説教「キリストのお招き」

2021年7月25日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第10主日」              

                      

説教・「キリストのお招き」、鈴木伸治牧師

聖書・ホセア書6章1-6節

   コリントの信徒への手紙<二>5章16-21節

   マタイによる福音書9章9-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・357「力に満ちたる」

   (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」 

  毎日、暑い日が続いていますが、言われていることは水分補給と適当な塩分、そして涼しい環境で過ごすことです。涼しい環境を作ることはエアコンや扇風機が必要でありますが、日中の暑い日差しを避けることであります。暑い日々を過ごすとき、以前のことですが、2013年3月から三ヶ月間、マレーシアの首都クアラルンプールで過ごしたことが思い出されます。そこには日本語キリスト者集会がありまして、礼拝をささげつつ皆さんの歩みが導かれているのです。今までの牧師が退任しました。しかし、その後の後任の牧師が決まらないので、日本基督教団の隠退牧師が三ヶ月ずつ交代で赴くことになったのです。私は五番目の牧師として務めてまいりました。マレーシアは赤道直下の国で、常夏の国であります。さぞ、暑い日々を過ごすのであろうと赴きました。確かに暑い国ですが、常時外を歩いている訳ではありませんので、家の中にいれば冷房の効いた室内なので、暑さを感じませんでした。だいたい午後になると雲が出てきて、雷が鳴り響きます。ものすごい雷の音です。やがて雨が降ってくるのですが、スコールと言いまして、どしゃ降りの雨になるのです。だいたい1時間くらい降るとやみますので、後はまた暑い日差しになるのです。日本のように雨がしとしとと降り続くことはありません。一時の雷雨であります。一時の雷雨は道路がきれいになりますし、車もきれいになるわけです。

 日本語集会に集まる人々は、滞在ビザを取得している人々や、企業から派遣されてきている人々が集会を持っています。さぞ暑いと思っていた集会ですが、室内は冷房が効いて、むしろ寒いくらいでした。暑い国の人々ですが、礼拝にはいつも出席しているのです。どのような状況でありましょうとも、真実の礼拝をささげている皆さんであると示されました。 

 真の礼拝ではない、偽りの礼拝をささげて、厳しく問われたのは聖書の人々であります。今朝の旧約聖書ホセア書6章は「偽りの悔い改め」について示しています。ホセアという預言者は自分の体験を通して、神様のお心を示され、人々に語ったのでありました。それも夫婦の関係であり、その夫婦の関係が破れる経験を持つのであります。そういうことは人には言いたくないのですが、ホセアから離れ、他の男性のもとへ行ってしまった妻の姿から、人々の姿を示されるのでした。すなわち神様と聖書の人々は夫と妻、夫婦のような関係なのです。聖書では神様と聖書の人々との関係を花婿、花嫁の関係として示しているところもあります。それほど密接な関係であるというのです。ところが神様から離れ、他の神、すなわち人間が造った神に心を向けるようになります。密接な関係を破ってしまう人間の姿を示すのは、旧約聖書預言者の働きでした。神様を仰ぎ見つつ生きることが求められています。

 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」と告白しています。「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と告白するのであります。いかにも信仰的であります。神様の救いの御手を深く受け止め、救われる喜びを告白しているようであります。しかし、この信仰は極めて自己満足的であります。「主のもとに帰ろう」と言い、「主を知ろう」と言うのですが、何処から帰るのかであります。本来、歴史を導く神様に養われていた人々なのです。それが、こういう関係は面白くないと言い、神様のもとから離れていったのであります。偶像の神々のもとへ心を寄せたのであります。他の神に心を寄せる姿を姦淫としています。それは預言者ホセアとその妻ゴメルの関係でありました。ホセアは自分の体験を聖書の人々の中に見ているのです。勝手に「主のもとに帰ろう」という人々には悔い改めがありません。心を砕いて神様の前に跪く姿がないのです。神様のもとに帰って何をしようとするのか。結局、自分の思い通りに生きるだけなのです。これは真の礼拝ではありません。自分の思いどおりにならないので、結局はまた勝手に離れていくのです。

 「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と神様は言われます。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くすささげ物ではない」と言われます。表面的な信仰は受け止めないといわれているのであります。勝手に出て行って、勝手に帰ってくることができるか、心からなる悔い改め、信仰の告白が求められているのであります。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセアは人々に示しています。その言葉を引用して主イエス・キリストも、人々に真の礼拝を示しています。新約聖書はマタイによる福音書9章9節以下であります。9章はイエス様の宣教活動の始まる頃でした。少なくともこの時点では、イエス様のお弟子さんとしてペトロ、アンデレ、ヨハネヤコブの4人が決まっています。今ここで、新たにマタイがお弟子さんに加えられるのであります。マタイは徴税人でありました。聖書の国ユダヤはローマに支配されている状況がありました。ローマのために税金を納めなければならないのであります。しかし、人々は自分達を支配する外国に対して税金を納めたがりません。そのため、税金を集める人たちを面白くない存在と思っています。そういう人たちを罪人呼ばわりするのでした。

そのマタイさんがイエス様の招きを受けたのです。「わたしに従いなさい」と招きのお言葉をいただいたマタイさんは、すぐにイエス様のお弟子さんになり、そしてイエス様をもてなしたのでした。その時、マタイさんの友達の徴税人たちも一緒に食事の席に着きました。聖書には「罪人」も一緒に同席したと記されます。当時の世界では病気の人や体に障害があったりすると罪人と称していたのです。そのように人は、先祖が悪いことをしたからか、本人が悪いことをしたからだという因果的に考える社会であったのです。こうして主イエス・キリストは社会の人々から見放されていた人々と親しく食事をしていたのであります。その様を見たファリサイの人々が批判しました。ファリサイ派とは当時の社会で戒律を厳格に守っている人で、その意味でもエリート的な存在でもあったのです。従って、お弟子さん達に「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言うのです。罪人といわれる人と交わることが禁止されていたからであります。イエス様はそのように批判しているファリサイ派の人々に言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのであります。形だけの信仰ではなく、心から神様に向かい、憐れみを願い求めることであると教えておられるのです。

 イエス様が来られたのは「罪人を招くため」であると言われます。まさにイエス様は当時の社会にあって、罪人と言われていた人々共に交わり、神さまの御心へと導かれたのです。そうすると、現代に生きる私達は、イエス様とは関係ないのでしょうか。教会に初めて来られた方が、帰りがけに、「もう私は教会には来ません。私は罪人ではないからです」と言われました。その日の説教が、「罪人を招くイエス様」がお話されたのでした。「罪人」と言うとき、社会的に悪いことをして警察に捕らえられた人と思われます。「私は罪人ではない」と人々は思っています。「教会に行くと、罪人だの悪人であると言われるので、だから行きたくない」と言われるのです。それらの人々は表面的な罪、結果における悪しか考えていないのです。私達が他者に対してどのように対処しているのか、イエス様は指摘しています。マタイによる福音書5章21節以下、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」とイエス様は示しているのです。このことは結果ではなく、途上であるのです。人との関係の途上において、「他者をどのように思っているか」と問われているのです。「あの人嫌い」、「あの人とは話をしたくない」などと思っている。それも罪なのですよ、悪なのですよ、とイエス様は示しているのです。

神様は私達を憐れんでくださっているのです。このような私だからこそ、神さまの憐れみが与えられているのです。

<祈祷>

聖なる神様。罪人の私を憐れんでくださり感謝致します。神様の憐れみを証しする者へとお導きください。主イエス様の御名によって、アーメン。

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