説教「福音の伝達者」

2021年8月1日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第11主日」              

                      

説教・「福音の伝達者」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨナ書3章1-5節

   使徒言行録9章26-31節

   マタイによる福音書10章5-15節

賛美・(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」、

   (説教後)讃美歌21・561「平和を求めて」

日本基督教団は毎年8月の第一主日を「平和聖日」としています。平和は常に祈っていますが、言うまでもなく8月は戦争に関わる記念の日があるからです。8月6日は広島に原子爆弾が落とされ、9日は長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となりました。核兵器が使われたのは日本が初めてであり、今でも被爆された人たちの苦しい生活が続いているのです。8月15日は敗戦記念日であります。原子爆弾が落とされた日を記念日と称するのは、傷みと悲しみを記念することであり、二度と戦争を起こしてはならない、核兵器を廃絶するという切なる祈りの日であるからです。日本基督教団は平和を心から祈る日として、8月の第一主日を 「平和聖日」としているのであります。

 日本が戦争の負けを受け入れた日が敗戦記念日であります。1945年8月15日でありました。私は1939年生まれですから、敗戦を迎えたのは6歳でありました。横浜のはずれに住んでいましたので、空襲等の戦争体験はありません。しかし、アメリカの爆撃機が到来するたびにサイレンが鳴り、急いで防空壕に非難したことは覚えています。頭の上の空を爆撃飛行機が横浜や東京方面に編隊をなして飛んでいく光景も覚えています。防空壕に非難しても、この辺は大丈夫と思っている人が多く、一度は防空壕に入りますが、出てきて飛行機の数を数えたりするのです。横浜の市街地方面の空が赤くなっていることも忘れることはできません。そのようなことを思い出していますが、今の世界を示されるとき、戦争がいつ始まるか、不安な状況です。北朝鮮による核開発、爆弾の実験が続くとき、世界の人々が不安になっています。アメリカがどう出るのか、場合によっては戦争が起こるかもしれないのです。世界のいろいろな場で戦争が起きており、それによる難民の救済も大きな課題になっています。戦争の恐ろしさ、悲惨さを忘れつつあるのです。

 いつの世の中にも示されることですが、大変な世の中に神様が御心を示されているのであり、この時こそ御心をいただかなければならないのです。

 今朝のヨナ書は預言書の中におかれています。ヨナ書を読むと、預言というより物語であります。従って、これは物語的に神様のお心を示しているのであります。

 少し物語を見ておきましょう。ある日、ヨナさんは神様のお告げを聞きます。「さあ、大いなる都ニネベに行って、これに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」と神様は言われるのであります。ヨナさんがニネベに行き、悪に染まっている人々に神様のお心を伝えなさいと言われているのであります。ところが、ヨナさんはその神様のお告げから逃れようと、ニネベではない、別の方角に行く船に乗ってしまうのでした。ヨナの乗った船が航行していると、嵐になり、船が沈みそうになります。船の人たちは積荷を海に捨てたりして、難を逃れようとします。そして、こんなに船が嵐によって災難を被るのは、誰かのせいであり、その誰かを突き止めるためにくじを引くことになりました。くじはヨナに当たりました。そこでヨナさんはありのままを話します。神様のご命令を逃れて、別の船であるこの船に乗ったこと、この嵐は神様の私への怒りであり、だから私を海の中に放り投げてもらいたいというのです。躊躇する船の人々ですが、ヨナさんの申し出の通り、ヨナさんを海の中に放り投げるのでした。すると嵐はぴたりと止まり、船は静かに航行できるようになりました。海に放り投げられたヨナさんは大きな魚に飲み込まれてしまいます。そして、その魚の中で三日三晩過ごすのでした。そして祈りのうちに過ごしますが、心からなる祈りをささげたとき、魚はヨナさんを吐き出しました。吐き出したところがニネベの都でありました。

 そして今朝の聖書になります。ヨナさんはニネベの人たちに、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と一日中叫び続けたのでありました。すると、ニネベの人たち、王様も粗布をまとって神様にお祈りをささげるのでした。粗布をまとうということは悲しみを表す行為です。こうして国中の人々が粗布をまとって懺悔のお祈りをささげましたので、神様は悪に染まったニネベを滅ぼすことを思いとどまったのであります。

 神様はこの地上のすべての人々に、神様の御心を示し、平和をお与えになっているのです。平和の実現、神の国実現へと導いておられるのであります。聖書の人々以外の人々への伝道でありますが、聖書の人々に対して外国人であるニネベの人々が粗布をまとい、心から罪の悔い改めをする、聖書の人々以外の外国人も救いに与ることが示されているのです。神様の救いは全世界の人々に与えられているのです。神様の平和は全世界の人々に与えられているのです。自分を見つめ、悔い改めることが平和の根源であると示しているのです。

 主イエス・キリストは聖書の国ガリラヤ地方で伝道を開始しました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われ、神様の福音を宣べ伝え始められたのであります。そして、まず4人のお弟子さんを選びました。ペトロさん、アンデレさん、ヤコブさん、ヨハネさんであります。今朝の聖書は既に12人のお弟子さんが選ばれています。今朝の聖書の前の段落、9章35節以下に、主イエス・キリストが人々に同情したことが記されています。主イエス・キリストは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」と言われたのであります。世の人々は弱っているとは主イエス・キリストの指摘なのです。打ちひしがれていると言われるのです。神様の平和がないことを示されているのです。まさにその通りであります。だから、そのために私たちが働き人として選ばれているのです。

 「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とイエス様は示していますが、その後の10章ではイエス様が12人のお弟子さんを選び、それぞれの場に派遣していることが記されています。10章5節以下に12人のお弟子さんを派遣するにあたり、その心構えを示しています。最初に「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と示しています。異邦人やサマリア人は外国人であり、今朝のテーマからすれば外国人伝道が奨励されるべきであります。しかし、イエス様はまず聖書の人々への伝道を奨励しているのです。聖書の人々はユダヤ教の社会です。その社会の中に現れたイエス様は、人々が「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」状況を御覧になりました。歴史を通して神様のお導きをいただいている聖書の人々なのに、弱り果てている姿を御覧になるのです。まず、これらの人々への救いが必要なのです。それでお弟子さん達を「イスラエルの家の失われた羊」へと派遣するのでした。「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさいと示しています。「病人をいやし、死者を生き返らせなさい」と命じています。そのために、お弟子さん達には「汚れた霊に対する権能をお授けになった」のであります。

 私たちが人々にイエス様の福音をお伝えするのは、神様の「平和」を示しているのです。神様の「平和」こそ、この世の真の平和なのです。お互いに喜びの生活が与えられるようお祈りすることです。聖書の人々が人と挨拶するとき、「シャローム」という言葉で挨拶します。「あなたに神様の平安がありますように」と言い合いつつ、お互いの存在を喜びあうのでした。日本の私達は「こんにちは」ですが、「今日は良いお天気ですね」と言っているのですが、後の部分は省略して、「今日は」だけの言葉になっています。「こんにちは」にも、相手の姿をお祈りしている意味が含まれていると思いますが、やはり表面的な挨拶になっています。「シャローム」と挨拶する場合、相手の存在をお祈りしているのです。

私達も礼拝が終わりますと互いに挨拶をしています。「あなたに平安がありますように」と互いに相手の祝福をお祈りしているのです。この挨拶は、大塚平安教会に在任している頃から行うようになりました。いつも、礼拝が終わると、お互いに挨拶もなく、挨拶したとしても、「お元気ですか」くらいの挨拶なのです。最初はなかなか馴染みませんでしたが、この挨拶をすることで、喜びが与えられるようになりました。夫婦で出席した時、夫婦で祝福の挨拶をするのですから、大きな喜びでもあります。このように祝福を祈りあうことにより、平和の実現が導かれてくるのです。まさに福音の伝達者なのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを感謝致します。平和の基、福音を多くの人々に伝えさせてください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。

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