説教「喜びの人生」

2017年8月20日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第12主日」 

説教・「喜びの人生」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書20章7-13節
    使徒言行録20章17-24節
     マタイによる福音書10章16-25節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・421「み神のみむねは」
    (説教後)537「わが主のみ前に」


 前週8月15日は日本の敗戦記念日でありました。一般には終戦記念日でありますが、私達は「敗戦記念日」としています。日本はアジアを侵略し、世界戦争にまで発展していきました。戦争を推進した日本が、単に戦争を終えたというのではなく、戦争を引き起こしていったことで「負けた」ということをしっかりし受け止めなければならないのです。「敗戦」と言い、戦争の責任を負わなければならないのです。その意味でも1967年3月26日付で、日本基督教団総会議長の鈴木正久牧師の名で、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を公にしたことは、正しいことである示されています。キリスト教におきましても、戦争に加担したのです。アジアの諸教会に対し、戦争に協力するよう呼びかけたのでした。戦争中におきましては天皇を中心にしておりましたので、天皇を神として崇めることを強要しました。しかし、キリスト教は人間を神とすることはできません。絶対に神としない姿勢が迫害となり、それにより死んでいった多くの人々がいたのです。特にホーリネス教団の人々は苦しい体験をしました。ホーリネス教団の人たちが、教会に来ることを拒否したりしています。キリスト教会も自分達はこの人たちとは関係ないとしたのでした。
 戦争中の苦しい事情がありました。同じキリスト教でも、戦争に反対する人々を排除したのであります。そのような歴史を振り返り、同じ体質を持つ者として、心から悔い改め、反省をしました。私が神奈川教区の総会議長の頃、神奈川教区内でもホーリネス教団の人々を排除した歴史がありますので、謝罪表明をしたのでした。神奈川教区の総会にホーリネス教団神奈川教区の代表者にお出でいただき、総会議場において謝罪したのでした。そしてホーリネス教団神奈川教区の総会に我々が出席し、皆さんの前で謝罪をしたのでした。ホーリネスの人々を排除したのは当時の人々であると言うのではなく、私達も同じ体質を持っているのです。自分の責任として謝罪することが大切なのであります。
戦争責任告白は日本のキリスト教が戦争に協力したことに対する懺悔の告白です。教団はアジアの諸教会にも日本の戦争に協力するよう呼びかけましたので、アジアの諸教会にも謝罪し、懺悔しているのであります。しかし、それに対して、戦争協力はやむを得なかったのであると言い、戦争責任告白を喜ばない人もいるのです。しかし、戦争責任告白は私たちがその時代にいなかったとしても、戦争への責任は持たなければならないのです。戦争を起こす体質は私たちも持っているからです。戦争を起こす体質を持っていますが、しかし私達は神様によって「喜びの人生」をいただいています。十字架のお導きは平和を祈る者へと導いてくれるのです。それが「喜びの人生」であると示されるのであります。

 前週はヨナ書を示されています。もう一度示されておきます。神様はニネベの町が悪徳に栄えたので、ヨナを選んでニネベに遣わし、人々を悔い改めさせようとします。しかし、ヨナはその任を嫌がり、ニネベではない、別の方角の船に乗ってしまうのです。神様は嵐を起こさせ、ヨナが乗っている船が今にも沈みそうにさせるのです。船の人たちは、これはきっと神の怒りであり、それは誰であるかくじを引きます。くじはヨナにあたります。ヨナは自分が神さまの御心から逃れてこの船に乗っているのであり、だから自分を海の中に放り投げてくれと言うのでした。船の人たちは躊躇しますが、ヨナの言うとおり、ヨナを荒れ狂う海の中に放り投げます。すると嵐はぴたりと止むのです。ヨナは大きな魚にのみ込まれ、魚のお腹の中で三日間すごします。そして悔い改めて、神さまの御心に従おうと決心した時、大きな魚はヨナを吐き出しました。そこがニネベの町でした。そして、ヨナは神さまの御心に従い、ニネベの人たちに悔い改めを迫るのでした。人々はヨナの言葉に従い、王様までも悔い改めたのでした。それにより、ニネベの町は救われたのでした。
 このヨナの物語は、神さまが御心を示す人を必ず導くことを示しています。逆に言えば、御心を示された人は逃げられないと言うことを示されるのです。今朝の旧約聖書のエレミヤもその一人であります。20章7節にはエレミヤが次のように告白しています。「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」と述べています。最初にエレミヤが神さまの召しをいただいた状況はエレミヤ書1章4節以下に記されています。主の言葉がエレミヤに臨みます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎内から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われたのです。それに対してエレミヤは、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎません」と辞退しています。すると神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われたのでした。エレミヤは神さまの御心に捕らえられた者として、預言者として生きることになるのです。
 そのエレミヤの歩み出しを示されて今朝のエレミヤの告白を示されるのです。「わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」とエレミヤは告白しています。聖書の人々はエレミヤの言葉を聞こうとしません。状況的には大国バビロン、アッシリア、エジプトの狭間にあって、どのように生き伸びるか、進路を決めかねているのです。偽預言者達は「主の神殿」があるから安泰だと人々に言い聞かせています。指導者達は、エジプトと手を結んで、バビロンに対抗することを考えています。そういう中で、エレミヤは、むしろバビロンに降伏して生き延びることを勧めているのです。今朝の聖書20章8節以下でエレミヤは述べています。「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」と人々の中で孤立する姿を述べているのです。困難な状況であり、耳を貸さない人々への預言ですが、エレミヤは確信しているのです。「主に向って歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される」と神さまの恵みと導きを示しているのです。エレミヤのように「あなたの勝ちです」と神さまに言わなければならないのです。私達も神さまに捕らえられ、そして今の状況におかれていることを思わなければならないのです。「喜びの人生」へと導かれるのです。

 主イエス・キリストに捕らえられて、イエス様のお弟子さんになった人たちのことについては、前週も示されています。イエス様は12人のお弟子さんをお選びになり、すぐにもお弟子さん達を派遣しているのです。そのお弟子さん達にイエス様は「汚れた霊に対する権能」を授けておられます。「汚れた霊」とは人間的な自己満足です。それに打ち勝つ力をお与えになっているのです。そして、派遣にあたり、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と戒めています。すべてを神さまに委ねて伝道するように導いているのです。
 そして、今朝は更に厳しいことを示しています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送りこむようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と示しています。イエス様の御心を持つゆえに迫害されるとも言われています。しかし、どのような迫害がありましょうとも、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とイエス様は教えているのです。どのような状況になろうとも、神さまが共におられて、導いてくださることを教えているのです。神様が困難な状況を導いてくださるのです。
 このような厳しいことになるのであれば、イエス様のお弟子さんにならなくても、普通に生きれば良いのではないかと思われるでしょうか。このお弟子さん達の派遣については、主イエス・キリストの十字架の贖い、十字架の救いの前のことです。しかし、イエス様は十字架にお架りになる前に、救いを信じて生きる者の姿を示しているのです。少なくとも、この時点では「自分を愛するように、あなたがたの隣人を愛しなさい」と教えておられます。そして、その教えに生きる者が、現実を天の国として生きる者へと導かれると示しているのです。イエス様を信じると言うことは天の国へと導かれるためなのです。そのイエス様の基本的な教え、「隣人と共に生きる」こと、人間は出来ないので、イエス様は十字架にお架りになり、基本的な教えを実践出来る者へと導いてくださっているのです。私達が天の国へと導かれるためです。「喜びの人生」へと導かれるのです。
 エレミヤは人々が神さまではなく、人間の力関係に頼ろうとしているとき、降伏することを叫び、神さまに委ねて生き伸びるよう預言したのでした。そこで告白したのが、「あなたの勝ちです」と神様に申しあげたのです。苦しくても、辛くても、神さまが導いてくださることを告白しているのです。「神さまの勝ちです」と告白しなければならないのです。

大塚平安教会在任の頃、一人の少年が交通事故に遭い、そのとき、教会の皆さんが、すがる思いで神さまにお祈りしました。2006年7月のことでした。そのことを当時のブログに記していますので、思い返しています。
<2006年7月5日のブログ>
月曜日に少年院で一人の少年と面接をしているとき、携帯電話の受信がありました。マナーモードにしてありましたので、面接が終わってから発信者に連絡しました。小学校一年生のお子さんが交通事故にあい、北里大学病院に救急車で搬送されたと言うのです。少年院は相模原小山にありますので、北里大学病院は帰り道にあります。救急・救命センターに駆けつけることができました。両親はもちろんですが親族、学校の校長先生、担任の先生もおられました。今は処置をしているところであると言われました。一時間も待ったでしょうか、病室に移されました。ようやく事故にあった少年と会いました。彼は意識不明となっています。事故以来意識不明のままなのです。体の骨折はなかったようですが、頭をうっており、左の目の辺りも紫色にはれていました。検査の途中でありますが、異常は今のところ認められないということであり、いずれ意識は回復してくるとのことでした。しかし、今日、水曜日の朝になっても意識は回復していません。水曜日のお昼頃、お父さんのお話では、今は麻酔により眠った状態であると言われています。「がんばれー」と少年に向かって叫んでいます。そして、日夜お祈りしています。
「神様、今は意識不明のまま、その体が懸命に生きようとしている少年を助けてください。彼に回復に向かう力を与えてください。お医者さんの回復への術を増し加えてください。両親をはじめ彼を愛する人々に導きを与えてください。
神様、あなたの出番です。私達は日ごろ神様を忘れ、なにもかも自分の力で生きていると思っているのです。うまくできて人から褒められるとき、自分の力はたいしたもんだと自負しています。結構、苦しいことがありましたが、ちゃんと切り抜けています。みんな自分で自分の道を歩いていると思っているのです。しかし、神様、今こそあなたの出番です。あなたのお力が必要なのです。あなたの奇跡をも生み出す力が必要なのです。今になって思います。何もかも自分で切り抜けてきたと思っているこの私に、神様がどんなにか力を下さり、導きを与えてくださっていたのです。それなのに、私は私の功績であるかのように思っていたのです。何もかも私の人生はあなたのお計らいでありました。いつだってあなたの出番であったのに、私の出番としていたのです。出番と思っていただけで、何一つできなかったはずです。あなたが終始出番をされたからこそ、今の私があることを、いまさらながら知ることができます。もう、私の出番なんか考えません。あなたの出番です。あなたの御力を現してください。意識のないままに生きようとしている少年に、どうぞ力を注いでください。癒しの御手、支えの御手を差し伸べてください。この悲しい、苦しい時にあなたに切なる願いを続けている両親と家族に御心を示してください。そして、現れるべき結果において、勇気を持って受け止めていく力を与えてください。慈しみをもって私達を導く主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン」
その後、少年は意識を回復しました。随分と長い間でしたが、ようやく回復し、徐々に普通の生活に導かれて行きました。そして、私が大塚平安教会の最後のクリスマスを迎えたとき、彼のお姉さんと共に洗礼を受けたのです。彼はまだ小学校4年生でしたが、イエス様を信じる歩みは、洗礼をうけることによりさらに強められたのでした。高校はキリスト教主義の学校に進みました。お父さんのお話によりますと、寮生活をしていましたので、夜食にみんなでカップラーメンを食べるそうですが、食前の感謝のお祈りをささげていただいているということでした。イエス様に会って祝福のうちに成長していることをうれしく思っています。苦しい経験をしましたが、「喜びの人生」へと導かれているのです。
神さまのお恵みの福音をいだいている私達は、その喜びの基は主イエス・キリストにより、神さまがくださっていることを知らなければならないのです。何もかも、イエス様によって神さまが私を導いてくださっているのです。私のこの現実にお恵みが与えられ、イエス様の福音、十字架による救いが与えられているのです。「神さま、あなたの勝ちです」、「神さま、あなたの出番です」と言いつつお恵みの福音を喜びつつ生きることなのです。何事も神さまの御心を基として生きることを示されたのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架を仰ぎ見ることができますことを感謝いたします。十字架を基として歩むことができますよう御導きください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン