベを滅ぼすことを思いとどまったのであります。
 このヨナさんの物語はいろいろな意味合いが示されています。三日三晩大きな魚の中に居たことはイエス様の墓を意味していると解釈します。魚のお腹から出たヨナさん、墓から出たイエス様の罪の悔い改めの働きに重ねるのであります。いろいろな解釈がありますが、私たちは、ヨナさんが平和のメッセージをニネベの人たちに伝えたこと、それにより人々が自分を見つめ、悔い改めたこと、そのことが今朝の示しとなっています。ヨナ書が外国人伝道を示しているということが大筋の考え方であります。聖書の人々ではないニネベの人たちへの宣教、外国人伝道がここで示されているということであります。神様はこの地上のすべての人々に、神様の御心を示し、平和をお与えになっているのです。平和の実現、神の国実現へと導いておられるのであります。聖書の人々以外の人々への伝道でありますが、聖書の人々に対して外国人であるニネベの人々が粗布をまとい、心から罪の悔い改めをする、聖書の人々以外の外国人も救いに与ることが示されているのです。神様の救いは全世界の人々に与えられているのです。神様の平和は全世界の人々に与えられているのです。自分を見つめ、悔い改めることが平和の根源であると示しているのです。

 主イエス・キリストは聖書の国ガリラヤ地方で伝道を開始しました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われ、神様の福音を宣べ伝え始められたのであります。そして、まず4人のお弟子さんを選びました。ペトロさん、アンデレさん、ヤコブさん、ヨハネさんであります。今朝の聖書は既に12人のお弟子さんが選ばれています。今朝の聖書の前の段落、9章35節以下に、主イエス・キリストが人々に同情したことが記されています。主イエス・キリストは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」と言われたのであります。世の人々は弱っているとは主イエス・キリストの指摘なのです。打ちひしがれていると言われるのです。神様の平和がないことを示されているのです。まさにその通りであります。だから、そのために私たちが働き人として選ばれているのです。
 「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とイエス様は示していますが、その後の10章ではイエス様が12人のお弟子さんを選び、それぞれの場に派遣していることが記されています。10章5節以下に12人のお弟子さんを派遣するにあたり、その心構えを示しています。最初に「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と示しています。異邦人やサマリア人は外国人であり、今朝のテーマからすれば外国人伝道が奨励されるべきであります。しかし、イエス様はまず聖書の人々への伝道を奨励しているのです。聖書の人々はユダヤ教の社会です。その社会の中に現れたイエス様は、人々が「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」状況を御覧になりました。歴史を通して神様のお導きをいただいている聖書の人々なのに、弱り果てている姿を御覧になるのです。まず、これらの人々への救いが必要なのです。それでお弟子さん達を「イスラエルの家の失われた羊」へと派遣するのでした。「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさいと示しています。「病人をいやし、死者を生き返らせなさい」と命じています。そのために、お弟子さん達には「汚れた霊に対する権能をお授けになった」のであります。
 「汚れた霊」とは、人間が持つ偏見、迷信による生き方であります。そのような汚れた思いが病気を促し、死んだような存在にしてしまうのです。イエス様がお弟子さん達に与えた権能は人間の弱さに打ち勝つ神さまのお導きでありました。さらにイエス様は派遣するお弟子さん達に、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない」と言われ、「袋も二枚の下着も、履物も持って行ってはならない」と言われています。袋を持つということは、予備のものを袋に入れて供えることになるわけです。予備のものは一切持たず、そのままの姿、現状の姿で行きなさいと教えているのです。自分の予備のものに頼るのではなく、全てを神さまに委ねて行くべきだと示しているのです。派遣されているのは神様であるからです。このようにしてイエス様はお弟子さん達を派遣するにあたり、全てを神さまに委ねて、人々に「平和の実現」を宣べ伝えることを教えたのでした。人々と出会ったら「平和があるように」と挨拶しなさいと教えています。神様の「平和」を人々に示すことが、伝道であると示しているのです。

 私たちが人々にイエス様の福音をお伝えするのは、神様の「平和」を示しているのです。神様の「平和」こそ、この世の真の平和なのです。お互いに喜びの生活が与えられるようお祈りすることです。聖書の人々が人と挨拶するとき、「シャローム」という言葉で挨拶します。「あなたに神様の平安がありますように」と言い合いつつ、お互いの存在を喜びあうのでした。日本の私達は「こんにちは」ですが、「今日は良いお天気ですね」と言っているのですが、後の部分は省略して、「今日は」だけの言葉になっています。「こんにちは」にも、相手の姿をお祈りしている意味が含まれていると思いますが、やはり表面的な挨拶になっています。「シャローム」と挨拶する場合、相手の存在をお祈りしているのです。
スペイン・バルセロナに滞在していましたが、娘の羊子がカトリック教会のミサの奏楽をしていますので、私達夫婦もミサに出席しました。ミサに出席しても言葉がわからないのですが、娘が今は「主の祈り」であると言われますので、日本語でお祈りしたりしました。カトリック教会は、必ず聖餐式が執行されます。聖餐式の前後に互いに挨拶をするよう神父さんが勧めます。すると会衆の皆さんは左右の人、前後の人と握手したり、ハグしたりしてお互いの平和を祈りあうのです。私達が日本人であっても握手してくれたり、ハグしてくれたりします。礼拝、ミサは神様の平和を与えられているのですから、互いに平和の祈りをする、これは当然のことなのです。日本の教会では見られなかったことですが、最近の教会には、聖餐式のときに左右、前後の人と握手したり、挨拶したりしています。日本基督教団の総会のとき、聖餐式の礼拝がありますが、ある総会から左右、前後の人と握手したり、挨拶するようになりました。これを受けて教区総会や各教会でも行う教会が増えつつあります。
私たちも「平和」の挨拶をしつつ歩みたいのです。私たち夫婦は2010年3月に30年間務めた大塚平安教会を退任しました。退任した4月から9月までこちらの教会の代務者も早苗幼稚園の園長を担わせていただきました。そして、10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師になったのです。そして11月からはた六浦谷間の集会として、基本的には夫婦二人で礼拝をささげるようになりました。時には家族や知人が出席しますが、いつもは夫婦で礼拝をささげています。礼拝が終わりますと、「あなたに平安がありますように」と挨拶しています。夫婦で互いに平安を祈りあうのは、とても良いものです。私達は今朝も礼拝をささげていますが、神様に礼拝をささげているのですが、出席した人たちは、互いに神様の平和を祈りあいつつ礼拝をささげているのです。神様の平和の根源は、主イエス・キリストの十字架の贖いです。イエス様の十字架により、自らを見つめ、悔い改めが導かれる、平和の歩みが与えられているのです。この礼拝には神様の平和があふれているのです。そして、神様の平和を与えられて、新しい一週間を歩むのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えられ感謝致します。この平和の基を多くの人々に宣べ伝えることができますようお導きください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。